妾さんと私
肩に食い込む麻紐を持ち替えて、男は山道をふうふう言いながら登っていく。差し込む日差しは麓より随分ましだがそれでもじりじりと男のむき出しの腕をやいた。目的地まであと少しと言うところか、腰に下げた竹筒から水を一口飲んで口元をゆるませる。
あの御方はお待ちになられているだろうか。冬に訪ねた時に使っていらっしゃった季節外れの扇子を今こそお出しになられているだろうか。
榛色の瞳をきらきらと輝かせながら男はコケに覆われた大岩に手を乗せ古びた階段に体を持ち上げた。両側に立ち並ぶ木は男の見たことのないものばかりで慣れたとはいえ毒々しい赤い果実に少しだけ距離を取る。
これをあの御方がおいしそうに食べているところを見たこともあるがどうにも、男は自身が口にすることはためらってしまい、結局甘味にありついていない。
幾らかひとの脚では大きすぎる石段をよじ登り開けた場所に出た。紅のような朱に塗られた鴨居を潜り抜ければ誰も訪ねるものが居ないと思えないほどりっばな造りの屋敷が姿を現す。いつか、神社ではないのかと聞いたらしいがあの御方は黙って首を左右に振った。
神の社など、それほど大それたものではないよ。
あの御方がそうおっしゃるのなら、そうなのだろう。男には関係のない話だ。ただこのお山に昇ればあの美しい御方が待っていてくれる。それだけで太ももにたまった疲労など吹き飛ばせた。
さらさらと風が木の葉を揺らす音を聞きながら最後の一段をよじ登る。木々が途切れた空間にちいさな御堂がさみしげに建っていた。御堂の横には一本の若々しい木が生えていて、その根元に一人の女性が幹を背にして座り込んでいる。
ゆるく波打つ艶やかな長い髪、黒々としたそれは、日の光にすかして見れば深い深い緑だということがわかる。薄い目蓋に閉ざされた瞳は雨上がりの地面のように濃い茶色、すっと通った鼻梁の下には紅もさしていないのに南天のように色づく小さな口。雪国の女よりもまだ白い肌は血が通っていないのではと疑うほどだ。
額の汗をぬぐいながら男は満面の笑みを浮かべる。この夏もまた訪ねることができた。
「お前もよくよく飽きないな」
どうやって起こそうかと考え立ち止まっていると不意に頭上から声がかけられる。男が振り仰ぐよりも前に黒い塊のようなものが降り立ち視界から女性を隠してしまう。あぁ、と残念そうな声が男の喉から洩れ、なんとかまた美しい御方を眺められないかと少し背伸びをしてもみたが男と同じような体格のそれを避けて見ることはできなかった。
「お久しぶりですお犬さん、あの、そこに立たれては困ります」
四方に跳ねまわる栗色の髪の隙間からにょきりと生えている二つの耳、柴犬のようにぴんとたったそれから視線を降ろして行けば眦の吊り上がった水晶のような瞳と視線がかち合う。ひとと同じ造りをした顔立ちは整っているが男に対しての愛想は悪かった。
動きやすいように袖を縫い上げ、帯を腰で締めているがその胸元にはささやかなふくらみがある。男と同じように股引と脚絆を身につけて、身の丈もそれほど変わりがないがこの異形は間違いなく女の身だった。
「困るように立っている。しばらく縁側で待っていろ、主さまが目を覚まされたら連れて行く」
苛立つように着物の裾から伸びている毛だらけの尻尾が震える。これはまずいと行李を背負い直し男は「はい!」と勢いよく答え屋敷の裏手へ走った。
まるで、あの犬は猫のようだ。何度来ても男に懐くことはなく、気まぐれに噛みついてくるのだから。
屋敷の裏手には色とりどりの花が咲いている。蒲公英、躑躅、桔梗、椿、芥子に向日葵とおよそ季節感がないがこの光景が男は一等好きだった。ほかにも様々咲いているが男の知識ではそれが精いっぱいだ。
縁側にちょこんと腰かけもってきた荷物を降ろす。薬や干物、麓で貰った瑞々しい野菜、西に足を伸ばして買ってきた鯨の骨、少しばかり萎れているが夏みかんもまだ食べれるはずだ。あの御方は好まれないが犬が好む甘い砂糖菓子は用意できなかったことが少しばかり悔やまれる。
男は行商人だった。麓の集落で出来る薬を売り歩き、日々の糧を得ているがそれは副次的なものにすぎない。
「おぉ、よく来たのう。茶でもたてようか」
大きなあくびをしながら現れた御方、濃い茶色の瞳にはうすく涙の膜が張って潤んでいる。ふんわりと微笑む小さな顔に、男は何度目かわからない高鳴る胸を上手く隠しにこりと笑った。
「はい、春は来れませんでしたので冬以来になります。御方さま」
隣に座りながら目を伏せた女性の横顔に吸い寄せられる視線を無理にそらし鼈甲の簪をそっと差し出せば白魚のような指先がそれをつまみ上げる。
「そなたの目利きは良い。これからも精進いたせ」
犬が持ってきた茶に口をつけ女性が頬を緩ませた。男も同じように熱い茶で喉の渇きを癒し、どっと噴き出た汗を懐から取り出した手拭いでふいた。
細い指先が長い髪を結いあげ鼈甲の簪でとめる。きらきらと輝くそれよりも、満足そうに頬を紅潮させた女性の方が何倍も綺麗だ。
うっとりと目を奪われている間に犬が広げていた食品を回収して厨に持っていく。夏みかんを見た犬は少しだけ考えていたがやはりそれも手にして立ち去った。
「うむ、悪くない。何度過ごしても妾はこの夏に慣れぬからな」
言いながら女性は庭に降り立ち花を一輪摘んできた。夏の暴力的な日差しの中で嫋やかな立ち姿が焼かれてしまわないかと無駄な心配をするが、女性は軽い足取りで戻ってきて摘まれた白いその花を男の耳元にさしいれ満足そうに微笑む。これが萎れるまでしか男がここにいることは許されない。
「暑いですから。御方様の故郷はもっと涼しかったんでしょう?」
ここは麓にある男の家に比べれば随分涼しかった。家で待っている嫁と娘は例年にないこの暑さに少々やられてしまっている。
「そうだな、妾の生まれたところはもっとずっと涼しく暗かった」
ぱしゃりと犬が庭に打ち水をする。飛沫が日差しを反射して、その輝きがさらに秋色の瞳に映り込み磨き抜かれた玉のような光になった。
そよ風がおきて男の裾を揺らす、同様に女性の着物の袖もほんの少しだけ揺れた。淡い水色に白い帯を締めて、帯どめには小さな翡翠が上品にあしらわれている。どれも上等な品だったがまだ、まだこの御方を彩るには足りない。
男が行商人をしているのは各地の珍しく美しいものを、このどこへも行けない御方に見ていただくためだった。
「ここは良い。騒がしくて、心地よくて、美しきところよ」
おくれ毛のかかるうなじには一筋も汗をかいていない。男は額を伝う汗を手拭いでふきながら寂しげな横顔をぼんやりと見つめた。
「主さま、おやつをお持ちいたしました」
先ほど男の渡した夏みかんを切り分けた犬が硝子の皿を差し出してくる。井戸で冷やしていたのだろうか、汗をかいた冷たい皿に乗った夏みかんはじわりとその冷気を吸い込んでつやつやとした房を見せていた。
「もうそんな時間か、お前が来ると妾は時が経つものだと言う事を忘れてしまう」
吐息で微笑んだ女性に男は眉を八の時にして笑顔を返す。男の複雑な胸中など知らないのだろう、桜貝のような可憐な爪に彩られた指先が果汁をたっぷりと含んだ橙色をつまみ小さな口に放り込む。
茶を入れなおした犬はそのまま少し離れたところに正座をして控えている。薄暗がりの中で銀のような瞳が伏せがちに視線を泳がせていた。
「時と言えば、娘はいくつになった。確か季節が六つ巡る前に連れて来おっただろう」
再び熱い茶を口に含み汗と格闘していると不意にそんな言葉がかけられる。
「えぇ、二年前に連れて参りました。今年数えで7つに」
そうか、と満足そうに頷いた女性はもうひとつみかんを口に含んで遠くに視線を投げた。蝉の鳴き声だけが聞こえる屋敷で、ひと二人分ほどの距離を開けて並んで座る。それがたまらなく幸せに感じて男はそっと白い横顔を盗み見た。
「もうお帰り。日が落ちてしまえばお前を守ってやれなくなるよ」
花の香りが鼻孔をくすぐり滑らかな皮膚が男の頬をかすめる。抜き取られた白い花はくたりと項垂れていた。男は黙って行李に荷物をしまい草履をはきなおす、麻の肩ひもを背負い直し立ち上がれば女性は優しい顔で男を見上げていた。
「ありがとう、おいしかった。気を付けておかえり」
長い睫に縁どられた瞳が細められ、真っ赤な唇が弧を描く。人ではないこの美しい御方に会えるのは私だけだ。
「はい、御方様もどうぞお元気で」
小さく頭を下げて踵を返す。名残惜しく振り返れば白い手がゆっくりと左右に振られた。日に焼けた腕を振り返し男は満ち足りた気持ちで帰路に就く。
あぁ、なんて美しいんだろう。男はゆっくりゆっくりと石段を降りて行った。行きと同じように見たこともない木々の間を慎重に通り抜け山道へ、日は徐々に傾いているがこの調子なら夕暮までには家に帰りつくだろう。
ふわふわとした心地で通い慣れた道を降る、その最中も思い浮かぶのは白皙の頬に影を落とす長い睫、柔らかな眦が微笑みを浮かべれば夢心地だ。波打つ長い深緑の髪も何もかもが男を捉えて離さない。
その時、がくりと体が傾いだ。一瞬の間に足の裏から感覚が消え体が放り出される。あ、と思う暇もなく男の体は急斜面を転がり落ち岩だらけの沢に叩きつけられた。
「気をつけて帰れと言われただろうに。大ばか者が」
栗毛に水晶の瞳を持つ巨大な狼犬、呆れたように唸ったそれが鋭い牙が生えそろった口を開き、動かなくなった男をぱくりと飲み込んだ。
女はつまらなさそうに様々な花が咲き誇る庭を眺めていた。縁側に座り隣にはいつかの硝子皿が置いてあるがその中に入れられているひやりとした水まんじゅうには手をつけていない。
あれが訪れなくなってどれだけの季節が廻っただろう、犬は相変わらず黙って控えていて面白みがない。
「お久しぶりでございます」
穏やかな声が庭に響き、女の濃い茶の瞳がゆっくりと声のした方に向く。さらさらと癖のない真黒な髪は肩口で切りそろえられ、よく日に焼けた若い顔がにこりと笑っている。輝く榛色の瞳が興味深そうに女を見つめて、見覚えのある着物に身を包んだ小柄な体はどうしていいのか分からないようにそこへ立っていた。
「あぁ、お前中々来ぬから心配していたぞ。こっちへおいで」
手招きされると跳ねるように駆けてきてちょこんと女の隣へ腰かける。犬と同じように股引きを穿き脚絆を身に着けたその子供は女よりもほんの少しだけ小さかった。
「はい!中々旅へ出ることもできず、母を一人残すのも不憫で遅くなってしまいました。御方様には大変申し訳なく思っております」
甘い声がはきはきと喋る様に女は頬を緩ませる。途端に頬を真っ赤にした子供は慌てて小さい身体に見合わぬ行李をおろし中身を取り出し始めた。
「わっ、私の足ではまだそれほど遠くまでは行けませんので!麓でお野菜をたくさんいただいたのです」
転がっていく野菜たちを犬が黙って拾い集め大きな手におさめて厨へ持っていく。子供はその背を口を開けて見送り、女は子供の様子に吐息で笑った。
「のう、小さいお前、妾には何の花が似合うと思うかえ?」
摘んでおいでと背を押され子供は鮮やかな花を前に立ち尽くす。女の期待するような目を振り返り、困ったように眉を下げて笑った。
「ここにはございません。御方様にはどのお花もとっても似合うと思いますが私は」
日に焼けた黒い顔、榛色の瞳だけはずっと変わらない。子供は無邪気に口を開いた。
「御方様には山百合が最もふさわしいと思います」
女は満足そうに満面の笑みを浮かべひと時、退屈を紛らわせるために子供と語り合う。その温かな光景を犬だけが戸惑うように眺めていた。
子供が屋敷を辞し、女の命で麓まで見守っていた犬は屋敷に帰り早々女に切々と訴えかける。いつかこの日が来るだろうと分かっていた女は意外と遅かったな、と冷静に犬の頭を見下ろした。
「主さま、主さま、私はあれが恐ろしいのです。確かに姫様は仰いました、お前がおらぬとさみしいと。だから血を重ねよと。それを律儀に守ってもう何人目になりましょう、わたくしは、わたくしは」
顔を青くして平伏する犬に女は鷹揚に頷いた。今回こそはもうだめかと思ったがやはり、来てしまったか。
「分かっておる。そなたには苦労をかけるがあれの血が絶えるまでは堪えておくれ。これは妾とあれの約束なのだ」
何百の季節を廻っただろうか。鮮明に思い出せる初めの男、朴訥とした様子の村の百姓だった男が土地を手に入れ薬を手に入れ、それを売り歩くようになるまでにどれだけの歳月がかかっただろう。
人間の執念と言うものをよく知っていた女もこれにはさすがに驚いて、同時に込み上げる喜びに背を震わせた。犬は青い顔のまま地に伏せている。
「ひとの業と言うものをそなたもよく知っておるであろう。あれは時に我らよりも恐ろしきものよ」
震える犬の頭を何度か撫で月の出た夜空を見上げる。あの子供、娘であったかもいずれ旅先で出会いを果たし血を繋いで女の元へ帰ってくるのだろう。次の季節には故郷より持ってきた林檎を食わせてみよう、今までの者たちは遠慮か恐れか一つも口をつけなかった。
すぐに来るだろう日を思って人ならぬ身の女はうっそりと微笑んだ。