第六話「魔法に触れた日」
俺は今、ヤヌ婆と家の裏庭に居る。是が非でも「魔法」というやつを見てみたかったのだ。
本当は、彼女が言っていた通り、トゥパに村を案内してもらう予定だった。しかし、つい先ほど月に一度の行商人が到着したらしく、
「生鮮素材の仕入れをお願いしていたので、すみませんが先にそちらへ行かせてください」
鮮度が落ちると使い物にならないんです――そう言って申し訳なさそうに出て行った。そんな困った顔も様になっていたので、少し、いや、そこそこ嫉妬した。やはりモンゴロイドはコーカソイド系の顔に敵わないのか……
とまぁ、そういう理由から時間が出来たので、ヤヌ婆に魔法を見せてもらうようにお願いしたのだ。
「お前さん、ちゃんと話を聞いているのかい?」
「あっ、すみません、聞いてませっ、す!」
「どっちだい」
ちょっとボーっとしていたら、じとっとした目で咎められた。彼女はため息を一つつくと、
「言っとくがね、あたしの講義は王都の魔法学会でさえも滅多に聞けないんだ。そんじょそこらの魔法師なら泣いて喜ぶ環境にいることを自覚しとくれよ?」
そういえばそうだった。この人は、この世界でも有数の魔法師らしい。いや、彼女の話からすると、世界一といっても過言ではないのだろう。事実、彼女に相対すると、圧倒されるかのような強大なオーラを感じる。
「まぁいいさね、話を続けよう」
そう言うと、改めて魔法の基礎を教えてくれた。
「まずは魔素から魔力を作るところからさね」
魔力の生成は、周囲の魔素を吸収して行う。これを〈魔力変換〉といい、一般的には、魔法を使用する際に意図的に行われるものを指す。
「意図的にということは、部屋での話に出てきた〈呼吸のようなもの〉とは違うということでしょうか?」
「如何にも、そういうことさね」
先に説明されていた、〈生命活動の一環で行われる変換〉とは別のものらしい。
「意図的に行う〈魔力変換〉に対して、誰しもが無意識に行うものを〈魔素呼吸〉という。もっと専門的にいうのなら〈受動的魔力変換〉さね」
「それはどう違うんでしょう?」
同じ変換なら、どちらも同じようなものじゃないか――そんな心境が伝わったのか、彼女はヒヒッと笑った。
「似てるようで違うのさ、大きくね。まぁ、魔素呼吸に関しては普通の呼吸と同じだよ。無意識に取り込んだ魔素は勝手に魔力になり、そして勝手に消費される」
なるほど、体内の空気や食べ物を自由に扱えないのと同じことか。言い換えれば、血中の酸素濃度を意図的に変えられない。というのに近いのだろう。
「そして、自由に使える魔力を生成する方法がこれさね」
そう言うと、彼女は背筋を伸ばした。
「静かに深呼吸をしていると、魔素呼吸で消費しきれない魔力が下腹部に溜まっていく。それを全身の気脈に乗せて廻し、魔法を使えるように活性化させるのさ。すると――」
彼女はおもむろに地面の石をつまみ上げ、そのまま砕いてしまった。
「身体強化になる」いたずらっ子みたいにヒヒッと笑う。
「す、すごいですね」
見た目のインパクトが凄い。だって若々しいとはいえお婆さんが石を砕くんだもの。こんなの、若かりし頃のジャッキーにだって出来やしないだろう。
「こんなのは基礎も基礎、それこそ子供だって当たり前にやっていることさね。本当の意味での魔法はここからさ」
彼女は人差し指を立てて軽く揺すった。するとその指先に火が灯ったではないか!
「おおっ! これぞ魔法ですね!」思わず声が裏返った。
「ヒヒッ、随分と嬉しそうだね」
「そりゃそうですよ、夢にまで見た魔法ですから!」
誰しもが一度は神に願ったのではないだろうか、魔法や超能力が使いたい、と。そしてそれを拗らせた結果が、思春期特有の病気であるわけで……。
「とまぁ、これが魔法だ。活性化させた魔力を消費して、様々な現象を引き起こすことが出来る。それに対して、身体強化とは魔法を使う上での副次的効果に過ぎん。だから魔力も消費されないのさ」
なるほど、体内の魔力を活性化させれば自然と強くなると。あれ、でも今朝は強化魔法がどうとか、残留魔力がどうとか言ってたような……
「ヤヌ婆、昨日の俺は強化魔法を使ってたとか言ってませんでした? この身体強化とは違うんですかね」
「ほう、お前さん意外と頭が回るんだね」感心した様子のヤヌ婆。
「意外って……そんな馬鹿そうに見えますかね」
「ヒヒッ、拗ねるな拗ねるな。これでも素直に感心しているのさ」
おほん、と咳払いをすると、詳しく説明してくれた。
「お前さんの言う通り、身体強化とは別に、強化魔法というものがある。これは名前の通り、歴とした魔法だよ」
「とおっしゃいますと」
「身体強化が副次的なものと言ったが、それが魔力の循環によって起こる事なのはもう判るね?」
ん、と首肯で返す。
「その魔力の循環を魔法によって後押ししつつ、全身を魔法で覆い保護する。そうすることで、さらなる身体強化をしつつ、体を守ることが出来るのさね」
有り体に言えば、ブーストとバリアか。
「実を言うとね、さっき石を握りつぶした時は、指先にだけ強化魔法を使ったんだよ。じゃないと石より先に指が砕ける、わかるだろう?」
「はい……つまり、身体強化は筋力や視力、血流などの〈身体機能〉を強化するだけで、皮膚が硬くなったりなどの〈変質〉をするわけではない。ということですよね」
どんなに筋力がある人も、コンクリートを殴れば拳が砕ける。それを防ぐために、強化とは別に保護する魔法を使う、と言うことだろう。
「ということは、厳密に言えば2種類の魔法を使っていることになりませんか?」
ヤヌ婆はふう、と一息つくと目をつむり、困ったように眉をひそめた。
「あんた、本当に魔法について知らないのかい? 今朝といい今といい、物分かりが良すぎる。なんだか、未来から来た魔法師にからかわれている気分だよ」
すっと見開くと、責めるようにこちらを見ている。
「いや、その……理解力はある方だと思いますが、それでも普通の範疇だと思いますよ? 大学は出てますけど、日本ではありふれた事ですし、魔法についても先ほど言った通りに概念はありましたから」
肩をすくめながらそう弁明した。
「んむ、今なんと?」彼女が食いついた。
「……魔法の概念?」
「その前さね」
と言うと〈大学〉、だろうか。
「そう、そのダイガクとやら、それは何かを学ぶところかの? お前さん、元は学生だったのかい?」
「はい、日本では、小学校で六年、中学校と高校でそれぞれ三年、大学で四年学ぶのが一般的です。もちろんそれ以外の選択肢もありますが……」
するとしかめっ面が一転して、ひどく驚いた表情に変わった。
「誰もが十八年間も勉強するのかい! すごいところだね、お前さんの国は!」
小学校に入学するのが五歳か六歳で、中学校卒業までは国が義務化している事を話すと、さらに驚いた。
「なるほどねぇ、納得したよ。お前さんとの問答が不思議なくらいすんなり進んだのはそういうことかい」
そうかそうか――と、顎をさすりながら頻りに頷いている。そんなに感心することなのだろうか?
「お前さんが少し聞いただけで察した強化魔法の仕組みだがね、これは長らく解明されてなかったんだよ。いや、解明されなかったというより、考えもされなかったというのが正しいね……」
そう言って暫し空を仰いだ彼女は、俺を澄んだ目で見つめた。
「魔法は、遥か昔から人々と共に在った。だが、魔法が学問の対象になったのはごく最近のことなのさ――」
火を灯し、水を生み出し、風を呼ぶ。時に対話の手段でもあった魔法は、人々にとっては当たり前のものだったそうな。そんな〈当たり前〉を調べる物好きは多くなく、それが人々から魔法と学問とを遠ざけていたらしい。
「四百年ほど昔に、この世界の魔素が著しく減少したそうだ。その原因は魔王の出現であったとされておる」
その魔王は、この世から多くの魔素を奪い、魔法を自分だけのものにしようとした。だが、その途中で人々に倒されたらしい。
「愚かしい企みこそ防いだものの、減った魔素が戻ることはなかった。ありとあらゆる生態系が狂い、当時の人々を苦しめたそうだよ」
魔素があることを前提にしている生物は、そこで絶滅するか、新たな環境に適合するかの選択を迫られたらしい。地球の場合、酸素が減ったと考えればいかに悲惨だったのかがわかる。
「それまで平和で争いと無縁だった人類は、飢餓に苦しみ、同族との生存競争を余儀なくされたのさ」
「酷いことをしましたね、その魔王は」昔の人々を思うと、不思議と胸が苦しくなった。
「それ以来さね、人々が魔法を研究し出すのは」
ヤヌ婆は、沈んでしまった空気を吹き飛ばすかのように明るく話し出した。
「どうすればより効率的に魔法を使えるのか、魔法を使わずに同じことが出来ないのか。これまで物好きや変わり者とされてきた人たちが主体となって、多くの成功と失敗を繰り返した。そしてその研鑽は、ついには哲学するまでに至ったのさ」
朗々と話す彼女の瞳は、やはり冬の夜空のように透き通り、キラキラと輝いている。どうやら好奇心を抱くと子供のような表情になるらしい。
(うん、恐らくこの婆さんも〈変わり者〉の仲間なんだろうな)
「エーイチ!」
「だっ、はい!」
「魔法とは何か、生きるとは何か、その答えがわかるか!」
考えが顔に出たかと焦ったが、違ったらしい。てか彼女はどうしたのだろう。スイッチ入っちゃってるよね、これ。
「わからんか?」じっと見つめてくる。
「……わかりません」
「本当かの?」にんまりと口を歪めた。
「いや、その、上手く言葉にできないと言いますか……はい」
そんな事を突然に問われても答えられないと思う。普段から禅問答をしているお坊さんとかなら答えられそうだけど。
「ヒヒッ、そういう事じゃよ」今度は嬉しそうに目を細めるヤヌ婆。
「あ、と……どういう事でしょう」思わず首をかしげた。
「言葉には出来ないのだよ、この世の全ては。つまり――」
彼女の言葉をそのままにすると難しいので自分なりにまとめてみた。
そもそも〈言葉〉とは、〈共通認識のための媒体〉である。とのことだ。ある物事を他者に伝えたい、だから言葉が必要だった。言葉の始まりが人の、そして文明の始まりである。――聖書だか福音書に〈はじめに言葉があった〉というフレーズがあったが、それと同じ考え方なんだろう。
「そうして人という種に目覚めを齎した〈言葉〉だが、決して正確なものではなかった」
リンゴが〈リンゴ〉であるのは日本だけだ。例えばアメリカのアップルは、〈アップル〉であって決してリンゴではない。さらに言えば、アメリカの〈アップル〉は、イギリスの〈アップル〉とも違う。同じ言葉でも、それを聞いて頭にイメージするのはその個人である。その個人が生きてきた中で仕入れた情報が、その言葉のイメージを形作るのだ。だから、生きる場所、時間、文化が違えば、当然イメージするものも差異が出る、ということなのだとか。
(確かに、俺がリンゴと聞けば、〈美味しい〉とか、〈赤色〉というイメージが浮かぶけど、リンゴが美味しくない国の人って、きっと違うイメージだよなぁ)
そうしてネットワークのように、互いを補完し合う〈言葉〉は、彼女のいうとおり正確ではないのかもしれない。
「ふむ、わかったようだね」
知らず知らずうつむいていた俺の顔を、彼女が覗き込んだ。
「確かに、大衆に依存するものですよね、言葉って。その言葉のイメージを共有する人が多ければ多いほど、その言葉の正確さが増すと言いますか……」
「その先なのさ、問題は」
ヤヌ婆が嬉しそうにヒヒッと笑った。
「大衆に依存すると言ったが、そのとおりさね。だがね、あたしが言いたいのは、言葉そのものが、比喩であって、〈本質を表すものではない〉ということなんだよ」
「え? どういうことです?」
「言葉は、どこまで正確さを増そうとも〈仮称〉なんだ。お前さんが着ているその服も、仮に服と呼んでいるだけに過ぎん。その服の本質は、そこにある〈それ自身〉が証明し、完結している」
言葉とは違い、少しの過不足もなく、ね――そう言って彼女は目を閉じた。
つまりこういうことだろうか、言葉はどこまで言っても、本質の99.9...%しか表せない。その本質の100%は、それ自身がそこに在ることでしか表せないのだ。どれだけ早くなろうとも、光速に至れないのと同じように……
(あれ? 光速に至れないというのも、もしかしたら言葉に縛られているからでは……)
光ってなんだろう、……波長、粒子、いや、言葉ではダメなんだ。ただそこに在るそれを。
「あ――」
次の瞬間、あの星の世界、その星々たちと繋がった気がした。地球が終わった時と同じように、俺の求める全てを与えてくれた。
――ひか――りとは
「っ――」
――ことばに――は
「うっ」
――がいねんの――として
「まっ待ってくれ!」
そう叫んだ時には、先ほどまでの裏庭の景色が広がっていた。
「どうしたエーイチ、大丈夫か」
ヤヌ婆が心配そうに見ている。
「あっすみません、大丈夫です」
あまりの情報量と不可思議な現象に、つい逃げようとしてしまった。星たちと繋がった時間はごくわずかだったが、それでも光や言葉の本質が少しわかった気がする。それとともに、自分のなんたるか、も。
まるで世界が変わったようだ。空は空で、大地は大地で。これまで自分を縛り付けていた〈言葉〉が、どれほど窮屈で、この世を表すに足りないものであったかを知った。〈はじめに言葉があった〉とはよく言ったものだ、だが、それこそが本質を歪めてしまったのだろう。
「ヤヌ婆、わかりました。言葉では言い表せないくらいに、心が理解しました」
そう、言葉では表せないのだ、この世の何もかも。
「ヒヒッ、なんだい。教えがいのない弟子だったね」ヤヌ婆は頬を緩めた。
「理解したのなら、あとは実践さね」
「はい」
自信を持って、静かに返事をする。今の自分にならきっと出来る。指先に炎を灯すことも、転移でさえも……
ヤヌ婆が見つめる中、俺は息を深く吸い込んだ。