28.本質
本多らが部屋を出て行ってから、有紗と海斗は互いに沈黙を貫いていた。
部屋の静かな空気とは裏腹に、有紗の心中は荒れに荒れていた。
急に押し寄せてきた事件の真実。
信用していた人物のまさかの裏切り。
そして目の前にいる少年の目的と正体。
有紗はずっと目を瞑り、今の状況が夢か現実か計り兼ねていた。
「おい、生きてるか?」
その思考を邪魔する不快な声が耳に届く。
「……」
薄っすらと瞼を開き、声の主を視界に捉える。
「言いたいことは分かる。でも、これが現実なんだよ」
飄々とした様子の海斗に、有紗は一層不機嫌になった。
「……あなた、黒縄からのスパイって本当なの?」
「そんなこと今さら知ってどうするんだ? お前はいずれ誘拐されたことすらも忘れるんだぜ?」
「……そうね、そうだったわね……」
会話を成立させてしまったことに苛々してしまう。だがこんな状況で何もせずにただジッとするというのは、逆に心に負担がかかってしまう。彼女はそう自分の心理状態を分析した。
「まあ無事に家に帰れるんだからそれで満足しろ。俺の顔なんかももう見たくないだろう? となるとむしろ都合が良いくらいだ。嫌なことは忘れて、明るい未来へレッツゴーと行こうじゃないか」
海斗は彼女の心情を逆なでするような発言をする。それに対し有紗は、今度ばかりは我慢できなかった。
「そんな簡単に割り切れるわけないでしょう! まさか宇佐美さんまで……」
「俺から見たら怪しさ満点だったけどな」
その言葉に完全に頭に血が上った。
「――ッ!? 何なのよ、あなたは!? もう分からないことだらけ! ……その中でもあなたが一番不可解よ!」
いつもの冷静な彼女は鳴りを潜め、般若を思わせるような怒りを示す。
「だろうな。俺もつい最近まで自分の事が良くわからなかったし。でも大丈夫。お前なら幸せになれるって。俺が保証してやるよ」
海斗は尚も表情を崩さない。
「あなたみたいな最低人間に保障されたくなんかないわ!」
「それは言えるな。これは一本取られた」
有紗は自身の感情を抑えるのに少しばかりの時間が掛かった。
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「……ねえ、一つ教えてくれないかしら?」
どれくらい経ったであろうか。
二人の間にはしばらく静かな空気が流れていたが、意外にもそれは有紗の方から破られた。
どうしても気になっていたことが、彼女にはあったからである。
「……何だ?」
海斗は半眼で答える。
「……先せ……竜崎海斗のGRDには何が残されていたの? あったのは本当に研究データや証拠だけ?」
記憶を消される前に知っておきたかった事とは、竜崎海斗のことであった。彼女は彼のGRDを手に入れて――何かを知りたかった。
だが具体的に何を求めていたのか、その正体は彼女自身にも分からなかった。
「……」
海斗は目を細めて有紗の方を見返す。
「どうせ忘れるんだから、今ぐらい本当の事話してくれても良いんじゃないの?」
開き直ってそう口にする。
海斗はなぜか少しばかり考えていたが、心底言い辛そうに口を開いた。
「……何もなかった」
有紗は決して期待していたわけではなかったが、それを聞いて落胆してしまったことは否めなかった。
「……そう。分かったわ、ありがとう」
「……」
再び音のない世界へと変わりつつあったが、海斗は予想外の言葉を呟いた。
「人間の本質とは何か。……お前の親父はそればっか言ってたらしいな?」
「……」
「お前の本質は何だ?」
急な質問に有紗は黙り込んでしまう。
父が口にしていたのを何度も聞いたことはあるが、彼に分からなかったものが自分に分かるはずがない、と彼女は考えていた。
「……さあ、そんな物分からないわ。私はお父様のような天才ではないし、人間として強くもないわ。……こんな目に遭ってしまうし」
そう発言しながら、彼女は今の自分の状況がだんだんおかしく思えた。
「そうよ。私は結局、自分が憧れた人を追いかけることしか出来なかった。……お父様や先生のように、強固な存在にはなれなかった……」
「……」
「笑っちゃうわね。……誰かに頼らないと生きていけないなんて……」
自虐的な言葉に対し、海斗は真剣な面持ちだった。
「……そんなことはないだろう。人間は弱いんだから」
「そうかしら? 今まで私がすごいと思った人たちは、皆自分の力だけで生きているように見えたわ。……お父様、竜崎先生、凛だってそうよ。……宇佐美さんだって、自分に力があるからこんな事が出来たのよ」
「それはお前が彼らの弱さを知らないだけだ」
知ったふうな口をきく海斗に、有紗は再び苛立ちを抱く。
「なんだか説教されている気分ね。……ならあなたの本質とやらは何かしら?」
「……それは……」
少しだけ虚を突かれたような表情を海斗は浮かべる。
「何よ、答えられないの?」
それを見た有紗は、追い打ちをかけるように口火を切る。
何か逡巡する海斗であるが、小さな声で呟いた。
「……俺の本質は偽物だ」
今までにないような悲痛に満ちた顔つきになる。
「……?」
「一つたりとも本物じゃない。……でも別にそれでいい」
「何を言っているの?」
どういう意図を含ませた発言なのか。誰に向けて言っているのか理解できない有紗。
すると海斗は笑みを浮かべて話を続ける。
「……たぶんな、本質とかいうヤツは自分の中にはないんだと思う。少なくとも、俺の場合はそうだ」
「……」
「俺は決して強くはない。でもそれがあるからこの場に居るんだ」
何か吹っ切れたかのような晴れ晴れとした表情。
言い返さないと負けたような気持ちになると有紗は思った。
「……縛り付けられているのに、えらく強気ね」
必死に考えて、精一杯の皮肉を言う。
「まあな、反省はしている。けど後悔はしていない。――他人がどれだけ文句を言おうとも、自分を決して曲げない。そう決めたんだよ」
有紗の反撃も虚しく、海斗は笑顔のままだった。そして彼の目には、例えようがない意志が込められているように彼女には感じられた。
「……そのために私を騙したの?」
自分で言った傍から、有紗は嫌な気持ちになってしまう。
「そうだ」
だが彼女の思いとは逆に、彼は敢然と言い切った。
それを見て、有紗はなぜだか少しだけ溜飲を下がる思いがした。
「そう、分かった。もう聞くことはないわ」
目を閉じて、もう一度心をもう落ち着かせる。
海斗も同じように、言いたいことは出し尽くしたようだった。
それから二人は言葉を交わすことはなかったが、緊張の糸がほんの少しだけ緩んだことに有紗は何となく気づいていた。