柳と水面(みなも)
今年もメールが届いた。年に一度だけ必ずメールを送ってくれる人がいる。それは僕が16歳の時から続いていた。今年で10回目だ。僕の誕生日が今年もやってきた。25歳になった実感はなかったけれど、彼女の存在は間違いなく遠くにあった。歳をとることを僕はつかめないままでいた。役所に行って、年齢を増やす書類を申請するわけでもない。突然、何かがうまくなるわけでもない。ましてや超能力が使えるようにはならないし、背中から翼が生えてくるわけでもない。毎日、日々の中で少しずつ積み重なった変化に気づけるように、誕生日はあるんだ。一年に一度だけ区切りをつけて、立ち止まるんだ。僕はそう思った。もう彼女の今の姿は分からない。鮮明に思い出せるのは高校の制服を着たあの子でしかない。僕の頭の中では、彼女はいつまでも17とか18歳のままだ。彼女が遠くに行ってしまったというよりかは、僕の方が彼女から遠ざかったみたいに思えてきた。メールをもう一度読み返した。彼女の今を知る手掛かりがないことは分かっていた。最後の一文は今年も変わらなかった。「今年も林くんにとって良い一年になりますように」と書いてあった。名字で僕の名前を呼ぶ彼女のメールと共に、僕は今年も歳を重ねた。
次の日朝、僕は昨日と同じように会社に向かった。電車の外を眺めると、いつもと同じ景色がそこにあった。四谷のあたりから堀が見え、水面がきらきらと輝き、柳がゆらゆらと微かに揺れていた。外の景色は新宿の喧騒とは打って変った。新宿で空を見上げると、継ぎ接ぎしたみたいにビルがビルに覆いかぶさっているように見える。この堀は僕にとって、電車から眺める近いけど手に触れられない都会のオアシスだった。この1年の間に出会いがないこともなかった。あることにはあった。むしろそれなりに楽しいとさえ思える女性もいた。楽しいと口には出すけれど、虚無感に襲われた。電車に揺られ、遠くを見つめ、それに意識が追いついたころに電車を降りた。帰りも同じ様にして橙色や黄色や白色の灯りが滲む堀の水面を見つめた。柳は暗い色でのっぺりとして輪郭だけがおぼろげに見えた。車のライト、店の看板の光、月の光、あらゆる光を黒い柳が吸いとっているみたいだった。灯りのついていない部屋に着いた。僕はひどく疲れていた。新宿で乗り換えをした記憶がなかった。でもここに僕はいる。スーツを着たままベッドになだれ込んだ。
「遅かったわね。」
髪の毛の短い、女は眠そうな声で僕に背中をむけて言った。僕は何も言わずに、女の右肩をゆっくりと倒した。女の上に僕はいた。僕の上に女はいた。女の顎にそっと手を置き僕は顔を近づけた。
僕は1時間後にその家を出て、自分の家に帰った。電車もバスもない時間だった。タクシーを乗るにはもったいない距離だった。頭の中は、さっきまで一緒にいた女との会話がやかましくざわついていた。誠実さとはなんだろうか。自分にとって都合の良いものを便宜的に、誠実って置き換えているだけじゃないだろうか。灯りがともる部屋の扉を開いた。