船上の少年
母国へ戻る為の長い船旅に疲れた壮年の男は、甲板に上がってどうにか気分を紛らわそうと海を眺めたが、船に揺られ、水面も揺れ、視界も揺れて、胃の中も揺れている気がした。
「これを噛むと、気が紛れると思いますよ」
不意に後ろから声を掛けられて振り返ると、くたびれた外套を羽織った少年が、飴玉のような丸い個体を差し出してきた。
切れ長の涼やかな目元で、青みがかった緑色の瞳は神秘的な輝きを放っていた。
「しょうがとハーブを入れて作った飴です。甘くしてあるので食べやすいと思います」
普段は慎重な性格の男だが、少年の曇りのない澄んだ瞳に吸い寄せられるように、その飴玉を受けとって口に含んだ。噛み砕くとすっと爽やかな香りが鼻を抜けて、確かに気分がマシになった気がした。
「帰国ですか?」
気を紛らわそうとしてくれているのか、少年は近くに腰を下ろしてあぐらをかいた。華奢な身体つきは少女の様にも見えた。
「……あぁ、李国で商売をしていてね。三年ぶりに家族のもとに帰るところさ」
「それは、楽しみですね」
少年はにっこり笑ったが、どこか寂し気に表情が陰る。
「もしかして、染物の商売ですか?」
「えっ……どうしてそれを」
「指先が染料で染まっているし、その着物、とても珍しい色をしているなと思ったので」
「あぁ、これは、李国で見つけた珍しい花を使って染めた物なんだ」
少年の観察力に驚き、まじまじと彼を眺める。擦り切れた外套からのぞいた手首に深い古傷があり、先ほど飴玉を差し出してきた手のひらには、何度も潰れて硬くなったマメがあった。
男は少し躊躇ったが「君も、天黎国の出身か?」と尋ねる。
「はい。七年ぶり、くらいですね。国王が代替わりしたと聞いたので、戻ってみようかと」
「あぁ、そうらしいな。次期国王として期待されていた清蓮王子が四年前に急死されて、白羽の矢が立ったのが第五王子だったそうだ。ただ、とても気の弱いお方で、既に側近達の操り人形になっているらしい。この先、天黎国は荒れるかもしれないぞ」
「李国にいたのに、詳しいですね」
男自身、いつもよりも饒舌なのを自覚していたが、どうしてか抑えることが出来なかった。
「俺は生地の商売をしていてね、商人には知人が多い。その中には王宮に商品を納めている者もいるから、そういう噂話はよく聞くんだ」
「王宮に?」
少年の表情が硬くなり、これまでの柔らかい空気を変えて、深刻な顔で黙り込んだ。
七年ぶりに祖国へ戻るというその少年は、まだ十六か十七そこらに見える。十歳に満たない子どもが李国へ渡ったのには、どんな事情があるのか。
壮絶な苦労をしたことは想像に難くない。
「あの、もしよければ、その人を紹介してもらえませんか?」
長い沈黙のあと、少年は重い口調で言った。
「え? その人って、王宮に商品を納めている者のことか?」
「…………あ、いえ、やっぱり何でもありません。今の話は、忘れてください」
少年は眉根を寄せて俯いた。不思議な色の瞳の奥が、闇を湛えた気がした。
「君、祖国に身を寄せる場所はあるのか?」
男は、自分の口がした言葉にとても驚いた。
十年前に亡くなった疑り深い性格だった父親からは『自ら先に相手の懐に飛び込むな』と口うるさく言われていて、自身もそれに倣って生きてきたつもりだった。
しかし、考えるよりも先に口をついて出た言葉は、まさに相手の懐に自ら飛び込むものだった。
飛び込まれた少年は、とても驚いた様子で目を大きく見開いた。
「いえ、あの……」
「もし、ないのなら、俺のところで働かないか? 空いている部屋もある。今なら三食昼寝付きだ」
誰も知らない新しい染物の素材を見つけた時の気持ちに似ていた。この機会を逃したら、二度と出会えない素材。
青みがかった緑色の瞳が、どんな深みを秘めているのか興味がある。どんな色を帯びていくのか傍で見ていたい。
そんな好奇心が男を動かした。
「俺は、紫楽だ」
紫楽は『先に名前を名乗るな』とも父に言われたことがあったが、この瞬間だけはすっかり忘れてしまっていた。
信じられない幸運を見るように瞳を揺らした少年は息を呑み、深々と頭を下げた後に少し声を震わせて言った。
「十季です。どうか……よろしくお願いします」
プロローグとは言ったものの、既に色んな苦難を越えた後の十季ですね。
どんな苦難を越えて来たのかを、徐々に明らかにしていきます。