獅子のウサギ狩り
一人の騎士が立っていた。
栗色の髪の精悍な面持ちの騎士はミリエルに向けてそれはそれは嬉しそうに微笑みかけた。
「姫君、もう人妻になられたのですね」
愁いのため息、その背後に護衛としてついてきたマーズ将軍が胡乱な眼で見ている。
「姫君のことを忘れた日は一度たりともありません、あの日を思うと今も胸が痛みます。あの日、姫君がかけてくださったことばを、息を引き取る瞬間すら思い出すでしょう」
感極まった様子に、警護の衛兵たちが茫然としている。
「あー、そんなこともあったね」
ミリエルの顔はげんなりとしていた。
まあ、ミリエル王族だったのニュースはサン・シモン軍で知らぬ者のないビッグニュースだったはずだ。だからこの馬鹿もわざわざ顔を見に来たのだろう。
「申し訳ありませんが今は旧交を温めるより客人のお見送りをしなければなりませんの、後日というわけにはまいりませんこと」
遅ればせながら身につけた王妃様仮面の力を借りてその馬鹿を追い払うことにした。
立ち去った騎士の背後でいつの間にか来ていた小声でマーズ将軍が聞いた。
「あの日の胸の痛い思い出って」
「武術大会で肋骨をへし折ったことだと」
「忘れられない言葉って?」
ミリエルは明後日の方向を見ながら答えた。
「弱すぎてつまんない」
マーズ将軍はしばし天を仰いでそののち言った。
「お前が悪い」
確かに一生忘れられない屈辱だったろう。
その日、サヴォワ騎士団で王妃の警護に対する見直しの緊急会議が行われた。
部屋の隅で小さくなっているミリエルにマルガリータがため息をつく。
「というか、何人この国の騎士団員血祭りにあげてたんだ」
ミリエルは小さい身体をますます小さくする。
「十四の時にね、廃城を舞台に総力戦みたいなことをしたの、サフラン商工会青年自警隊対士官学校生。五十人ぐらいいたかな、それが全員担架で運び出される事態に」
「しかし、それはお前参加していただけだろう」
ミリエルは目を伏せた。
「総大将でした」
マーズ将軍はしばし壁の向こうを見通すように遠い目をした。
「こんな代物を王妃に推挙されるなんて、我がサヴォワはどんな状態だと思われていたんだろう」
「しかし、ほぼ全員担架で運び出されたってどういうことをしたんだ」
マルガリータが素朴な疑問として尋ねる。
「下見の段階でトラップ仕掛けまくったからねえ」
ミリエルの所属していたサフラン商工会特殊部隊は基本ゲリラ戦が主体だ。最初はブービートラップから習う。
「でも、手加減はしたんだよ、本来は落とし穴には槍を三本植えておくんだけど砂利にしたし」
「確かにすごい手加減だな」
「それに全員叩きのめしたわけじゃないし、私を追いかけてくる途中で勝手に事故で自滅した連中も多いし」
捕まえて御覧なさーいと軽やかに駆けるミリエル。
窓からひょいと飛び降りれば後を追って彼らも飛び降りる。高さ地上三階分くらいのそこから無事着地できたのはミリエル一人だった。
死にはしなかったが骨くらいは折れたそれを尻目に再びミリエルは軽やかに駆けていく。
その話を聞きながら、まじめにメモをとる書紀官。
『王妃様は三階くらいから落ちても死なない』と書いてあった。
それを覗き込んだミリエルは。
「あのさ、自分のタイミングで飛び降りてならだよ、突き落とされたら自信ないからね」
とんでもない警備マニュアルが作成されそうになるのを必死で阻止しようとしている。
「それにあの後私もひどい目にあったし、おじいちゃんにさんざん怒られて、おじいちゃんが言ったのに、相手指揮官をできるだけ冷静にするなって」
「それで何を言ったの?」
頭痛をこらえながらマルガリータが先を促す。
「獅子はウサギを倒すのにも全力を尽くすという。では兎狩りを始めよう」
誰も何も言えなかった。
この間、国王レオナルドは精神の安定のため立ち入り禁止だった。
このことわざは嘘だそうです。