CPTPPの胎動
先進的ともいえる経済協定であるCPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)、その胎動を物語としてまとめてみました
大国のエゴ
2017年1月23日、ワシントンのホワイトハウスで、ドナルド・トランプ大統領が「TPPからの永久離脱」を定めた国際大統領令に署名した
東京・永田町、内閣官房の一角にある「TPP政府対策本部」の執務室で、通商交渉官の高橋はテレビ画面を見つめたまま、冷え切ったコーヒーを飲み干した
外務、経産、農水、財務――省庁の垣根を越えて集められた「通商ドリームチーム」と呼ばれる精鋭たちが沈黙する部屋に、受話器の電子音だけが虚しく鳴り響いていた
5年の歳月、何百時間もの徹夜が白紙となった瞬間だった
そもそもTPPは、アジアの小国が結んだ小さな経済協定が前身だったが、台頭する中国に危機感を募らせた米国の参入によって、中国がWTOのルールを骨抜きにし、不当な補助金と強引な技術移転で市場を歪ませる暴挙を止めるための「包囲網」へと変貌を遂げていた
だが、オバマ前政権下のアメリカが主導した交渉もまた、決して美しいものではなかった
「新薬のデータ保護は12年にしろ、著作権は70年だ」
ワシントンは巨大製薬会社やハリウッドの利益を守るため、高圧的なルールを他国に押し付けた
ベトナムやマレーシアなどの新興国は、アメリカ市場へのアクセスという「果実」のために、主権を削られるような不条理な条件を呑まされていたのだ
そのアメリカが自国第一主義の地殻変動によって、自ら作った包囲網を内側からぶち壊して去っていった
巨大市場を失った協定は、エンジンをもがれた泥舟だった
「もう終わりです」と呟く若手に、高橋は告げた
「終わらせれば二大国のエゴが支配するジャングルに戻る、アメリカ抜きで、やるぞ」
逆転の算盤
「アメリカという巨大な胃袋がないなら、我が国が痛みを伴う国内改革を維持する意味がない」
ハノイ、クアラルンプール、サンティアゴ、各国の首席交渉官たちには諦念が漂っていた
加盟国全体のGDP規模は4割に激減、大国の身勝手に振り回された国々の気力はつきかけていた
高橋は各地の会議室で、一筋の勝機を提示し続けた
「アメリカが消えた今こそ、オバマに無理やり呑まされたルールをひっくり返すチャンスだ、彼らが押し付けてきた知財や製薬規制など、我々を苦しめていた22の項目をすべて『凍結(保留)』しよう」
大国の傲慢さを逆手に取る、使い勝手のいい、11カ国のための先進的なルールに書き換える
船頭は日本が引き受ける――
高橋の泥臭い算盤弾きは、冷めかけた各国の胸に現実的な火を灯した
2017年夏、11カ国による「凍結リスト」の激しい削り合いが始まった
ダナンの混迷2017年11月、ベトナム・ダナン
11カ国の閣僚が集まり、ついに「大筋合意」の調印式を迎えるはずだった
しかし開始直前、カナダのトルドー首相が会場に現れず、合意を拒否した
ボイコットすることで、文化保護や自動車産業を縛るCPTPPの枷を外し、自国に有利な条件をもぎ取ろうというカナダの強かな狙いだった
会場はパニックに陥り、空中分解の危機が再燃する
「全体の共通ルールは絶対に書き換えない、カナダが懸念する分野は、各国と個別に『サイドレター』を交わして調整する方向へ持っていくぞ」高橋たちはホテルの密室に籠もった
協定を成り立たせようと必死の交渉が執り行われていた
全体ルールの法整合性を守りつつ、カナダをサイドレターの枠組みへ着地させるための精緻な調整が繰り返され、最終的には10ヵ国での合意も視野に入れ検討が重ねられた
カナダの言い分を汲みつつも、実質的な拘束力を二国間で和らげる「魔法の形容詞」をサイドレターの文言に見つけ出したのは、日付の変わった午前0時過ぎのことだった
危機は、紙一重の外交技術によって回避された
出航
2018年3月8日、チリ・サンティアゴ、晴れ渡る空の下、新生協定の署名式が執り行われた
協定の名は、単なるTPP11ではない、包括的、かつ先進的であることを示す「CPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)」へと進化していた
それはアメリカの押し付けを排除し、中国の不公正な通商慣行を牽制するだけのものではなかった
この協定の本質は、21世紀において最も「比較生産的」で「国際分業的」で「合理的」な経済圏の創出にあった
高度な技術を持つ日本、広大な土地と資源を持つオーストラリア、若い労働力で躍進するベトナム等々
11カ国がそれぞれの強みに特化し、関税ゼロの海で結ばれる
そこには大国が小国を毟り取る二国間交渉の歪みはなく、それぞれの「比較優位」が緻密に噛み合う美しいパズルがあった
さらに、データの自由な流通を保障する最先端の電子商取引ルールを敷く一方で、カナダが執念でねじ込んだ環境保護や労働者の権利も厳格に組み込まれた
強者が弱者を食い物にするグローバリズムではない
ルールを守る者が対等に利益を分け合う、持続可能な「ウィンウィン」の枠組み
それこそが、この協定が「先進的」と呼ばれる真の理由だった
拍手が沸き起こる会場で、高橋はかつて決裂しかけた各国の交渉官たちと、言葉なく静かに目礼を交わした
大国にハシゴを外された難破船は、自分たちの手で世界最高水準の不沈艦へと生まれ変わったのだ
数年後、この強固な港にはイギリスをはじめとする世界の主要国がこぞって加入を望み、大河のような秩序へと成長していくことになる
そのニュースを国際線のロビーで見届けながら、高橋は手荷物をまとめ、次なる通商交渉の地へと歩き出した




