真珠貝の爪
馬車に戻る途中レオナルドはミリエルに訊いた。
「さっきの歌は何だったんだ」
「サン・シモン古語。今でも神殿やそれにまつわる儀式の時にはこっちに切り替えるのが倣い、だけど知らないかな?」
ミリエルは子供のころからの習慣で祈りの時には言葉を切り替える。この言葉は近隣の国々とあまり共通点がない。
「聞いたことはあるが、実際に誰かがしゃべっているのを聞いたのは初めてだな」
ミリエルは小さく苦笑した。
「あとでなんて言っていたか、翻訳してあげる」
馬車が王宮につく。王宮の侍従が賓客を案内するために門前に並んでいた。サヴォワの侍従がサヴォワ王国国王夫妻の到着を告げる。
侍従が馬に飛び乗ると、先導するように、波足で馬を走らせた。
馬車も後に続く。サヴォワ王国一行が案内されたのは瀟洒な館だった。賓客用に王宮の周囲に同じような館が何件も建てられているらしい。
随行員は全員入りそうなのを確認すると、レオナルドは馬車を降りた。サン・シモンの侍従が、国王夫妻用の部屋まで館の中を案内する。まず、主寝室つきの続き部屋。その周囲に様々な用途に使われるであろう部屋。まずはミリエルの更衣室になっているらしい部屋に女官とともに連れて行かれる。
ミリエルの後から次から次へと長持が運び込まれる。たった数日の滞在のために何着のドレスが必要なのだか。
しかし、一日に数回シュチエーションに合わせて着替えねばならないことを考えると、これでも少ない方なのだとか。
ミリエルはでんぷん糊でくっつけた付け爪を外す。
本来貴婦人は、爪を長くのばしているものだ。しかしミリエルは爪を長く伸ばすのにものすごい抵抗があった。子供のころ、玉の輿を目指す年上の少女が長く爪をのばしていた。
その長く伸ばした爪は彼女の自慢らしく、あっちこっちで見せびらかしていた。そして悲劇は起こる。
基本的に特権階級の女性が爪を伸ばすのは様々な肉体労働で手を荒らさないという前提で伸ばしている。普通貴婦人は掃除洗濯などしない。
その少女は長く伸ばした自慢の爪は、いずれにせよ洗濯物にからみついてしまった。そして付け根からはがれた。洗濯物、ならびに周囲は血塗れになり、あたりは阿鼻叫喚の惨劇だった。
それを目の当たりにしてしまったミリエルにとって、爪を長く伸ばす、イコール危険という図式が焼き付いてしまった。
貴婦人なら爪を伸ばせという周囲の説得と、嫌だ痛いから嫌だと死に物狂いで抵抗するミリエル、最終的に付け爪をして、という形で落ち着いた。
付け爪を外してミリエルはわきわきと指を動かす。でんぷん糊ははがれやすい、扱いは細心の注意を払わねばならないからだ。
ミリエルの付け爪は真珠貝の貝殻でできている。サヴォワの主要産業の一つ、真珠の養殖を見学した際見つけたのだ。真珠によく似た光沢の貝殻は真珠を取った後不用品として処分されると聞いたミリエルは。真珠の貝殻を様々な職人の場所に持ち込んだ。
家具職人や宝飾職人。彼らはミリエルの持ち込んだ素材に目の色を変えた。
もともと捨てるものだ、うまくいけばぼろ儲け。とミリエルもほくそ笑んだ。
「次はどれをつける」
着替え用のドレスを見て、様々な宝石を張り付けたミリエルの付け爪セットから、色を合わせる。ドレスが淡い青だから、桃色水晶の塵のような欠片を張り付けたものにしようか。
真珠貝の付け爪は、これから売り出す予定の真珠貝の装飾品販売促進計画の一環だ。それゆえ、慎重に色を合わせねばならない。
マルガリータは、付け爪をじっくりドレスと見比べ自分の選定が正しいと確認した。