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01 シルヴィアの選択

 ルルテからリオールに戻ってきてから、なにをすることもなく時間をただ過ごしていた。さすがにシャワーは浴びたが、それ以外に特にしたことはない。仕事はなにもしていないし、趣味であるお菓子作りにも手をつけていない。食事も睡眠もろくにとっていない。あんなに行かなければと思っていたカイルの実家にも行かずにいる。

 そういえば、ジェラルド様からグレイス嬢に会ってほしいと頼まれていた。先生も、一段落したら顔を見せてほしいと言っていた。しかし、その記憶すらすぐに沈んで埋もれていってしまう。

 ただベッドに体を横たえて、薄汚れた天井を見上げて、なにも考えられず、音に耳を澄ませていた。今にも無遠慮に玄関のドアがベルが鳴らされて、訪れるはずのない人間がひょっこりと笑顔で目の前に現れるのではないかと。あるはずのない幻想が、浮かんでは消えることを繰り返した。

 それは虚しさを伴った。しかし、止める方法がわからなかった。

 リオールへと戻ってきてから初めての来客は、帰宅の三日後。やって来たのは、騎士団規定の軽装姿のハンスさんだった。

 顔色がよくない私を見て、ハンスさんは遠慮なく顔をしかめた。


「おい、ちゃんと生きてるか?」

「……まあ、一応」


 ハンスさんからの問いに、私は頼りない答えを返した。

 なにもする気が起きない。気力という気力がごっそり抜け落ちてしまっている。このまま長く過ごしたらいつか死ぬだろうということに、今更になって気がついた。

 少しだけ深く息を吸い込み、尋ねる。


「なにか、ご用ですか?」

「依頼だ。届け物なんだが」


 今は、仕事をする気分にはなれないんですけど……。

 私がそう断る前に、ハンスさんは届け物を差し出してきた。それは、正式な騎士団員が首から下げるプレートタグだった。刻まれている名前は、《カイル・デーン》。

 私は驚いて、ハンスさんを見上げた。彼はどうしようもなく悲しげな顔をして、それでも笑おうと顔を歪めた。


「……親馬鹿よろしく、あいつが見習い脱却すんのを今か今かと待ちかまえてよ。こんなもんまで用意してたんだ。我ながら呆れちまう」

「ハンスさん……」

「ほんとはな、これはあいつの家族に渡してやるつもりだったんだよ。で、あいつん家行ったらさ、当の家族に、『どうかシルヴィア姫様に渡して差し上げてください』って言われちまってな」

「……シルヴィア姫に?」

「ああ。あの馬鹿のシルヴィア姫様馬鹿っぷりは、ご家族もよーくご存知だったってわけだ。……だからよ、リデル。これ、姫様に渡してやってくれないか?」

「……なぜ、私が……」


 私の疑問に、ハンスさんは答えなかった。なぜ答えてくれないのかと視線で訴えると、ハンスさんは悲しく笑って、私の頭をその大きな手のひらで撫でた。

 私はしばらく、ぼんやりと差し出されたタグを見つめた。カイルの名前が刻まれたタグ。カイルが生きていた、証。

 やがてそろり、とそれに手を伸ばし、受け取る。銀色でひんやりとしていたそれは、私の指の温度で徐々にぬるくなっていく。


「……頼んだぜ」

「……はい」


 気がついたら、私は了承の返事をしていた。

 我に返っても、一度了承したものを「やっぱりできません」と突っぱね返す気にはなれず、私はしぶしぶ諦めて、改めてその依頼を受けた。

 ハンスさんを送り出してから、最低限の身だしなみを整えて、王城へ出向いた。

 姫の部屋へと続いている回廊を無言で歩く。広く、長く、静かな回廊には、自分の足音しか響かない。

 ローザさんと侍女の方々を見つけた。城内にあって彼女ら全員が姫の傍を離れているということに小さな違和感を覚えたが、誰の許可もなく姫の自室に入るわけにもいかなかったので、ちょうどいい。


「ああ、リデルさま……」


 ローザさんたちの表情も、ハンスさんほどではないが、浮かないものだった。この度の調査任務でなにが起こったのか、詳細は知らなくともある程度の内容は知られているのだろう。


「……お久しぶりです。姫は、自室にいらっしゃいますか?」

「ええ……この通路の突き当たりです」


 はっきりとは知らなかった姫の自室の在り処。それが示されたということは、入室を許可されたも同然だった。


「……いいんですか?」

「ええ……姫様を、お願いします」


 それは、姫がふさぎこんでいるから元気づけてくれ、ということだろうか。だとしたら、それは私には無理だ。それは、私の役目では、ない。

 姫が笑ってさえくれれば、私はどれだけ気落ちしていても元気になれる。けれど、その姫を元気にしてさしあげられるたった一人は、私ではない……。

 ローザさんたちに見送られて、姫の自室の前まで来た。王城の片隅。追いやられているかのように思えるが、それでもさすが姫君の部屋だけあって、両開きの扉の枠には控えめながら美麗な細工が施されている。

 私はうつむいて、姫の部屋の扉を叩いた。中から返事はなかった。もう一度叩いてみるが、やはり返事はない。

 いない……? いえ、しかしローザさんたちは確かに自室にいらっしゃると……。まさか、また抜け出して? ですが……。

 不思議に思いながら右手側の扉の取っ手に指をかけてみると、扉はあっさりと開いた。鍵はかけられていなかったらしい。不用心にもほどがある。姫と、ローザさんや侍女の方々にも、もっと用心したほうがいいと言っておかなくては。

 どうしましょうか……。

 逡巡して、このままでは埒があかないと結論付け、扉を開け放った。怒られたなら謝ればいい、とどこかずれたことを考えながら、部屋に足を踏み入れた。


「ひ、……」


 言葉が出なかった。姫、と呼ぼうとしたその声さえ、意味をなくした。

 しばらく、ただじっと、《それ》を眺めていた。《それ》がなんなのか、事実が徐々に私の中を侵食していく。……いや、最初から理解していた。それを認めたくないと抗って、抗いきれず、事実が少しずつ染み入ってくる。

 中途半端に開いたままだった口を閉じて、足音を殺して歩き、《それ》の傍らに立った。

 部屋の片隅で横たわったまま動かないシルヴィア姫の体を、言葉なく見下ろした。

 いつもは赤い髪飾りでまとめられていた毛先が広がっていた。代わりに床を流れ広がる赤が彼女の髪の毛を彩っていた。腹部からは護身用の短剣が突き出ていた。白いはずのワンピースが、赤に侵食されていた。顔を見た。白い顔だ。唇にも、もう色がない。瞼は下りていて、ぴくりとも動かない。

 しゃがみ込み、そしてその体をそっと抱き起こした。

 冷たい……。

 初めて触れた姫の体は、まるで死んでしまったカイルの体のように、冷たい。同じくらい、冷たかった。

 ぶわ、と体の奥から涙があふれてきた。カイルが死んでから今までこらえてきた分がすべて溢れ出てくるような感覚に、私は抗わなかった。きっともう、抗いようもなかった。

 体温の名残すらない姫の体をぎゅうっと力一杯抱きしめて、声もなく泣いた。カイルが死んだ時に泣けなかった分まで、泣いた。

 カイルが消えた。それだけで、たったそれだけで、世界が崩れていく。

 きっと、カイルは太陽だったのだ。太陽は月を照らし、月は太陽とともに大地を照らすと、いつだったかなにかの本で読んだ。では、太陽も月もなくなり、照らすものがなくなった大地は、どうしたらいいのでしょうか……。

 カイルがいなくなった。姫もいなくなった。

 いなくなった。

 私を残して。

 嫌だ……。

 嫌だ、寂しい。寂しいんだ。置いて、行かないで。


 ――《ぼく》をおいていかないで!!


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