18話 絶望は、やがて希望へ
魔人カオセルスは少女を痛ぶることに、そろそろ飽きを感じはじめていた。
いくら痛ぶっても反応がなく、ぐったりと無反応。
噛みすぎて味が無くなったガムは美味しくないのと同様、弱者は痛ぶられ泣き喚いたり、抵抗したりする時が最も輝く時であり、それが過ぎてしまえば旬を終えたと言っても過言ではない。
今の少女──風流楓は見事にその状態に当てはまる。つまり、彼女は弱者であり、また味が無くなったガムでもある。
この後、彼女がどうなってしまうのかはカオセルス次第。
依然として噛み続けるのか、はたまた吐き捨てられるのか──少女の命運は全てカオセルスが握っていた。
そんな中、散々の蹂躙により少女の返り血を浴びたカオセルス。彼は己の指に付着した少女の血に魅入ってしまう。
次第にカオセルスの頬には綻びが生まれる。
濃厚な赤色の血。それは至って健康で、鮮やかな赤が食欲をそそった。
「そろそろ頃合いかしらぁ……」
まずは指に付着した血をペロリ。
瞬間、ドクンッッ!! と自分の中の何かが弾ける。
「こ、これは……」
それに可能性を見出したカオセルス。ボロボロになった少女の身体をまじまじと見ながら、その手は少女の出血部へと伸びる。
そして、再び血を舐めとる。
ドクンッッ!!
「美味だわぁ……」
カオセルスは血に対して恍惚の色を見せ、その頬を赤く染める。
「これだわぁ……! これが俺が探し求めたものッッ! こいつを喰らえば、俺は……俺は……」
歓喜に満ち、ご馳走を前に滴るヨダレを拭う。これを喰らうことにより、後に訪れるであろう快楽を考えるだけでも至福。
だが、それは憚れてしまう。
「…………ぬぐっ!!」
突如として、襲ってくる身体中の痛み。
身体の全細胞が暴れ狂うような、未知の感覚だった。
「ウウォォォォォォォォォッッッッ!!」
咆哮する巨体。
カオセルス自身、何が起こっているのかわからず苦しみ悶える。
「……こ、これは……毒!? は、図ったわぇ!! 小娘ぇ……!!」
ピクリとも動かない少女に向けられる憎悪を含んだ眼光。これは危機予測を怠った──味見のつもりだったのに、目の前のご馳走に目を眩ませ先走ってしまった、己のへの戒めも含んでいた。
愚かだった。未熟だった。
瀕死の少女にしてやられるとは。
だが、
「違うこれは……!」
それを理解した時、少女に対する憎悪は感謝へと変わった。
「す、すごいわぁ!」
漲る力。
滾る魔力。
カオセルスは風流楓の血を舐めたことにより、その力を増幅させたのだ。
決して毒ではない。あの苦しみは進化へと苦痛だったのだ。
その姿もみるみると変化していく。
口は裂け、般若の如く剥き出す八重歯。頭部からは歪んだ二本の角が飛び出す。巨体はより大きく。首、腕、脚の筋肉はより筋肉質となり、醜さを増幅させる。
もはや、以前の面影は皆無。
化物はより化物へと変貌した。
やがて、進化は止まり一時安泰。
「……はぁ……はぁ……。すごい……すごすぎるわぁ! たった少し舐めとっただけでこれだけの力……。丸ごと喰らえば、魔王様の果実になることは確実! しかし、ここまでとは思わなかったわぁ。ちまちま、魔力の低い人間共を喰らっていたのが馬鹿らしかったわぇ……ほんと……」
込み上げてくる興奮。だが、それを抑え自制する。
──まだ。まだ。まだ。まだ。
好物は最後に食べるのがセオリーのカオセルス。
味見はすれど、じっくり味わうならばもっと整ったところで食事をしたいと、几帳面な性格が表へと出る。
魔人は人に在らず。しかし、魔人は人に近いモノ。
故に、人間らしさが彼にはある。
しかし、それが仇となる。
「こ、この……ば、化物……!」
突如として、背後からの少女の声。
「く、くらえ! ファイアッッ!」
それに背中に違和感。
「ああん?」
振り向くとそこにはブロンドの髪の少女が憎悪と恐怖の入り混じった表情でこちらへ杖を向けていた。
彼女はユーリである。
彼女は一部始終をこの部屋の扉の外で見ていたのだ。
甘木夏が殺される様。
風流楓が蹂躙されていく様。
魔人の進化の様。
そして、魔人が風流楓を喰らおうと目論む様。
しかし、それらを見ていく中で何も出来なかった。そんな自分に負い目を感じて、今に至る。
ユーリは決死の覚悟だった。
杖を持つ手は震え、身体を支える脚も震えている。恐怖のあまり失禁しそうだ。でも、魔人へ攻撃してしまった以上、もう後戻りは出来ない。
「今、俺に攻撃したわねぇ?」
「…………ひぇ……」
やはり、効いていない。自分の未熟な炎系の魔法では、魔人を傷つけることは出来ない。
だが、気は確かに引けた。
これで風流楓への意識は完全にこちらへ向けられている。
そう思ったユーリは、再び攻撃を試みる。
「ファイアッッ! ブリザードッッ! ストームッッ! サンダーッッ」
だが、どれも下級魔法。焼け石に水状態である。
その辺の魔物ならまだしも魔人はこの程度じゃ、傷一つつけられない。
知っていた。
知っていたけれど、何もしないよりかはマシだ。気さえ引ければいいのだから、これでいい。
正直言うと、恩人である風流楓が死ぬ様なんて見たくないというのが本音──つまり、先ほど死んだ甘木夏と同じ道理での特攻だ。
こちらへ気を引きつけ、殺され楽になる──風流楓を残して死ねば、時点で負い目など感じずにいられるのだから。変に生き延びようと逃げるなら、死んだ方がマシなのだ。
逃げれる可能性なんて皆無に等しい。見るに魔人はその力をどんどんと増幅させている。このまま世に放たれれば確実に周辺地域は壊滅するだろう。
なら、いっそのことここで死んだ方が──家族もいなければ帰る場所も友達もいない。皆、魔人に殺されたのだから。
──私ももうすぐ行くから。
「ぜんっぜん! 全然効かないわぁ!」
「うるさいうるさいうるさい! 私の居場所、家族──全部返して!」
言いながら、再び放たれる魔法。
半ば諦めているのに。戻ってくるはずもないのに。仇なんてとれるわけないのに、ユーリはそれに怒りや悲しみを込め攻撃。
噴煙立てど、そこには傷一つない魔人が佇む。
魔装持ってしても敵う相手では無いことは風流楓の今の姿から容易に想像でき、百も承知。
──でも。
やらなければ気がすまない。
「お前のせいで家族が居なくなった。お前のせいで村が無くなった。お前のせいで夏様が死んだ。お前のせいで楓様も……。お前のせいで……平穏な日常が……!」
ユーリの攻撃は止むことを知らない。
下級魔法のラッシュが魔人に直撃する。
だが、依然として魔人は無傷。
「そうか。お前、あの村の生き残りかぁ……。哀れな娘だわぁ、全く」
「うるさい! しねぇ!」
噴煙から垣間見える魔人の綻んだ口元。
──憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
──殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい。
何がそんなにおかしいのかと、ユーリは憎悪の感情を歪める。
「お前もこいつらと同じ道を歩むといいわぁ」
そして、向けられるのは傍に落ちていた同族の生首。
魔人は安らかさと苦し悶えた表情の入り混じった生首をユーリの足元に向けて投げつけた。
「…………あ……ぁ……」
それは奇跡なのか、偶然なのか、運命なのか、幸運なのか不運なのか。
「…………お父さん……」
こんな形で再会を果たす親子。
そこにはかつて幸せを与えてくれた家族の1人ユーリの父親の生首が横たわっていた。
救うはずだったのに。
また、幸せを感じる日々を過ごすはずだったのに。
無残にもその夢は儚く散りゆく。
その果てに待つのは精神崩壊のみ。
「…………あ……ぁ……あぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ユーリは慟哭するしかなかった。
もはやユーリの自我を保つのは細い一本の糸のみ。これが切れてしまえば、もう彼女は以前のユーリではいられなくなってしまうだろう。例えこの死地から生き延びたとしても、彼女は暗闇の中で心を閉ざし、未来は無い。
だが、そんなユーリに対しカオセルスはさらなる追い討ちを試みる。
「いいわぇ……そういうの。人間のそういう顔、嫌いじゃないわぁ……。そうだぁ。これから俺と一緒に食事でもどうかしらぁ? 俺はこの小娘を、お前は足元の生首を。もっとその顔が見たいから、是非一緒に食事をしようじゃないぃ?」
「………………ぁ…………」
首を縦に降るなんて言語道断。だが、『嫌だ』と言う気力すら残っていない。
──もう早く殺してほしい。
素直にそう思った。
人間、どうにもならない状況になると大半の者がその場で脱落──諦めてしまう。それはユーリも例外ではなく、甘木夏や風流楓も例外ではなかった。
その結果が、この惨状である。
傍に原型をとどめていない潰された頭を持つ甘木夏、えぐられた右目が痛々しいボロ雑巾のような風流楓。
状況が状況で、希望を持つことすら許されない。
──早く殺して。
思いながら、ユーリは顔を涙で汚し、崩れた。
もうどうしようもないのだから。どうすることも出来ないのだから。せめて泣きたかった。
「あらぁ……。残念ねぇ。せっかく、楽しい食事をと思っていたけれど……なら仕方ないわぁ。お前もあの男と同じように殺してあげるわぁ」
そして、掴まれる頭部。
ユーリはゆっくりと上部へと持ち上げられ、魔人の顔を拝むことに。
「…………たい……い……たい……」
痛かった。このまま頭を掴まれた状態でいれば、確実に甘木夏のように……。
考えただけでもギョッとする。しかし、死ぬためには、これは必ず通らなければ道である。痛み無しで死ぬことなんて、安楽死以外にないのだから。仕方ないのである。
痛いけど死にたい。
逃げたいけど死にたい。
様々な感情が入り混じった果てに待っていたのは、猛烈な吐き気と再び溢れてくる涙。
涙は止まることを知らい。ダラダラと、未練たらしく零れ落ちる。頬を伝い、這うように流れ落ちる雫。それはやがて、下部でユーリの最期を見届ける魔人の顔へと付着。
それがカオセルスの頬で弾けた時、ユーリは最期を迎える。
「…………汚ったないわねぇ。いつまでもめそめそと……いい加減にしてちょうだいぃぃ!!」
皮切りに、カオセルスの手に力が入る。
「…………たい……たいよ……いだ……い……」
手の力と呼応するようにそれはメキメキと音を立てる。恐らく、頭蓋骨が悲鳴を上げているのだろう。
息すらまともに出来ぬ痛み。声を上げることすらままならなかった。目は霞、眼前の化物の姿はおろか、周りすら見えず。果てに、意識は途切れゆく。
──もうすぐ死ぬんだ。
死を前に死への実感を得た。
──お父さん、お母さん、私、もうすぐ行くから。
──────────。
刹那。
「死なせねぇよ」
途切れゆく意識の中でとある少年の声が聞こえた。
絶望は、やがて希望へ。




