魔法の使い手の弟子
立体は、人を錯覚に陥れる。
単なる光や色の調合の違いにすぎないというのに、
その違いが、
視る人に、
本当に、
そこにものがあると錯覚させる。
事実を言えば、そこには何もないというのに、
あたかもあるかのように詐欺を行うのだ。
水晶の塊、
いや、
その大きさから、
そこそこの岩といった方がいいだろう。
魔法の使い手の弟子が、
金槌をふるって鑿を打つ。
弟子は、
天窓から多くの陽光を迎えられる部屋で、
なにかを造形している。
師匠の意図など、推察することはない。
いや、そんな余裕があるはずもないのだ。
水晶は危険だ。
なんの防御措置もせずに罅を入れてしまえば最後、
加害者は、
何等かの災いを受けることを覚悟せねばならない。
かつて、嫌いな貴族に自分の胸像をおくった女王がいた。
彼女は嫌いな貴族に胸像が壊されることを計算したうえで送ったのだ。
もちろん、あからさまに水晶だと知れたならば、
いかに感情に走りやすい人物とて、
むざむざ手を出すことはあるまい。
魔法によって巧妙に銅にみえるように細工をした。
貴族はそれを見るなり、
安心して怒りを表現することを選択した。
その瞬間、
女王のはかりごとを洞察した家臣、
その人物は魔法の使い手だったが、謁見室に入った瞬間に、
その人物が主君の名前を呼んだが、すべては遅すぎた。
結果として、その部屋にいたほぼ全員が筆舌に尽くしがたい災難に見舞われた。
弟子は巧妙に防御を自身に施して鑿を振るっている。
師匠、直伝の、
防御陣とはいえ、
扱う相手だけが危険な水晶だけに、
緊張の連続であることに他ならない。
師匠はいみじくも言った。
「そのきらめきの美しさが女の多面性を意味しているようで恐ろしいというが、私は男ではないのでよくわからないわね」
ならば、自分はどうなのだろう?
自分がわかるのか、わからないのか、
自問自答こそが、
この、
恐ろしい宝石を、
刻する意味なのだろう?
具体的には何も教えてくれない師匠だけに、
暗示的に示すだけに、
直接的に決めつけられるよりも、
よほど弟子の心の根幹に染みてくる
ただ、それを言語化するまでにはいかない。
まだ何も具体的に説明してくれない。
できることは、ただ金槌を慎重な手つきで鑿に向かわせるだけのことだ。
水晶はとても危険な宝石である。
学者連中は、
ちょうど金属と宝石の中間に当たると教えている。
いわば、アイノコということだろうか。
それならば、弟子の境遇によく似ている。
しかし、それは弟子の両親が属する種族が、それぞれ違うということだけを意味するのではない。
もっと切実な問題ために鑿を振るっているのだ。
おそらく、師匠は一目で弟子志願者の心の内を洞察し、
いま、弟子が行っていることを命じたのであろう。
若年ながらそのくらいは読める。
本人は自己評価がそれほど高くないが、むしろ低いぐらいだが、
師匠は弟子のそういうところは高く評価している。
だからこそ、彼女は弟子入りを許可したのだ。
本人はまだ入門は許されていないと思っているが、
じっさいは、すでに潜っている。
すでに師匠の御めがねに叶っているのだ。
その自覚がないことを、
弟子について、
師匠は殊勝だとみなす一方、
歯がゆくも思っている。
水晶の欠片が、
彼女の足元にも散る。
それは美しい煌めきを周囲に放つ一方で、
猛毒をも同時に放っている。
あたかも氷が融けて液体になるかのように、
水晶という牢獄に閉じ込められていた魔が放たれる。
それを彼女は美しいとは見なしている。
しかし男どもが騙されるのとはまったく違う意味においてだ。
それを弟子にはわかってもらいたいと思う。
弟子が何も恐れることはないのだ、
いま自分が向かっているものに対して。
ただ、
水晶が削れていく音が軽快すぎる。
調子に乗っているとは言わないものの、
警戒しすぎるということはありえない。
そこを注意してもらいたいものだ。
しかしそれを直言するほどに、
魔法の使い手は甘くなかった。
すぐに教えることは簡単なことだが、
それでは修行者にとって致命的だ。
けっして、血と肉にはならないのだ。
弟子はなおも何かを求めて金槌をふるって、鑿に打ち付け続けて鈍い音を部屋に響かせている。
いったい、
水晶の岩から何が掘り出されるのか、
魔法がかけられた、
師匠特製の金槌と鑿のおかげで、
彫刻の手ほどきを受けたこともない弟子とて、
一定のかたちを塊から掘り出すことができる。
師匠は、それを、
自身の中に流れる血の色に依存してほしいと考えている。
青い血の色のことだ。
弟子は自分に内在するものを理解していない。
だからこれから自分が何を掘り出そうとしているのか、
検討も付いていない。
おそらく、
手と腕が連動して、
勝手な動きをしているのではないか。
スムーズになりつつある動きは、
それを暗示しているように、
師匠の目には映った。
弟子はすでに自分が自分であることすら忘れて、
それこそ、手首から鑿までだけが自身だと見なしていることだろう。
その部分だけが自分だと。
そうなってはならないのだが、
自分で気づいてもらわねばならない。
そうしなければ、自分が掘り出すべきものについてなんら予見することは叶わない。
弟子は噴き出す汗を拭わずに、作業に神経を何とか集中させている。
汗をぬぐうと魔法が解けてしまうと教わっている。
常に水晶が潜在する猛毒に関しては、
意識をそちらに多少なりとも、
振り分けておくべきだろう。
けっして、
一心不乱になってはならない。
これは魔法を会得するうえでもっとも重要なことだと、
師匠はおっしゃっていた。
神々という人智を超えるものに力を付与される以上、
敬虔な気持ちでいることや、
目的のためにできるだけ神経を投入することは、
それが攻撃であれ、
あるいは防御であれ、
治療であれ、
重要なことであろうが、
けっして、自分を失ってはならぬ。
それが、
どれほど過少になったとしても、
芥子粒であっても残さねばならぬ。
いま、
弟子は師匠の教えを忠実に守っていた。
だが、まだ何も視えてこない。
掘り出すべきものが、
姿を見せない。
魔法の使い手がちょうど声をかけようとしたときだ。
弟子の手は激しい連打の後に、
まるで、
その周囲だけが時間を止めたように、
固まってしまったからだ。
だが、
弟子は師匠の言葉を受け付けなかった。
正確には、
師匠が話しかけようとしてくれたことだけで、
十分すぎるほどだったのかもしれない。
弟子が再び動き出すのには十分な動機づけだったのだろう。
弟子の手は先ほどよりも激しく、
かつ、迅速に動いた。
水晶の粉は周囲にまき散らされる。
それに陽光が手伝って、
光の乱反射が美の結晶をつくりだしている。
それを
享受する人々は、
人間として生まれて、
美を理解できる視覚というものを与えられたことを、
きっと、
十中八九は神々に感謝するだろう。
ただし、
無傷でいられるのは、
屈強な竜騎士か、
術を心得ている魔法の使い手ぐらいだ。
だが、使い手は、
弟子が鋭い感受性を備えていることは理解した。
しかしそのあり方が自分たちと何かが違うと思った。
だが、
摑んだと思った違和感は、
すぐに雲散霧消してしまった。
弟子は、
師匠の教えによってかろうじて毒から身体を防ぎつつ、
美を享受することを許されている。
その美は、
しかし、
これから弟子が水晶の岩から掘り出そうとするものに比較したら、
大したことがないように思われた。
師匠は弟子がその境地まで達しているものだと、
すでに洞察していた。
金槌を振るって鑿を打つ行為は、
素人目には変わらないように見えるが、
だんだんと、
迷いがなくなりつつある。
噴き出す汗の量も減ってきた。
身体の制御がうまくいっている証拠だろう。
いい傾向だ。
それでも、
汗が身体に与える影響は、
完全には無視できない。
液体そのものが、
あたかも固有の意思を備えたように動きだし、
宿主から体力を奪っていく。
掘り出すべきものが、
かたちとまでは言えぬものの、
それなりというならば、
視えてこないわけでもない。
ここらで本日は休むように命ずると、
背後にいる、
師匠に向かって振り返ることもなく、
文字通りに音もなく崩れ落ちた。
床に滑落する瞬間に、
魔法の使い手は、
白い手を差し出して受け止めた。
自分の手と腕のなかに受け止められているものが、‘
彼なのか、彼女なのか、
あいにくと、
使い手が母国語としている、
ドレスデン語には、
弟子を形容するのに適当な人称を見出すことはできなかった。
ちょうど、弟子が水晶の中にかたちを摑みかねていることと等価かもしれない。
どういうことなのか、
彼女が仕える君主からは、
領有する土地において第一の使い手だと賞賛されている。
そんな彼女が行為において、
慎重を欠いていた。
使い手は無意識のうちに、
魔法の防壁を構成せずに、
水晶に手を触れようとしてしまった。
ぷちぷちと毒液が吹き出している。
その様は、
まるで氷のまま、水の原型が沸騰しているかのようだ。
水晶は本来は水のはずなのに、
その道を外して、性質を変えてしまったゆえに、
毒をその体内に籠らせたと、
神話学者は説く。
なんにせよ、危険なものに他ならない。
その瞬間、弟子が叫ばなかったら、
致命的とはいわないまでも、数ヶ月は臥床したままの生活を余儀なくされたかもしれない。
魔法の使い手は驚いたのは、
自分がうかつにも用心を怠ったことと、
弟子の感知能力を見くびっていたこと、
それらについてだった。
ほぼ無意識のうちに反応して、
そして、
注意を促したのだろう。
意識が戻っていれば何も覚えていないだろう。
ふと、
弟子が掘り出そうとしているものと目が合った。
弟子については使うべき人称代名詞が確定していないのに、
はっきり彼女だとわかった。
水晶は相変わらず水晶のはず、だった。
ところが、いつのまにか固有の意思を持ち合わせているようだ。
この物体から発されているのは、瘴気か、否か?
おかしいと魔法の使い手は思った。
自己の創造物に自分の顔が映るのは、
そして、
固有の意思が宿ったと錯覚するのはよくあることだ。
だが、
これは、
明らかに瘴気だろう。
一見、無意味な数列に意思性を見出すのに、
これほど明確な証拠は他にありえない。
もしも目の前に展開している出来事が事実ならば、
考えられることはひとつ。
これが芸術作品、
あるいはその萌芽。
弟子はおそらく芸術家の資質があるのだろう。
意識が戻ったときに、
何を告げるべきなのか、
魔法の使い手は、
彼女らしくなく苦慮した。
間違いなく芸術家の資質があるのだと、
無意識にうちに言い直していた。
だが、
相手が弟子にしろ、
目下に対して甘やかさないのは、
彼女の方針だった。
相手に資質を認めれば、なおのことである。
魔法の使い手は、
暫定的な弟子が目を覚ましたときに、
驚きのあまり、転倒してしまうような結論を頭に浮かべていた。
彼女を自分の養女にすることに決めた。
自分の知行の跡取りにするのだ。
魔法をこれ以上、
教授するわけにも、
最終的には使い手として独歩させるために、
主君が、ミラノ教皇に提出する、
魔法の使い手のための許可申請・・
そのための推薦状にサインすることは、
永遠にありえない。
ただ、知行、いや、ドレスデン始まっていらい、
最高の芸術家に、
自分の名前において推薦することができる。
弟子が掘り出そうとしていたものがはっきりと視えた。
だが彼女にはまだ視えてはならないのだ。
それを視えさせるために、
導くのは、
しょせんは戦争の道具にすぎない自分ではあってはならない。
最高の芸術家の名前が、
魔法の使い手の口から迸ったとき、
彼女はようやく目を覚ました。