1話 異世界
サーっと流れるような風の音が聞こえてくる。
程よい温度の風が心地よく身に染みた。
「ここは……」
辺りは薄暗く、木々に囲まれていた。
どうやら、僕は森の中で目覚めたらしい。にしても、何故……。
「そうか」
僕はハッと思い出す。
あの神様と出会ったこと。
僕のいた世界が滅んでしまったこと。
唇にキスをされたこと。
魔王を倒してこいと命じられたこと。
そして、その暁には世界の修復と復帰、また願いを一つだけ叶えてくれること。
それは夢ではなく、さっき何処か遠くの世界で起きた事実──現実なのだ。
しかし、それはあまりにも現実とはかけ離れていて、自身何が起きたのかあまり理解が追いつかない。
だけど、その中でふと思い出すあの感覚──。
まだ僕の唇には神様の温もりが残っていた。
★
途方もなく、僕は森の中を彷徨っていた。
ここは日常ではなく、非日常である異世界だ。モンスターや魔物といった危険生物がいつ飛び出してくるかもわからない。
そんな恐怖にビクビク怯える僕がいた。と言うのも、今の僕は学校の制服姿で武器なども無い丸腰の状態だ。もう、なんと言うか、いつ死んでもおかしくない状況なのである。
時に僕は思い出す。
『魔力解放の儀』
それはつまり、神様に口づけをされた今の僕には魔力が宿っている、と。何なら、魔法が使える、と。
しかしながら、魔法の使い方なんて僕は知らない。いくら魔力が解放されたからといって、それの使い方を知らなければ何の意味もないのだから、それは至極当然のことだ。
試しに右手を前に向かってかざしてみるが何も出ない。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
なんと言うか、何なら僕はここで死んでしまうのではないのかとも思い始めた。
早く町か村に辿り着いて寝床につき安堵したい……。
夜気に震えながら、木々の間から垣間見えるまんまるなお月様を見上げ、そんなことを考えていた。
この世界にも月はあるのか、なんて有りがちなことも思ってみたり。何だか、寂しい。
そんな時だった。
カサカサと何処から物音がした。
思わずビクッとする。
震える手。
震える足。
震える身体。
「……ま、まさか……」
その言葉の通り色んな不安が脳裏に浮かぶ。
危険生物か物盗りか。
ここは異世界だ。そういう系のゲームをやったことがあるのならばわかることなのだが、こういう時チュートリアル的な感じでまず危険生物とエンカウントする。
そこでだいたい戦い方やら操作の仕方やらをレクチャーしてもらえるのだが、如何せんここは現実だ。
レクチャーはおろか戦い方すら知らない僕は死を待つのみである。
「ギュルルルルル……」
獣独特の唸り声と共に草陰から出てきたのは四足歩行の獣たち。
「やっぱり……」
やはり出てきた危険生物。運が悪いのか、それが当たり前なのか、お約束なのか。
「ギュルルルルル……」
赤く光る眼光。見てくれは狼のようだが、頭に一本の角が生えている。そして、人を丸呑みにしてしまいそうなほどの大きな口。そこからは大きな八重歯が見える。
奴らは地にまで垂れた尾をバシバシと叩きながら、僕を見て唸る。僕のことを餌として認識しているのだろうか。今にでも飛びかかってきそうな殺気が奴らから伝わってきた。
目測だが、奴ら狼もどきは五匹ほどいるようだ。狼もどきは、僕の逃げ場をなくすためか、僕の周りを囲むようにして、一定の距離を保ちながら円状に広がっていく。辺りをぐるぐるぐるぐる、と。
下手に動くと殺される。
そう思った僕は下手に動けず、その場でたじろぐ。額から変な汗が滴ってきた。
やばい。死ぬ。
脳裏にはそれらの単語が入り混じり、一瞬でも気を抜けばその場で失禁してしまいそうだった。
逃げるにも逃げれず、ただ時間だけが過ぎていく。
やがて、膠着状態が続く中、それはやってきた。
狩りの時間だ。
一匹の狼もどきが、物凄い勢いでこちらへ向かってきた。それを皮切りに次々と…………。
死んだ。もう、ダメだ。
僕はあまりの恐怖に目を閉じる。キャーだのわぁーだの叫ぶことなく、噛み殺される時に伴う痛みに耐えるために、僕は全力で力みその場で縮こまる。
時に思った。こんな時こそ、あの魔力解放の儀で僕の中に培われた魔力を解き放てないものなのか、と。
しかし、ここは異世界であっても現実世界だ。そんな奇跡、起こるはずがない。今の僕に出来ることなど皆無なのである。
死んだ……。
刹那、紅い花が咲き乱れる。それは酷い、何処か残酷で惨たらしい音を立てる。
「…………え……」
聞こえてきたのは、汚く生々しい音。そして、次にボテッという重量を持つ物が複数地へ落ちた音が聞こえた。
「……なんだ……これ…………」
違う形だけれども奇跡は起きた。
目を開け辺りを確かめてみると、先ほどの狼もどきが無残にも首をスッパりとやられいて、倒れ込んでいた。辺り一面に広がる無残な光景に僕はギョッとする。同時に安堵もした。
「……全く、何をやっているんですか」
呆れたような物言い。誰かが出来た血だまりの上をペチャペチャと音を立てながらこちらへ近づいてくる。僕を助けてくれた──狼もどきたちを殺した人物なのだろうか。
「えっと、甘木夏さんでしたっけ?」
僕はこいつを知っている。
風流楓。
あの世界にいた僕と同じ境遇の少女だ。
長い黒髪が特徴的で、所謂黒髪ストレートロングというやつだ。身長は恐らく百五十センチもないくらいで、小柄というか華奢というか。綺麗な白い肌と整った顔立ちも相まってか、まるで人形のよう。そして、彼女の瞳。まことに紅くて妖美である。人間離れしたその美貌に僕は、一瞬見とれてしまった。
風流楓は浴びた血を拭いながら、キョトンとした瞳で、
「……えっと、どうしたんですか……?」
僕を見つめそう言った。