閑話、ある騎士の旅立ち
黒髪の騎士は、庭園で跪いていた。
伯爵夫人は薔薇を手に歩み寄る。ゆるゆるとした歩みだがその間一度も騎士の身体は身じろぎもしない。
伯爵夫人のつま先が目の前に来たとき、騎士はようやく口を開いた。
「お初にお目にかかります。マティルダ王太子妃殿下」
はっきりとした声音にマティルダは眉をしかめた。
「その呼称は捨てました。私は、シファ伯爵夫人です」
かつてマティルダは、隣国の王太子妃だった。そしてその地位を捨てさせたのは眼前の騎士の姉、王太子の愛妾マルグリットの存在だった。
かつての夫とその愛妾に受けた仕打ちは一生忘れられそうにない。もはや関係ないと捨て去り、新たな夫を得たいまでさえ。
「そうですね、そうさせたのは、私の姉、詫びて住むことではありません」
騎士の言葉はよどみない。
「詫びると申しましたか、かの一族にそのような言葉があったとはとんと知りませんでしたが」
憎まれ口に動じた風もなく騎士は、頭を下げる。
「ですが、私はあなたに詫びに参りました。姉がいたしたこと、詫びてすむことではありません。ましてや許しを請うなど論外。ですが、私の心がすまないのです」
マティルダは、目の前の騎士を見下ろす。
「あなたが詫びる筋合いがあるのですか? 私は一度も宮中であなたに会ったことがない。詫びねばならないことなどあなたはしていないでしょう」
会ったことは愚か、騎士の存在すらマティルダは知らなかった。だからこそ、面会を求められて驚いた。
「後ろめたいからです」
意外な言葉にマティルダは目を瞬かせた。
「それは私にですか?」
「いいえ、姉や、家族に対してです」
マティルダが、王太子の下を去った後、愛妾とその一族も王宮を追われたと聞く。しかし元々王宮に眼前の騎士はいなかった。
「私は、沈む船から逃げるねずみなのですよ。このまま緩やかに没落を続ける家から逃げる。その代償にあなたに家族に代わって謝罪に来たのです」
不意ににじむ自嘲。しかし、マティルダは騎士を責める気持ちがうせた。
騎士もまた、マルグリットの犠牲者だったのではないかと思い当たったのだ。
「詫びは受け入れました、あなたはこれからどうなさるの」
「遠い異国に旅立つつもりです。西方に、戦乱の気配があると聞きました。そこで剣の腕を売ることができればと」
顔を上げた騎士は、揺らがない決意を秘めた目をしていた。
「王太子妃の位を降りる際、私は色々と謀をしました。そのため、マルグリットは愛妾の地位を追われた。私に負い目など、感じる必要はないでしょう」
マティルダは薄く笑う。短い結婚生活。恨みだけを溜め込む日々だった。王太子の下を去ると決めたとき、初めて楽しいと言う気持ちを覚えた。
最良のタイミングで、王太子とその愛妾に確実に面目を潰し、消えない恥をかかせてやろうと。
それをやりおおせた以上。マティルダにかの国への未練はない。
「止められませんでした」
「止めてくれなくて幸いだと、今は言えます。今は幸福ですから」
間違いなくそれは本心だった。
「ごきげんよう、あなたの旅路に幸いがありますように」
マティルダは踵を返す。視界の端に、騎士が、再び頭を垂れるのが見えた。
「似ていない兄弟と言うのは聞きますが」
背後の侍女が呟く。
「そうね、あんな似てない姉妹も珍しいわよね」
マティルダは聞こえないように呟いた。
間違えたと思った方、実はわざとです。別の短編を入れたわけじゃありません。