美代子リターンズ
よっくんは私の恋人だ。付き合ってもう二年半になる。
「義弘ー、美代ー、俺も帰るー」
もっくんだ。
「野球部は?」
「今日は休み」
「しょっちゅう休みじゃん。だから弱小何だよ」
「いいの、いいの。甲子園とかテレビの話しだし。うちは一回戦突破できたら万々歳ってとこ」
もっくんはそう言いながらも、帰ったらまたあの壁に延々球をぶつけるんだろう。
「紀伊足大丈夫か?」
先を歩いてたよっくんが振り返って聞いた。
「足?」
どうかしたのかな?
「授業中に捻ったって」
「ああ、平気だよ。軽い捻挫。明日には治ってるって」
よっくんは何でも知ってる。ただしそれはもっくんの事のみで。
「美代こそ、その手の怪我どうしたんだよ?」
「体育の授業中転けちゃって」
「ドジだなー。ちゃんと消毒してもらったか?」
「うん」
「鞄持ってやろうか?」
「いいよ。ありがとうもっくん」
もっくんは優しい。
「あ!」
「気付かなくてごめん」
よっくんが私の手から鞄を奪い去る。怪我したのは左手で荷物は右手で持ってたから、本当に平気なのに。でも。
「ありがとう、よっくん」
私は、私の怪我にも気付かないこの人が好きなのだ。だから。
「義弘優しい」
「うるせぇ」
よっくんともっくんが付き合ってるのを知っていても、よっくんと恋人をしている。
手も繋がずキスはもちろん、エッチなんて宇宙の彼方の出来事ってくらいプラトニックな関係で。正しくは恋人ごっこをしている。
「紀伊明日家くるか?」
もっくんが横目で私を盗み見た。知らんぷり。気づいていませんよーと。
「うん……」
よっくんともっくんは二人が好き合ってること、私が知ってるってまだ知らない。
***
気付いたのは付き合い始めてすぐだった。
「ねぇよっくん、手つなご?」
「え……」
よっくんはぎょっとして手をポケットにしまった。
がーん。私は勇気を振り絞った誘いだったのでそれに打ちのめされた。
「ごめんね。嫌ならいいの」
「俺、手汗かくから」
そっか。気にしてくれてるんだ。思いがけない不器用な気遣いに、ほっこりする。
「義弘、美代、はよ」
もっくんが、鞄でよっくんを叩きながら挨拶する。
「てぇな!」
よっくんの反撃だ。もっくんはそれをひらりとかわして、歯を見せて笑った。よっくんは意地になって追い回す。
「もう、子供だなー」
よっくんは寡黙でいつもしかつめらしい顔したクールメンだ。なのに、もっくんといる時だけ途端に幼くなる。
よっくんともっくんは親友。羨ましくなるぐらい仲がいい。私が二人に出会った中学の頃からそれは変わらない。
私の知らない所でとっくに進んでた二人を見て、脳天気にそう思ってた。
その日の放課後、よっくんが迎えに来なかった。
いつも、のっそりと私のクラスの教室の戸口に立ってるのに。
おかしいな。私はよっくんを探しに行った。よっくんにしてみればとんだ余計な事だったのに。知らず、探しに校内を駆けずり回った。
「よ、しひろ……」
「紀伊」
あんまり使われてない南階段下の掃除用具入れがある、お化けが出そうな薄暗くて埃っぽい場所。
そこで、ぎゅうっと手を握り合ってよっくんともっくんはチュウしてた。熱烈に。真っ赤っ赤になって。
二人に見つからないように教室に戻って、私は読みかけのギャグ漫画を一心不乱に目で追った。
よっくんの大嘘つき。汗かいてるから手つなぐの嫌だって言ったくせに。大嘘つき。もっくんが好きなくせに私と付き合ってたんだ。
紙の上で、茄子みたいな顔したキャラクターが、騙された! と言って床にうずくまり泣いていた。
他のキャラがそれに、騙される方が茄子なのよ、と同じ茄子みたいな顔に煙草をふかして侮蔑した。
***
二人は注意深くそういった目でみてみれば、確かに友情とは違う心で、好き合ってるのが一目瞭然だった。
何より、大抵のことに無関心なよっくんは、もっくんのことになると仰天するほど情報通で聡い。
私の怪我には気付かず、もっくんの捻挫は事前に知ってたのがいい例だ。
よっくんが高校の入学式の日、私の告白を受けてくれたのは、多分もっくんとのことを隠すため。なら、そう言ってくれればいいのに。
言ってくれたら、盛大に張り手かまして思いっきり、よっくんを罵って声を上げて泣けるのに。
「なぁ美代」
「ん?」
「美代は大学どうすんの?」
「私は……」
よっくんがこっちを見た。
「義弘と俺と同じ所行こうぜ」
私はその言葉に嫌悪の表情を隠すのにかなり苦労した。馬鹿にするな、と思った。大学でまで二人の隠れ蓑になれっていうのか、と。
私が二人の恋に付き合うのは高校卒業まで。それまでは人生の試練とじっと耐えよう。そう決めていた。
よっくんを好きでいるのも、卒業まで。
***
夕暮れが教室の窓から入り込み、私たち二人を赤く照らす。
よっくんは同じ様に紅く染まったグラウンドを眺めてた。視線の先で、野球部が吠え声あげて土を蹴って肩を振ってる。
「もっくんって足速いよね」
「ああ」
やっぱりもっくんを見てたらしい。
「足速い人って格好良いよね」
ノートの上公式を解きながら、ぽつんと呟いた。
「……好きなのか?」
怒気を孕んだ低い声。嫉妬したみたい。まぁわざと煽ったんだけどね。
「好きだよ」
「ーー!!」
ひゅう、っと息を吸い込む音が聞こえる。
「よっくんの次の次ぐらいに」
「……は、何だよそれ」
眦下げて安堵したようによっくんが笑う。よっくんの笑顔は貴重だ。
私の為に作られた笑顔じゃなくても、私は心行くまで堪能した。
「びっくりした?」
私が好きなのはよっくんだよ。
嫉妬したのが、もっくんじゃなくて私だと知っていてもね。
私がよっくんを好きになったのは、中学二年生の時。
当時バスケ部に所属してた私は、生意気だと虐められていた。
私のどこが生意気なのか自分では皆目わからず、毎日毎日頭から泥水をかけられ、靴のひもを切られ、バスケットボールを当てられ途方に暮れていた。
その日も、私は泥まみれになり水道で行水をしていた。これが冬は結構辛くて、もう私の心はズタボロだった。
「お前なにしてんの?」
その声にふらりと顔を向けると、よっくんが立っていた。コートにマフラーをしっかり纏った、ジャージにびしょ濡れの私とはちがう暖かそうな格好だ。
「泥で汚れちゃったの」
「何で?」
泥団子とね、泥水がね、上から横から襲ってきてとは言えない。
「泥沼にはまっちゃって……」
「学校に泥沼なんかあったか?」
「さぁ?」
さぁって。要領を得ない私の返答によっくんはすぐ面倒くさそうに、口を曲げた。
「下地君は帰らないの?」
下地っていうのはよっくんの名字だ。
「あぁ、紀伊を待ってる」
「そか、じゃあ私部活に戻るね」
「やり返してやれよ」
「え?」
「泥。ぶっかけられたんなら、ぶっかけ返せばいいよ」
「…………そうする」
私はその後バケツいっぱいに泥を入れて、部活に向かった。
あの時のよっくんの言葉は、私が今まで貰った中で一番の応援だった。
目には目を、歯には歯を泥には泥を。なんて、本当はダメなことなのかもしれない。でも、あの時戦えと言ってもらえなければ、私はきっと泥に埋まって死んでた。
よっくんにしてみれば、泥かぶり女を不憫に思った、何気ない言葉だったんだろう。
それでも私はそのおかげで救われた。何気なくても、誰もくれなかった救済の言葉だった。
よっくんは恩人だ。命の恩人。あの日あの時から、私のヒーローで、好きな人。
***
私はよっくんのお家にお邪魔したことがある。お母様にも会った。
お母様なんて、素で言えるとは思えなかったけど、これがびっくり、言えちゃうのだ。
よっくんのお母さんは、お母様という単語がピッタリの、美人さんが気品と上品さを着て歩いてるみたいな人だった。
連日の看護婦の仕事の超過労働で、疲れ果てた顔してる事が多いうちのお母さんとは全然違うかった。包容力は段違いでうちのお母さんの勝ちだけど。
そんなお母様に、よっくんとお付き合い(のふり)をしています金井美代子です、と挨拶した時は大変緊張したものだ。
「あら、可愛らしいお嬢さんだこと。義弘のことお願いね」
と、頬に手を添えておっとりとそれはもう美麗な微笑みを貰ったのを、今も鮮明に覚えている。それが。あの女性が。
「美代子さん! あなたと義弘はお付き合いしているのよね!?」
髪を振り乱して目を三角に吊り上げた、砂掛け婆みたいになるなんて、誰が想像できようか。
ぽかーん、だ。
「あ、あの、美代子、こちらは」
仕事から帰ったお母さんがわたわたとしている。疲れてるのにごめんね。
私はよっくんを紹介してない。私に彼氏がいることを知ってはいるみたいだけど。別れることが決まってるのに、紹介なんかしたくなかった。
「初めまして、わたくし下地義弘の母でございます。義弘とお宅の美代子さんが交際なさっていらっしゃるのは、ご存知かしら?」
高飛車な言い方でよっくんのお母様が、お母さんに迫る。私は胡乱な眼差しでさっきからこっちを見ないよっくんを、見た。
口元が赤く腫れ上がり、むっつりとそっぽを向いたままのよっくん。
「ねぇ! そうでしょう!? 美代子さんは義弘とお付き合いなさってるのよね!?」
「はい……まぁ」
「ほら、ほらやっぱり。義弘は、義弘は、ホモなんかじゃ、無いわ」
目蓋から決壊したように滂沱の涙をお母様は流した。次から次へと臆面もなく雫を垂らす。その姿は気品も上品さもなかった。
「よっくん……」
もっくんと、家でにゃんにゃん(死語)してるの見つかっちゃったんだね。
「よっくん、もしかして浮気したの?」
私もお母様に負けじと、泣きながら言った。一生懸命悲しいことを考えた。死んじゃったお父さんとの思い出とか。(お父さん、美しい思い出をつまらない事に使ってごめん)イジメられてた時の悔しかった気持ちとか。
「私が拒んだからって、よっくんの馬鹿!」
恐ろしいものを見る目でやっと、よっくんが私をみた。よっくんてば、失礼だよ。
「美代子さん! そうなのね。それで思いあまって義弘は! 今はそういった時期だもの。仕方ないわよね」
良かった良かった良かった。お母様は連呼して来た時と同じように、よっくんの腕を引き帰っていった。怒り狂うと嵐みたいな人だ。
「あんたも損な性格ね」
溜め息ついて、お母さんが私を抱き締める。どこまでわかっているのか。私はお母さんに抱き付いて泣いた。
お母さんからは、嗅ぎ馴れた薬品の臭いがした。
***
「美代……」
次の日、私に会いに来たのはもっくんだった。
「知ってたのか」
それは疑問じゃなくて、確信を持った聞き方だった。
「うん」
「いつから?」
「一年の夏前」
「今三年の秋なんだけど」
そんなのカレンダーみればわかるよ。
「ごめ」
「謝るの?」
それは私のための謝罪じゃないでしょ。自分が罪悪感から逃れるための謝罪でしょ。
「卒業まで」
もっくんが悲壮な顔を上げた。なにその顔。私の怒りのボルテージは最高潮だった。溜まりに溜まった鬱憤が、雪崩のごとく彼を襲いそうだった。
けど、拳を握りしめて、ぐぅっと耐える。
「卒業までは二人のカモフラになったげる。二人に付き合ったげる」
「何で……?」
「恩返し。美代子の恩返しだよ」
鶴の恩返しならぬ、美代子の恩返し。正体がバレても続けられる特典付きだよ。
沼から伸ばしもしなかった手を見つけて取ってくれた、よっくんへの私が出来る最大の恩返し。