譲れない思い
クライストは、うらぶれた酒場で、一人酒を飲んでいた。
「情報は教えた、しかしどれほど効き目があるか」
クライストの雇い主はミリエルを獲得するために、すでに旅立った。
クライストも同行を求められたが断った。サフラン商工会特殊部隊総長の孫娘と係わり合いになりたくなかったからだ。
その肩書きを聞いた段階で、ミリエルは自分の獲物から忌避すべき災いへと換わっていた。
サフラン商工会の名は、冥、闇よりも更に濃い漆黒の闇そのもの。
その特殊部隊を統括する男の孫娘、これほど禍々しいものがあるだろうか。
最初にミリエルを見たときの事を思い出す。無言で臓物の煮込みを啜っていたが、サン・シモンの狂犬の言葉を聞いたとき、確かにこめかみが引きつったのを見て取った。
その時から、おそらくサン・シモンでサフラン商工会関係者だというあたりはつけていたのだ。
どちらかというと、ミリエルが、リンツァー国王の養女だということより、特殊部隊総長の孫娘だということのほうをクライストは重きを置いている。
今まさに、サフラン商工会からの刺客が背後に忍び寄っていてもおかしくないのだ。
「案外、殺り損ねたのは運がよかったのかもしれない」
本気で、心からそう思う。
生きている、それこそが一番の成果だ。あの時ミリエルにとどめを刺していたら、その直後にウォーレスに今度はクライストのほうが息の根を止められていただろう。
遠眼鏡越しに、廊下をあわただしく走る女達が映る。
どうやら気取られたようだ。しかしもう遅い。
男は刃物を思わせる笑みを浮かべる。
彼らはもう袋の鼠。すでに取り囲まれているのだ。手勢も少なく、彼らが生きていたければ、あの少女を引き渡すしかない。
少女は今頃震えているだろうか。どれほど恐れようと、少女の運命は決した。もはや生かそうが殺そうが、この手の中。
彼は自分の勝利を疑いもしなかった。
そして手勢に合図を送る。少女を追い詰めるために。
そのとき、件の少女は、マルガリータに叱咤されながら普通の平民が着るような衣服に改めさせられていた。
結い上げられていた髪は、下ろして一本のおさげにまとめられる。
ミリエルの周囲は、地味な茶や灰色の衣服を着た使用人に囲まれていた。
「ええと、どうしてこうなってるんだろう」
ミリエルの素朴な疑問に、マルガリータは無表情に答える。
「お前が非戦闘員を一箇所に集めろと言ったんだろう」
先ほどまで、妃殿下呼びしていた態度を一変させ、ぞんざいな口の聞き方に、ミリエルは少し嬉しい気がしたが、一つだけ聞き逃せないことがあった。
「誰が非戦闘員だって」
「お前だ、仮にも妃殿下を戦闘要員扱いできると思っているのか?」
マルガリータが噛んで含めるように言う。
無論ミリエルは納得しない。ミリエルは、いざという時戦えるからサヴォワに送り込まれてきたのだ。それなのに、そのいざという時戦うなと言われてどうして引き下がれる。
「それでも全体の指揮はあたしが取るんだから」
「それ俺達の役目なんですが」
部屋の隅で物悲しく呟く騎士達がいた。