〔七〕
ジェリータが姿を消した広間。そこは、まさしく嵐が過ぎ去った後だった。あちらこちらに破壊の爪痕が残っている。そんな中、シュルツは何事もなかったような顔をして立っていた。
「シュルツだったわね。助けてもらったことになるわけだから、お礼は言っておくわ」
ジェリータの引き起こした突風から自分たちを守ったのはシュルツの力。それがわかっているセシリアは複雑な顔をしているのだった。
「別に君たちを助けようとしたわけじゃない。でも、ありがたくいただいておくよ」
軽く肩をすくめながらの言葉には、人を小馬鹿にしたようなところがある。そして、その彼の視線はセシリアたちの後ろにいる神竜に向けられていた。
「カロン、久しぶりだね」
『千年ぶりじゃぞ。久しぶりはないじゃろう。しかし、お主が生きていたとはな』
「僕たちの寿命を忘れたのかい。それに、人のことは言えないだろう」
『たしかにそうじゃな』
知り合いのように気楽に話しているシュルツと神竜。そのあたりのことを問い質したいとセシリアたちは思っている。しかし、今はそれよりもききたいことがあったのだ。
「おい、さっきの女は何だ」
シュルツがヴァンパイアだということを知っていてもそう詰め寄るカルロス。そんな彼を興味深そうにみているシュルツ。
「君があの二人を見分けることができたなんてね」
シュルツの言葉にセシリアは声も出せなかった。シュルツは『見分ける』とはっきり言っている。つまり、あの少女はアルディスではなかったのだ。
「私はアルディス様ではないのに、そう思っていたの?」
半ば悲鳴のようなセシリアの声。それを肯定するようなシュルツの仕草。
「そうなるね。でも、それは仕方がないとしか言い様がない。なんといっても、そこの坊やが見分けられたのが奇跡のようなものだからね」
見分けられなくて当然、といった顔で淡々とシュルツは喋っている。しかし、カルロスにしてみれば自分の質問にこたえていないという苛立ちがあるのだろう。表情には苛立ちの色が強く浮かんでいる。そんな彼をみて、いつでも押さえ付けられるようにとウィアは身構えている。
「俺のきいたことには答えていないな。あの女は何者だ。それとも、教えられないのか」
怒気をはらんだようなカルロスの低い声。それにようやく気がついたように、シュルツはカルロスの方を向いていた。
「そんなに怒らなくてもいいだろう。あの二人を見分けることのできたご褒美に教えてあげるよ」
その声に当然という顔をしているカルロス。そんな彼をみながら、シュルツはゆっくりと口を開いている。
「あの子はジェリータだよ。僕の妹で、盟主とも呼ばれている」
「やはり、そうか。では、もう一つ教えてもらおうか。どうして、そいつがアルディスとそっくりだったんだ」
カルロスの質問はその場にいた誰もが知りたかったこと。どこか緊張した空気がその場に張り詰めている。
「それは仕方がないことだよ。あの二人は、そうならざるをえない」
「どうしてなんだ!」
「そうです。わかるように教えて!」
シュルツの言葉にかぶさるように、カルロスとセシリアの声が響いている。彼らにしてみれば、何よりも知りたいことをはぐらかされたような思いがあるのだろう。
「教えるつもりがあるなら、はっきりお願いします。こちらには血の気の多い方がいらっしゃるので」
カルロスの姿を横目でみたウィアがそう言っている。それを聞いたシュルツは軽くため息をついている。
「回りくどい話し方はしていないよ。君たちが信じるかどうかだ」
そう言ってセシリアたちをみた表情は真剣そのものなもの。今までの態度とは異なるために、セシリアたちも緊張の色を隠せない。そんな彼女たちを前にして、シュルツはようやく核心を話し始めていた。
「そこにいる神竜。彼と僕とは昔なじみでね」
「そんな感じだったわね。で、あんたってホントに千年も生きているの?」
先ほどの神竜との話が気になっているミスティリーナがそうたずねている。それに対してシュルツは楽しげに笑っているだけだった。
「ヴァンパイアに年をきくのかい? 我々は不老不死だよ。魔導師なら、それくらいは常識だろう」
「そ、そうだったわね。じゃあ、千年前かなにか知らないけど、その時に何があったのよ」
「千年前に我々と人間の間で争いがあったのだよ」
「千年前、ということは……聖戦ですか」
ちょっとうろたえたようなミスティリーナ。そんな彼女を気にせず、淡々と語るシュルツ。そして、彼の言葉に思い当たることがあったのか、ウィアがポツリと呟いていた。そんな彼の様子に興味をひかれたようなシュルツ。
「知っていたんだね。そうだよ、その聖戦だ。その時、アンデッドを率いていたのはジェリータだった。覚えているよね、カロン」
シュルツの口調は穏やかともいえるものである。しかし、その目にはなんとも表現しようのない光が宿ってもいる。
『忘れるはずがないじゃろう。あの時、儂は聖教皇と一緒におったのじゃからな』
「そうだったよね。あの時、大神殿は本気だということを示すために使えるものは何でも使ったからね」
『お主たちの存在は脅威じゃからの。そして、犠牲はいつも力のない民衆じゃ。聖教皇が動かないはずがないじゃろう』
神竜の言葉にシュルツの瞳がそれだけではないだろうと言いたげに光っている。
「我々は静かに暮らしたいだけだよ。それも許されないと?」
『じゃが、それでは満足できないものもおったのじゃろう。そやつらがジェリータを動かしたのじゃ』
「たしかにそうだったね。あの子は優しすぎる。だからこそ、なんとかできると思ってしまったんだ」
シュルツの言葉に信じられないという顔をしているカルロス。そして、シュルツの言葉を肯定するような神竜の声。
『そうじゃの。あれは優しすぎたのじゃろうな』
「どういうわけですか?」
シュルツと神竜の話に不思議そうな声をあげているウィア。そんな彼をみながら、神竜はゆっくりと口を開いていた。
『あの時、儂は聖教皇とともにジェリータと戦ったのじゃ。能力はやつらの方が上じゃが、人数は儂らの方が遥かに多かったじゃろうかの。聖教皇が声をかけたのじゃ。それも仕方ないじゃろうな』
神竜の言葉にウィアはうなずいている。千年前でも今でも、アンデッドに対する恐怖心は変わっていないだろう。ならば、聖教皇が己の威信をかけておこなう聖戦に人々が参加しないはずがない。個々の能力ではアンデッドにかないかけもしない人間だが、数を集めることで勝利したのだと歴史は伝えている。
「歴史の話を聞きたいんじゃないの。どうして、アルディス様とジェリータがそっくりなの」
苛ついたようなセシリアの声。そして、カルロスも感情を押し殺したような低い声で詰め寄っている。
「話をそらしているのか? それとも、教えるつもりがなくなったのか?」
そんな彼の声を耳にしたウィアは顔をひきつらせている。カルロスがこんな口調になった時は暴走するよりも恐ろしい。なぜなら、こんな状態の彼にいつもの殺し文句はきかないのだ。そんなそれぞれの思惑など関係ないように話し続けるシュルツ。
「このあたりのことを知っておかないと話にならないんだよ」
「そうなの?」
かなり苛立ってきているセシリア。その声と表情には『早く教えろ』という思いが見え隠れしている。
「そんなに焦らなくてもいいのに。知らない方がよかったと思うことかもしれないんだよ」
「教えるつもりがあるなら、勿体ぶらずに教えろ」
「仕方がないよ。あの二人は似ていて当然なんだから」
「その理由を教えろと言っている!」
そう叫んだカルロスの瞳には、どこか剣呑な光が浮かんでいなくもない。シュルツを正面から睨みつけたその顔は、彼の返事だけをまっている。
「簡単だよ。二人は同一人物なのだから」
「そんなはずないわ!」
信じられないことを耳にしたセシリアの体が小刻みに震えている。それでも、言わなければならないことがある。真っ青な顔色ではあるが、セシリアはシュルツの顔をじっとみているのだった。
「そんなこと、あるわけがない! アルディス様がお生まれになった時、国中が祝福したのよ。聖戦の時にいられるはずがないでしょう」
そんなセシリアの声を無視するかのように、シュルツは話し続けている。
「同一人物といったのは、その方がわかりやすいと思ったからだよ」
「余計、わからない。だって、あんたの妹でしょう? あんたは忘れてるかもしれないけど、お姫様は十九歳よ」
ミスティリーナの声にシュルツはため息をついている。
「人間というものは、自分の信じたいようにしか物事をみないのかな?」
シュルツの言葉に反論しようとするカルロス。その彼を押さえ付けているウィア。
「あなたがいっていることの方がわけがわかりません」
ウィアの声にシュルツは驚いている。そんな彼をみながらウィアは喋り続けていた。
「だって、そうでしょう? アルディス姫は十九歳です。その姫君とあなたの妹が同一人物? ありえませんよ」
一気にそう言うと、ウィアは言葉を切っている。そんな彼の顔をじっとみているだけのシュルツ。
「あなた方はヴァンパイアです。だからこそ、独特の気配がある。私は何度か姫君にお会いしたことがありますが、そのような気配は感じませんでした」
自信ありげな顔でそう告げるウィア。その彼にシュルツは参ったという顔をみせているのだった。
「気がついていたんですね」
「ということは、さっきの話は嘘か!」
シュルツに気色ばんで詰め寄るカルロス。そんな彼をウィアは必死で押さえている。
「言ったことは嘘じゃないよ」
シュルツの言葉は穏やかであるが力を感じさせる。その言葉に逆らえる者はいないともいえるのだった。
「千年前の聖戦。それがすべての始まりだった。あの時に我々が望んだのは、ほんのささやかなこと。『人間に邪魔されない場所が欲しい』それだけだった」
『じゃが、それは不可能じゃったな。人がその望みをきくことはありえぬことじゃった』
神竜の言葉にシュルツはかすかにうなずいている。
「だから、ジェリータは動いた。あの子は、仲間が狩られることが耐えられなかったんだよ」
広間に響く淡々とした声。その語られる内容は軽いものではないが、彼の語り口のために昔話のように聞こえる。
「あの子は我々だけで暮らせる土地が欲しかった。しかし、人間。特に聖教皇を中心とした勢力は、それさえも許さなかった」
そう言うなり、キッと神竜を睨みつけるシュルツ。彼の表情が急に険しいものになったことに、セシリアたちはすっかり驚いていた。そんな中、シュルツの話は続いている。
「そして、あの子は覚悟を決めた。だからこそ、一人でお前たちと対決する道を選んだ」
『そうじゃ。あの時のジェリータはよく覚えておる。まるで、何もかもを破壊するような勢いじゃった』
「そう。でも、あの子は最後にためらったんだ。そのために肉体と魂を分けられてしまった。そして、神殿は聖教皇とジェリータは共に死亡したと発表した。しかし、それは真実ではない。聖教皇は死亡せず、ジェリータの肉体と魂を別々に封印した」
「そんなことができるの?」
ポツリと呟いているセシリア。その顔には信じられないという表情がある。そんな彼女をみたシュルツは静かにこたえていた。
「普通では不可能だね。でも、この世界を創った存在が手を出した。そして、ジェリータの魂だけが転生を繰り返したんだ」
物音一つしない空間に響いているのはシュルツの声だけ。誰も何もいえない状態ではあるが、セシリアは気力を振り絞るようにしてたずねていた。
「アルディス様とジェリータが同一人物ってそういう意味なの? アルディス様はあなたの妹の魂が転生した姿だというの?」
「そうだよ。聖王女とジェリータは鏡の表と裏。だからこそ、あの二人は似ているし結界も彼女の侵入を防げない」
「じゃあ、あんたはどうして入れるのよ。あんたの妹はそういう理由があるからわかるけどね」
『それも仕方がないことじゃ。こやつたちの力は創世神に通じるものがあるからな』
神竜の言葉にセシリアたちは驚いている。創世神という世界を創り上げた存在とアンデッドに通じるものがあるというのは、簡単に信じられるものではなかったのだろう。しかし、シュルツがここにいるのは事実。それならば、そういうこともあるのかもしれないとセシリアたちは思っているのだった。
「そこの気楽な神竜の言うことを信用するとして、あんたは妹の肉体と魂が別々に封印されたっていってたわよね」
シュルツがここにいられる理由を追及する時間が勿体ないと思ったミスティリーナはそう言っている。その彼女をじっとみているシュルツ。
「魂は転生し、肉体は封印した。それなら、どうしてジェリータがあたしたちの前に出てくるの」
ミスティリーナのそんな疑問にシュルツはあっさりとこたえている。
「ジェリータの肉体はここに封印されていたんだよ」
彼の言葉に驚いた顔をしているセシリア。そして、シュルツは歴史の闇に隠されていた真実を語っている。
「ジェリータを封じた聖教皇は自分を死んだということにしてその任をおりた。そして彼は当時のグローリア王家の姫を妻とし、王家の中に入った。その時にこの場所を作りジェリータを封印したんだよ」
シュルツの言葉は信じられないものである。しかし、それを聞いていた神竜が否定しないということが、それは真実だということでもある。そんな中、シュルツは語り続けていた。
「聖戦も終わり、落ち着きを取り戻した頃だ。あいつが動いた。あいつは封印されていたジェリータの肉体を奪い、仮初の意識を与えた。今のあの子は単なる操り人形。それでも、あいつのそばにいる限りどうすることもできない」
シュルツの声には悔しさが滲んでいるようだった。それは自分の妹を好き勝手にされているということもあるからだろう。そして、セシリアは彼の話の中にでてきた『あいつ』というのが気になっていた。
「いろいろとたずねるけど、『あいつ』って誰なの?」
セシリアの言葉にフッと顔を曇らせているシュルツ。しかし、最後まで話さなければいけないのはわかっているのだろう。彼は覚悟を決めたように口を開いている。
「君たちは知らないだろうね。邪霊王だよ」
シュルツの告げた名前はセシリアたちには何の意味もない。しかし、一人だけその名前に敏感に反応している者があったのだ。
「ウィア、どうかしたのか?」
シュルツが邪霊王といった瞬間から顔色が青ざめ、苦しそうにしているウィア。そんな彼の様子をみたカルロスはすっかり驚いてしまっていた。
「だ、大丈夫です。よもや、このような場所で聞くとはおもっていませんでしたので……」
「君は知っているんだね。あいつのことを」
「ええ、あまり詳しくは知りませんが。会いたくない存在ではありますね」
「しかし、そうは言っていられないよ。今のジェリータを影で操っているのはそいつだから」
「あなたが私たちにいろいろ教えてくれる理由は何」
シュルツの様子に何かがあると思ったセシリアはそうたずねていた。そんなセシリアを見るシュルツの表情には妹のことを心配する兄の表情しか浮かんでいない。
「あの子を解放したい」
『お主はそう言うが、それはあれの消滅を意味しておるのだぞ』
そんな神竜の声にもシュルツが心を動かされた様子はないようだった。
「今のあの子でいるくらいなら、そうなった方がいい」
「でも、あんたの妹でしょう」
驚いたようにそう言っているミスティリーナ。そんな彼女を見ながらもシュルツは覚悟といえるものを口にしているのだった。
「だからだよ。だからこそ、僕はあの子を救いたい。あの子の救いは今となってはこの方法しかないだろう。それでも、人形のままでいるよりはよほどいい」
「だから、あたしたちを何度も助けてくれたわけ? 妹に人を殺させないために」
「それもあるだろうね」
そう言って微笑を浮かべているシュルツ。それはあまりにも痛ましい感じを与えるものである。しかし、彼自身がそれしかないと思っている。それをとやかく言う権利はセシリアたちにはないとも言えることだったのかもしれない。
そんなどこか重苦しい雰囲気の中。ウィアは自分に託された秘文書に目をやっているのだった。すると、先ほどまでは書かれていたはずの文字がすべて消えてしまっている。そのことに驚いた彼は大声を出しているのだった。
「どうしたんだ、ウィア」
いつもの彼には似合わないことだけに、カルロスがすっかり慌てている。そんな彼の前にウィアは秘文書を広げているのだった。
「これをみてください。先ほどまでは文字があったのですが……」
「僕とジェリータの力がぶつかったからね。おそらく、秘文書が何かを感じて記録を消してしまったんだろう」
「そんなことができるの」
「できるさ。これを作ったのは創世神だろう。だったら普通では考えられないこともありえるものさ」
そう言ったシュルツは神竜の方をみている。そんな視線を無視するかのようにしている神竜。それは、彼が言っていることが正しいのだと答えているのと同じことだった。
「僕は君たちの知りたいことには答えたよ。違うかい」
「そうね。もっとも、知りたくないことまで教えてくれたけど」
シュルツの言葉にいくばくかの嫌味ものせて答えているミスティリーナ。そんな彼女の様子を彼が気にした様子もない。
「そちらが知りたいといったんだよ。僕はちゃんと警告したんだからね。それよりも、僕はこれで帰るよ。さすがに創世神の結界の中に長くは居たくないからね」
「二度とあんたには会いたくないわね」
シュルツというつかみどころのない者の相手をするのがこりごりだという顔をしているミスティリーナ。そんな彼女に意味ありげな微笑を浮かべて彼は姿を消している。
「それはそうと、秘文書が真っ白になったのよね」
ミスティリーナのその言葉にウィアがうなずきながらページをめくっている。
「リア、どうすればいいと思う?」
「どうするもこうするも、陛下には申し上げないわけにはいかないわね。後はこれと同じものがあるかどうか……」
『おそらく聖教皇ならもっておるじゃろう。これは、代々の聖教皇に秘密裏に伝えられていることと同じはずじゃからの』
そう言いながらポリポリと顎をかいている神竜。その姿をみたミスティリーナはどうみてもこれが聖なるものだとは思えないようだった。
「あんたがもっとしっかりしていればよかったんじゃないの」
『儂が神竜と呼ばれておったのは千年から前の話じゃ。今の儂はただの番人じゃ』
「でも、その番をしていたものはなくなったんでしょう。番人さんはこれからどうするの」
『そうじゃのう。何もすることがなくなったしお主たちと一緒に行くことにしようかの』
「何ですって!」
神竜の言葉に思わず大声を上げているミスティリーナ。いくらなんでも、こんなでかい竜に一緒に来られては困るといわんばかりの顔をしているのだった。
『心配することはない。小さくなれるんじゃからな』
そういうなり神竜は白い蛇にその姿を変えている。この調子だとついてくるのは間違いないと思ったセシリアは思わず頭が痛くなるのを感じていた。
「お断りするというのも失礼ですのでご一緒にと申しますが、邪魔をなさるとその場で捨てていきますからね」
『この罰当たりが』
神竜の叫びは誰も気にしてはいない。それはセシリアの言葉が、その場の全員の気持ちを代弁しているものだったからだ。
※
コツ、コツ、コツ――
足音がその場に響き渡っていた。床は大理石、壁に使われているのは黒御影。真夜中を思わせる黒一色に支配された中を歩いている少女。
彼女はゆったりとした足取りで奥へと進んでいる。やがて彼女は黒一色で埋め尽くされたような広間に来ていた。そこには大きな玉座がしつらえられ、男が座っている。彼は少女が入っていたのに気がつくとじっとその姿を見ている。そして少女は声をかけられるのを待っているかのように、頭をスッと下げている。
「どうして、そんなに畏まっているの?」
柔らかな優しげな声が少女にかけられている。それを耳にした瞬間、彼女はますます緊張したようだった。そんな少女をじっと見守るような態度の男。
「そんなに緊張しなくてもいいんだよ。別に怒ったりしていないんだから」
「でも……わたくしは、おいいつけを守ることができませんでした」
「いいつけたこと? ああ、秘文書のことだね」
こともなげにそういっている男。それは彼にとってはあまり意味がないということである。しかし、少女にとってそれは気になって仕方がないことであるのだった。
「わたくしは、あれ持ってくることができませんでした」
「仕方なかったよ。あそこで彼が出てくるなんで思ってもいなかったんだから」
「マスター?」
どうしてそのことを知っているのだろうという思いが少女の顔に浮かんでいる。それに対して、男は穏やかな表情を変えることなく話していた。
「これがあるからね。あそこであったことは全部わかっているよ」
玉座の傍らにある水鏡をさしながらそう言う男。そこに浮かぶ微笑は見るものを魅了する力があるのだろう。少女はうっとりとした顔で相手をみつめている。
「マスター。わたくしのことを怒っていらっしゃいませんの?」
「誰が怒っていると思ったんだい、ジェリータ」
そう、この少女はグローリア王宮の宝物庫からシュルツの手で弾かれたジェリータだった。兄であるシュルツに弾き飛ばされた彼女は、今の居場所に戻るしかなかったのだ。もっとも、彼女自身はそのことを当然と思っている。彼女が気にしているのは『目的を果たせなかった』それだけだった。
「本当に怒っていらっしゃいませんの? あの秘文書は必ず手に入れるようにとおっしゃいましたのに」
「そのかわりにお前が怪我でもしたら大変だからね。お前がこうやって帰ってきてくれたことの方が嬉しいよ」
男のその言葉にジェリータはすっかり嬉しそうな顔をしている。彼女は無能という烙印を押されることを恐れていたのだ。だが、それは彼女の杞憂に過ぎなかった。マスターは彼女が怪我をせずに帰ってきたことを喜んでいる。そのことはジェリータにとっては何物にも代えがたいことであるのだった。
「マスター、そんなにわたくしのことを心配してくださいましたの?」
「当たり前だよ。お前は私の宝物なんだから。もっとも、それを言うと煩いのがいるけれどね」
「お兄様ですわね」
そう呟くとジェリータは表情を曇らせている。兄であるシュルツの思いを知っても、彼女はマスターのそばにいたいという思いがある。
「マスター、わたくしは本当に感謝しておりますわ」
「どうしたんだい。改まって」
「マスターはわたくしに自由をくださいましたわ。あの時、聖教皇に封じられたわたくしを助けてくださったのはマスターです。それなのに、お兄様は……」
「彼には彼の考えがあるんだよ。そのことは、わかってあげないとね」
「はい。それはわかっておりますわ。でも、この頃のお兄様をみているとわからないのですわ」
「考えの違いかな。彼がもう少しお前の気持ちをわかってくれるといいのにね。お前は仲間を守りたいだけなのにね」
「そうですわ。わたくしは誰にも邪魔されずに暮らせる場所が欲しいだけですの。それさえ手に入るのでしたら、人間に害を与える必要はありませんわ」
「お前は本当に可愛いね。こっちにおいで。そして、その顔をよく見せて」
男の言葉にジェリータは迷うことなく近づいている。そんな彼女の頬に手をやり、その髪を指に絡ませている男。
「きいてもいいかい、ジェリータ」
「なんでしょうか、マスター」
「お前は私とシュルツが対立したとき、どうする?」
その質問に顔色を変えているジェリータ。それは、ありえない話ではない。しかし、たとえそうなったとしても彼女の中では結論はでている。ジェリータはうつむきかけた顔を上げると、まっすぐに相手の顔をみている。
「マスター、わたくしの答えは決まっておりますわ」
少し震えているような声。しかし、その言葉が途切れるということはない。
「わたくしはマスターに従います。それとも、それを信じてはいただけないのでしょうか」
そう言うジェリータの胸のうちは千路に乱れている。マスターは自分を必要ないものとみなしているのではないだろうか。そんな不安が胸をよぎっている。そして、彼女はその思いを押し隠すかのように懸命になっている。
「マスター、信じてくださいませんか? わたくしにはマスターだけが頼りなのです」
今にも泣き出しそうな顔になっているジェリータ。その彼女をスッと抱き寄せている相手。
「わかっているよ。お前を試すようなことを言って悪かったね。私はお前のことを信用しているんだよ。そうだろう。信用しているから秘文書のことを教えたんだよ。あれは、存在自体が隠されているもの。誰にでも教えられるものじゃない。それはわかるよね」
「わかっておりますわ、マスター」
彼の言葉に表情が明るくなっていくジェリータ。あふれかけた涙をぬぐうと精一杯の笑顔を浮かべている。
「そうだよ、お前のその顔がみたいんだ。いつみても美しいね」
そう言われて、思わず恥らうように目を伏せるジェリータ。その彼女にかけられる優しい言葉。
「シュルツにグローリアから弾き飛ばされたんだ。疲れただろう。今日はゆっくりとお休み」
その言葉が合図となったかのように、ジェリータはその場を離れている。それを見送っている男の口元には冷笑が浮かんでいるようにもみえる。
「ゆっくりお休み、ジェリータ。お前は本当に可愛いよ。私の思ったとおりに動いてくれる可愛らしいお人形だよ」
そう呟くと、彼はクックと喉の奥で笑っている。それは先ほどまでジェリータに見せていたものとはまるで違う表情。しかし、冷酷ともいえそうなその表情はこの黒い空間にピッタリと似合っている。
「邪霊王様、ジェリータは?」
男は自分の背後から聞こえてきた女の声に、振り向くことなく答えている。
「今、帰ってきた。だが用心しろ。シュルツが接触してきた」
「あの方は本当に妹思いですから。でも、それは無駄な努力ですわ。ジェリータは王の人形でいるしか生きられないのに」
そう言いながら姿をみせた女。彼女の大きくウェーブのかかった黒髪と真っ黒な瞳。それはこの場の色彩にこれ以上はないほどに似合っている。そして、身にまとう黒のドレスは胸を大きく開き、太腿の半分近くまでスリットが入った大胆なもの。彼女をみていると『妖艶』という言葉しか浮かんでこないだろう。彼女は自分が邪霊王と呼んだ男にしなだれかかるようにしているのだった。
「マレーネ、もう一つの人形はどこに行ったのかわかったか?」
「わかりましたわ。でも、厄介な場所」
そう。ジェリータがマスターと呼んでいたこの男が、シュルツのいっていた邪霊王だったのだ。そして、ジェリータに見せていた顔が仮面だとでもいうように、今の彼はいきいきとした表情になっている。
「厄介? どこだ」
「大神殿ですわ。聖水晶がここまで姿をみせないのは不思議だと思って調べてきましたの」
「大神殿ということは、聖教皇が絡んだな。だが、あいつの好きにはさせ。あれは私が手にして左右に並べる人形なのだから」
邪霊王の言葉にマレーネはニヤリと笑っている。
「それは見応えがあることでしょう。ジェリータと聖王女。正反対の二人ですが、鏡に映したようにそっくりですからね」
そう言うと彼女は自信ありげな表情で邪霊王をみているのだった。
「わたくしにお任せくださいますか」
そう告げるマレーネの顔を不思議そうに見ている邪霊王。
「お前とて大神殿の結界は破れないだろう」
「聖王女を捜している者たちがおりますわ。その者たちに情報をやれば、喜んで動きますわ」
ニッコリと笑ってそう告げるマレーネ。その笑みはどことなく毒を含んだものであるが、あまりにも彼女に似合っている。
「ハートヴィル侯爵令嬢。彼女は何があっても動きますわ。あの兄王子とは別の意味で彼女は聖王女が大切ですもの」
そう言って笑い出すマレーネ。その高笑いはどこか狂ったものもあるようだが、邪霊王はそのことを気にもとめていないようだった。
「お前のいう者なら、たしかに何とでもするだろう。そいつには神竜がついたからな。ただの老いぼれの竜だが、こういう時には役に立つ」
「では、わたくしは彼らに情報を。王には吉報を近日中にお届けいたしますわ」
マレーネは艶然とした笑みを浮かべ、そう言っているのだった。