始まりは終わり
彼と出会ったのは、
春の終わりだった。
異動初日、
私の向かいの席に座った人。
「今日からお世話になります」
柔らかい声と、整えられた笑顔。
そして、左手の薬指の銀色。
それだけで十分だった。
私は最初から、
安全な距離を測った。
敬語、業務連絡、
雑談は天気の話まで。
彼も同じだった。
だからきっと、
安心してしまった。
残業が続いたある夜。
オフィスには、私たちだけ。
蛍光灯の白さがやけに冷たい。
「コーヒー、淹れますけど」
彼が立ち上がった。
マグカップを差し出すとき、
指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、離れなかったのはどちらだろう。
「あ……すみません」
そう言ったのは私だったか、彼だったか。
彼は何もなかった顔で席に戻る。
けれど、さっきまで画面を見ていたはずの目が、
一度だけ、まっすぐ私を見た。
長い。
長すぎる。
その沈黙の中に、
言葉より確かな何かがあった。
「家、寝に帰るだけなんですよね」
ぽつりと落ちたその言葉。
弱さを見せられると、
人は距離を間違える。
私は笑った。
聞き役の顔で。
でも、胸の奥が、
ゆっくりと温度を持ち始めていた。
既婚者だから、ではない。
それなら、もっと簡単だ。
本当に怖いのは、
彼が境界線を越えない人だと
知ってしまったこと。
越えないと分かっているから、
安心してしまう。
安心したまま、
少しずつ踏み込んでいく。
恋をしてはいけない理由は、
たぶん倫理じゃない。
どちらかが一歩踏み出した瞬間、
もう元の席には戻れないと、
最初から分かっていること。
なのに。
次の残業日を、
私は少しだけ、
待っている。
―――
数週間は特に何もなかった。だが、残業が続いたある夜。
オフィスには、私たちだけ。
蛍光灯の白さをデジャヴのように冷たく感じる。
彼が何か言いかけて、飲み込む。
その癖に、私はもう慣れていた。
一歩踏み出せば、
形が残る。
残ってしまえば、
消えない。
彼の指先が、
ふと机の上で私の手に触れたとき、
どちらとも先に離れたくないのか躊躇した間ができた。
「ごめん……」
また謝ったのは同時だった。
その瞬間、
胸の奥に何かが灯ったのに、
私たちは見なかったふりをした。
見てしまえば、
戻れなくなるから。
夜、スマホに彼の名前が浮かぶたび、
嬉しいのに、
少しだけ苦しい。
内容はどうでもいい。
天気の話でも、仕事の愚痴でも。
行間の沈黙が、
いちばん甘い。
ある日、彼が言った。
「もし、さ」
それ以上は言わなかった。
私も聞かなかった。
“もし”の先を知ったら、
どちらかが選ばなきゃいけない。
選ばなければ、
このままでいられる。
曖昧なまま、
曖昧に笑い合い、
曖昧に別れる。
それがいちばん安全で、
いちばん残酷だった。
転勤すると決まった彼の最後の日、
彼は私を見て、
何か言いかけて、やめた。
私も同じだった。
私たちは、
恋をしなかった。
ただ、
恋の形をした沈黙を
胸の奥にしまっただけだ。
それが片思いだったのか、
両思いだったのかは、
今も分からない。
分からないままのほうが、
きれいだから。




