帰省
京都駅を出た新幹線の窓には、細い雨粒が流れていた。
少年は窓際に座り、滲んでいく街並みをぼんやりと眺めていた。
隣には黒衣の女性が静かに腰掛けている。
目を閉じたまま、一度も顔を上げない。
人間離れした落ち着きがあり、話しかける隙がなかった。
京都を離れると知らされたのは、ほんの数日前。
両親は海外出張で、しばらく祖母の家に預けられる――表向きはそういう話だった。
だが少年には、それが建前であることくらい分かっていた。
本家。
守護。
十二氏族。
幼い頃から聞かされてきた言葉が、雨雲のように胸の奥に沈んでいく。
それでも自分には、何もなかった。
見えるだけ。聞こえるだけ。触れられるだけ。
守る力も、祓う力も、戦う力も――何一つ。
やがて新幹線は博多駅に到着し、二人は在来線へ乗り換えた。
車内には学生や買い物帰りの老人がぽつぽつと座っている。
どこにでもある地方の電車。
京都の湿った雨の匂いとは違う。
潮の香りと土の匂いが混ざったような、どこか懐かしい空気が漂っていた。
黒衣の女性は無言のまま歩き、少年はその背中を追う。
列車が街を離れる頃には、空は嘘のように晴れ渡っていた。
窓の外の景色は、少しずつ色を変えていく。
ビル。
住宅街。
田畑。
山。
そして、海。
知らないはずの風景なのに、胸の奥がざわついた。
理由の分からないざわめきが、呼吸の奥をかすかに乱す。
――帰ってきた。
そんな言葉がふいに頭をよぎる。
だが少年には、この土地に来た記憶など、ほとんど残っていなかった。
車窓に映る自分の顔を見つめる。
落ち着かない鼓動だけが、妙に現実味を帯びていた。
その時だった。
向かい側の窓に映る黒衣の女性が、静かに目を閉じた。
――キィン……
耳鳴りのような音が、頭の奥を細く掠める。
空気が変わった。
肌に触れる温度が、一瞬で数度落ちたように感じる。
少年は反射的に窓の外へ視線を向けた。
午後の陽光に照らされた山肌が見える。
本来ならくっきりとした緑が広がっているはずなのに、
その一角だけ、色がわずかに沈んで見えた。
山の向こう側から、薄い霧のようなものが
真昼の空へ向かって、ゆっくりと伸びている。
光の強い時間帯には不釣り合いな、
冷たい影のような霧だった。
「――うつしやま……」
黒衣の女性が、初めて小さく呟いた。
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
少年は息を呑む。
周囲の乗客は、誰一人として気づいていない。
窓の外。
電車の屋根の上に、黒い影が見えた。
黒衣の女性が片膝をつき、吹き荒れ始めた風の先を睨んでいる。
空気が震える。
遠くで、雷鳴のような音が響いた。
――ドン。
腹の奥まで響く重い振動。
直後、空から無数の雹が叩きつけるように降り始めた。
バラバラと激しく窓を叩く氷の音に、車内がざわつく。
だが少年の耳には、それとは別の音が聞こえていた。
風が唸っている。
空のどこかで、
巨大な翼が空気を押し割るような低い振動が響いた。
――ドン。
空の奥で、陣太鼓を打つような轟音が重なる。
山の向こうに、一瞬だけ光が走った。
白とも朱ともつかない閃光が、真昼の空を染め上げる。
その瞬間。
雲の奥で、巨大な鳥影のようなものが揺らいだ。
笑った。
そう錯覚するほど、不気味で、どこか高い音色を含んだ気配だった。
誰かが小さく悲鳴を上げる。
その直後。
全てが止んだ。
雹も。
雷も。
耳鳴りも。
まるで最初から何もなかったかのように、
静かな空気だけが残る。
電車は何事もなかったように、一定の速度で線路を走り続けていた。
その静寂を破ったのは、車内放送の“入る前のノイズ”だった。
――ザ……ッ。
車掌の声が震えている。
「……お、お客様にご案内いたします。ただいま……え、えー……気象の急変により……」
言葉が続かない。
マイク越しに、車掌が誰かと小声で話す気配が伝わる。
「……いや、だから……雷じゃない……音が……上から……」
雑音が混じり、放送が途切れた。
次の瞬間、車掌室の扉がわずかに開き、
蒼白な顔の車掌が通路を確認するように外へ身を乗り出した。
その目は、
“何かを見た人間の目”だった。
車掌は一瞬だけ息を呑み、
すぐに扉を閉めた。
車内には、
説明のつかない沈黙だけが残った。
電車は一定の速度で線路を走り続けていた。
そして気づけば、黒衣の女性は隣の席へ戻っていた。
髪と肩口が濡れている。
それだけでなく、彼女の周囲だけ、わずかに冷たい風が残っていた。
彼女は無言のままハンカチを取り出し、静かに水滴を拭っていた。
少年は何も聞けなかった。
喉がひとりでに固まり、声が出ない。
――聞いてはいけない。
そんな直感だけが、胸の奥に重く沈んでいた。
やがて電車は唐津駅へ到着する。
ホームでは、駅員たちが慌ただしく車掌へ詰め寄り、何かを確認していた。
先ほどの異変について話しているのだろう。
車掌は興奮した様子で何度も空を指差し、
震える手で身振りを交えて何かを訴えている。
だが、それとは対照的に。
黒衣の女性だけは、何事もなかったかのように静かだった。
濡れた前髪を指先で整え、小さく息を吐く。
その横顔には、焦りも動揺も見当たらない。
むしろ――“終わった”とでも言うような静かな気配だけがあった。
やがて電車は唐津駅へ到着する。
改札口を抜けると、駅構内には祭りの写真が数多く飾られていた。
巨大な曳山。
赤や金で彩られた豪華な装飾。
人々の熱気。
見慣れない祭りの風景に、咲耶は一瞬だけ目を奪われる。
指先には、さっきまでの冷気がまだ微かに残っていた。
「唐津くんち」の文字が、写真の下に記されていた。
その並びの先で、麦藁帽子を被った老人が大きく手を振っている。
隣には、がっしりとした体格の中年男性の姿もあった。
「おお、来た来た!」
麦藁帽子の老人が、少年へ歩み寄ってくる。
その目が、咲耶の濡れた肩口を一瞬だけ見て細められた。
「えっと名前は確か……天津君でよかったかの?」と老人。
少年は小さく頭を下げた。
「はい。天津咲耶です。これからお世話になります」
「おっ、こりゃ礼儀のよか少年ばい」
隣の中年男・亮助が豪快に笑う。
「おいは亮助。周りからは亮って呼ばれとる。んで、この帽子の爺さんは――」
亮助は隣の老人を親指で指した。
「世話焼きん、おせっかいで有名な俺の親父たい」
「おい、余計なこと言うな」
老人は苦笑しながら麦藁帽子を押さえる。
「よろしくな、咲耶くん」
麦藁帽子の老人――宗一郎は、咲耶を見つめながら心の中で呟いた。
――ほぅ。
天津の方か。
この少年も、かなりのものを背負って来とるな。
それにしても、あのババぁ……。
なんも説明せんまま迎えに行けとは、相変わらず無茶を言いよる。
宗一郎は小さく息を吐いた。
胸の奥で、守への呆れと、亮助の気の抜けた言葉がじわじわと混ざり合う。
(まったく……どいつもこいつも、好き勝手言いよって)
一度飲み込もうとしたが、
その“混ざった感情”は喉の奥で引っかかったままだった。
「ったく、何がおせっかいじゃ、こん馬鹿たれ」
吐き捨てるように言いながら、
宗一郎は亮助の足を軽く蹴飛ばした。
「いてっ……親父、急に何すっとね」
亮助が顔をしかめるが、怒ってはいない。
慣れた反応だった。
宗一郎はそのまま視線を空へ向け、
麦藁帽子を静かに持ち上げた。
「それよか、さっきの空、見よったか?」
うつし山の方角へ目を細める。
「すごか雨風やったなぁ……」
その声が、わずかに低くなる。
「あれは、ただの天気やなかばい」
咲耶は曖昧に笑い、小さく頷いた。
胸の奥に、まだあの冷気が残っている気がした。
黒衣の女性は二人へ軽く頭を下げ、小さな紙袋と封筒を差し出した。
「神代守様へ、よろしくお伝えください」
宗一郎は紙袋を受け取りながら、眉をひそめる。
「神代守……? あぁ、あの白髪くそばぁさんのことやね」
亮助が苦笑した。
「親父、その呼び方やめんね。親方様に聞かれたら怒らるっばい」
「知るか」
宗一郎は鼻を鳴らし、ふと首を傾げた。
「おや、一緒には行かんとね?」
その瞬間だった。
黒衣の女性の目つきが鋭く変わる。
視線は駅の向こう――うつし山の方角へ向けられていた。
まるで、何か“動いた”のを感じ取ったかのような目だった。
「……申し訳ありません。急用を思い出しましたので」
短くそう告げると、女性は踵を返す。
歩き出した足取りは静かだが、どこか急いている。
咲耶が振り返った頃には、
その姿はすでに駅前商店街の奥へ消えていた。
宗一郎はしばらくその方向を見つめ、
麦藁帽子のつばを指で軽く押し上げた。
「……あいかわらず、よう分からん女や」
亮助が肩をすくめる。
「親父、あの人、なん者なん?」
「知らん。けど――」
宗一郎は言葉を切り、うつし山の方角へ目を細めた。
「……ああいう目ばしとる奴は、だいたい厄介ごとば連れて来る」
咲耶は曖昧に笑い、小さく頷いた。
胸の奥に、まだあの冷気が残っている気がした。
車はやがて山道へ入る。
窓の外には、川沿いの道と、夕暮れに染まり始めた山々が広がっていた。
遠くの田畑を渡る風が、開けた窓から微かに流れ込んでくる。
車窓に流れる景色を眺めながら、咲耶は小さく息を吐いた。
田んぼ。
川。
山。
京都とは、まるで違う景色だった。
田舎は嫌いじゃない。
むしろ静かな場所の方が落ち着く。
――けれど、本当にここで暮らしていけるのか。
そんな不安が、胸の奥に重く沈んでいた。
幼い頃から向けられてきた視線を、咲耶は思い出す。
値踏みするような目。
失望を隠した顔。
そして時折混ざる、理由の分からない敵意。
自分の力の弱さ。
向けられていた視線。
そして――
京都を離れる直前、耳に残ったあの言葉。
『あの子では守れない』
胸の奥が、小さく軋む。
咲耶は静かに目を閉じた。
転校が決まったのは、ほんの数日前。
両親は「急な海外出張」とだけ説明した。
けれど咲耶には分かっていた。
それは建前だ。
天津の本家。
四つの守護を束ねる家。
その名を背負って生まれながら、自分には何もなかった。
力も。
才も。
期待に応えられるような何かも。
――あのまま京都にいたら、どうなっていたんだろう。
考えたくない記憶が、胸の奥でざわつく。
咲耶は無意識に右手を握り締めた。
(……考えすぎだ)
自分に言い聞かせるように、窓の外へ目を向ける。
夕暮れの山々が、静かに連なっていた。
車内に、しばらく静かな時間が流れていた。
バックミラー越しに咲耶の表情を見ていた亮助が、不意に口を開く。
「咲耶くん、生まれて間もない頃に一回だけこっち来たことあるとばってん、覚えとらんよね?」
咲耶は窓の外を見たまま、小さく頷いた。
「……はい」
「まぁ、そりゃそうたい」
亮助は苦笑しながらハンドルを軽く叩く。
「でもな、こっちじゃ結構有名なんよ。咲耶くんのお婆さん」
「……祖母が?」
「うん。皆から“親方様”って呼ばれとる」
その呼び名に、咲耶はわずかに眉を動かした。
胸の奥に、何か小さなざわめきが広がる。
亮助はその反応に気づいたのか、
どこか気を紛らわせるように明るい声を続ける。
「まぁ最初は驚くことも多かろうけど、ここは悪か所じゃなかよ」
助手席では、宗一郎が腕を組んだまま静かに目を閉じていた。
眠っているようにも見える。
だが時折、わずかに眉が動く。
その動きは、車の揺れとは違う。
まるで――遠くの何かに耳を澄ませているようだった。
宗一郎の指先が、ほんの一瞬だけ膝の上で動いた。
風の流れを測るように、空気の変化を探るように。
夕暮れの光がフロントガラス越しに柔らかく差し込む中、
宗一郎だけが、別の世界の気配を感じ取っているように見えた。
「ほら、見えてきたばい」
亮助がフロントガラスの向こうを指差した。
山の影の中。
古びた鳥居が静かに立っている。
苔むした石段。
深い森。
夕闇の気配。
――獅子神神社。
その瞬間だった。
石段脇の草むらで、何かが動く。
白い蛇だった。
細長い身体が音もなく草を抜け、
ゆっくりとこちらを見上げている。
金色の目が、咲耶と真っ直ぐ合った。
光を吸うような白さ。
なのに、生き物の温度がまるで感じられない。
距離はあるはずなのに、
その気配だけが異様に近かった。
まるで、咲耶のすぐ足元にいるかのように。
咲耶の喉が小さく鳴る。
次の瞬間。
風がひとつ、山から吹き抜けた。
咲耶が瞬きをした時には、
もう白蛇の姿はどこにもなかった。
残っていたのは、
静かに吹き下ろす山の風だけだった。
亮助が「ん?」と小さく首を傾げる。
だが宗一郎だけは、わずかに目を細めていた。
その表情は、
“何かを知っている者”のそれだった。
咲耶は胸の奥に残る冷気を、そっと押さえた。




