プロローグ
竜崎海斗は死にかけていた。
今彼に分かることはたった二つ。自分が倒れている床の冷たさ。腹部と左足に走る炎で炙られているかのような痛み。この二つが彼のすべてだった。
この痛みの原因は、銃によって撃たれたものである。脳みその出来が良い彼はそれを理解してした。
倒れる前に認識できた銃声は四発。そのうち二発が、彼の命を刻々と奪っているのだ。
海斗は必死に痛みに耐える。
自分はここで死んでしまうのだろうか。
死んだら自分はどこに行くのであろうか。
それともやはり死後の世界のようなものは存在しないのか。
他人事のように自分の数分後の未来について考えていた。そして、それらの答えはこのままいけば直ぐに確かめられると気づく。
代わりに今までの人生を振り返るか、と彼は二十六年間の歴史を振り返ることにした。
今まで生きてきた中で一番恥ずかしかった思い出。
それは恩師である二階堂新蔵との出会い。彼は完膚なきまでに叩きのめされたのである。それまで自分の事を天才と疑わなかった海斗にとって、誰かに負けるというということは耐え難い屈辱だった。
今まで生きてきた中で一番悲しかったこと。
やはり生きている間に女性と関係を持てなかったことだろうと彼は冷静に思った。周りの友人や同級生たちが青春を謳歌している中、彼は知識と知性を貪ることに全てを費やしていた。当時はそのことに何も感じていなかったが、この年になってようやく寂しさや悔しさを感じてしまうのであった。
最後に彼は、今まで生きてきた中で一番嬉しかったことを考えた。これはいくつか候補があった。
知能テストで記録的なスコアを叩き出し、両親に褒められたこと。
研究と開発に没頭し、研究者として成功を収めたこと。
挙げてみれば他にもまだまだ出てきそうだった。
なんだ、意外に良い人生だったじゃないか、と海斗は安心した。
彼は、誰かに殺される、ましてや二六という若さでこの世を去ることになるなんて、相当に不幸なことだと始めは思った。しかし、この自主的な作業によって少なくとも生まれてきて良かったと思うことができたのだった。
よし、じゃあ安心して死んでみるか、と彼は買い物にでも出かけるような心境で今までの自分との別れを受け入れた。
最後の見納めと思って、海斗は閉じていた瞼を開いた。彼にとって最後の光景になる。というのにも関わらず、部屋は薄暗く、鉛色の実験装置や乱雑に書類が乗っているデスクくらいしか視界には映らなかった。
こんな光景なら目をつぶったままの方がマシだったな、と彼は心の中で悪態をつく。
ふと海斗は視界の端に、一枚の写真が落ちていることに気づいた。何の写真か彼は目をこらして確認した。
「……あ……」
倒れてからずっと我慢していた声が思わず出てしまっていた。
写真には、白衣を身に付けただらしない表情の海斗、スーツを着こなし厳格な表情を浮かべている新蔵。そしてその間にもう一人、着せ替え人形のようにリースやリボンがあしらわられた服を着た少女が映っていた。
彼の目はその少女を一点に見続けた。
しばらく目を見開いていた海斗は、何を思ったのか必死にその写真に手を伸ばそうとした。
腹部に激痛が走り、体はうまく動かず、意識が途切れてしまいそうになる。
だが彼は歯を食いしばり、這うようにして写真へと手を伸ばし続ける。
やがて体は電池が切れた玩具のように動かなくなった。
視界が閉じ、彼の意識も闇の中に落ちていく。
薄れゆく意識の中で、海斗は手の中にある写真を握りしめ、絶対に死なないと、強く、強く思い続けた。