騒乱前日
自らの砦で、彼は、はるか遠方を眺めていた。
「閣下、出立を早められるとのことですが」
マーズ将軍閣下は。砦の最上階、矢狭間に肘を付いたままの姿勢で頷いた。
「あの領主殿が、王太子殿下に忠誠を誓うと宣言し、傭兵を集めているとか。そして、その場に敵の手から逃れた王太子妃殿下も救いを求めて滞在中とか」
「敵に捕らわれていた王太子妃殿下をお救いしたですか」
副官が皮肉に口をゆがめたのが後ろを向いたままでも彼にはわかった。
随分と胡散臭い話だ。王太子の婚約者ミリエル姫が、何者かに拉致された挙句行方不明。それは、隠されても漏れ出してしまった噂だ。どこの誰ともわからない相手からミリエル姫を救出した。どうやってその情報を得たのか、その辺はまったくわからない。
サザウィー男爵。貴族の中では余り目立たない存在だったが。情法網だけは、相当なものだと言う噂は聞いていた。
その情報網を駆使したと自分で言い張っている。
しかし、そのミリエル姫が、間違いなくミリエル姫だとどうやって確かめたというのだ。
マーズ将軍自身、ミリエル姫の顔を知らない。
かろうじてわかっているのは金髪らしいと言う噂だけだ。それで個人照合しろと言うほうが無理だ。
だから先に行って様子を見るべきなのではないかと言う気もあった。
「殿下がその顔を確認すれば話は済みますよね」
副官の正論に、少々焦る。実は野次馬的な好奇心も少し心の底にあったりもした。
「偽者にせよ、本物にせよ、どんな女か楽しみだ」
不謹慎極まりない言葉に副官は溜息をついた。
コンスタンシアは小さくくしゃみをした。
「最近冷え込んできたものね」
そう言って両手を胸で交差させる。扉の向こうでも小さなくしゃみが聞こえた。
「風邪が流行っているのかしら」
扉の前で番をしているマルガリータに、簡単に食べられるようにした軽食を持ってきたミリエルは、口を押さえた。
「もしかして、飛びました」
鼻水が飛ばなかったかと恐る恐る訊いた。
「いや、少し方向がずれていたようだ」
そう言って、パン生地で細かく切った野菜や肉が包み蒸し上げられた料理を口にする。
「変わった料理だな」
「東大陸の料理ですよ、以前食べたあれも東大陸の料理なんですけどね」
ミリエルもマルガリータと並んで立ったまま食事をする。
「わざわざ作ったのか」
「急に暇になったもので」
マルガリータとミリエルだけで食べるものに関しては、調理場で作ることは文句を言われなかった。
しかし、ミリエルの読みどおり、調理場の小麦粉は大分減っているようだった。
「篭城はきつそうですね」
ミリエルの言葉に、マルガリータは眉をしかめる。
どうしてこの少女は、こんな風に、平然と怯えた様子を見せないのだろう。
「怖くないのか」
「この国に来たとき、覚悟は決めたつもりです」
ミリエルは、きっぱりとそう言う。おそらくもうすぐ第二段の攻撃が始まるだろう。
どうやら新たな傭兵を募っているらしいが、それらしい人間が来た様子はない。
「危険は承知で国境を越えましたから」
ミリエルの言葉の意味を考える。そして考えることを放棄した。すべては生き残ってからだ。
マルガリータは自分にそう言い聞かせた。