第6話 魔法が使えないなら、拳で殴れ
朝の陽光が差し込むギルドの受付カウンターに、一通の依頼書がひらりと舞い落ちた。
羊皮紙に記された内容を一瞥したギルドマスター・バルドの眉間に、深いしわが刻まれる。その表情の変化を敏感に察知したリリアが、恐る恐る声をかけた。
「あの…バルドさん?なにか問題でも?」
バルドは重いため息をつくと、依頼書を三人の前に置いた。そこには『王都郊外・魔法禁止区域調査依頼』という文字が、まるで呪いのように黒々と書かれている。
「魔法禁止区域…?」リリアの声が上ずった。「そんな場所があるんですか?」
「ああ、古代の大戦時代に設けられた封印術でな」バルドが説明を始める。
「一定範囲内では、いかなる魔法も発動できない。魔力そのものが無効化されてしまうんだ。最近、その区域で正体不明の魔物の目撃情報が相次いでいる。調査と、必要であれば討伐を頼みたい」
ガルスの口角がにやりと上がった。「つまり、物理で殴れってことか」逞しい拳をぎゅっと握りしめ、関節がぽきぽきと音を立てる。
セレーネも愛用の鉄棒を手に取り、その表面を愛おしそうに撫でた。
「鉄槌の出番ですね」普段の穏やかな微笑みに、どこか恐ろしげな影が差している。
一方、リリアの顔は見る見る青ざめていく。
「ちょっと待ってください!私だけ完全に詰んでません!?魔法が使えない魔法使いって、ただの一般人じゃないですか!」
二人の仲間は既に出発準備を始めており、リリアの悲鳴にも似た抗議は虚しく宙に消えていった。
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王都郊外の森は、まるで生命力そのものが吸い取られたかのように静寂に包まれていた。
木々の枝は不自然にねじれ、葉は本来の緑を失って灰色に変色している。
三人が魔法禁止区域の境界線を越えた瞬間、リリアの全身に戦慄が走った。
「あ…あれ?魔力が…」リリアが慌てて詠唱を試みる。
「光よ、我が手に宿り——」しかし、いつもなら指先に宿るはずの光は現れない。
詠唱の途中で魔力が霧散し、まるで存在しなかったかのように消え失せてしまう。
「嘘でしょ…本当に魔法が使えない…」
「拳は詠唱不要だ」ガルスが力強く森の奥へと歩みを進める。その足音は、静寂を破って響く太鼓のようだった。
「鉄棒も、詠唱不要です」セレーネが微笑みながら続く。彼女の鉄棒が枯れ枝を踏み折る音が、不気味に響いた。
「だからって、全部物理で解決しようとしないでください!文明人なら知恵を使いましょうよ!」リリアの必死な訴えも、二人の耳には届いていないようだった。
森の奥へ進むにつれ、空気はますます重くなり、まるで見えない重しが肩に乗っているような圧迫感が増していく。枯れた下草を踏みしめる音だけが、不自然なほど大きく響いていた。
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突然、前方の茂みががさりと音を立てた。三人が身を寄せ合った瞬間、巨大な影が躍り出る。
それは人の背丈ほどもある巨大なトカゲ型の魔物だった。鋭く尖った爪は鋼鉄のように光り、分厚い鱗は鎧のように全身を覆っている。
その黄色い瞳に映る殺気に、リリアの背筋が凍りついた。
「リリア、後方支援は任せた」ガルスが拳を構えながら前に出る。
「後方支援って何ですか!?魔法使えないんですけど!?」リリアの声は裏返っていた。
「応援とか、ツッコミとか」セレーネが鉄棒を振りながら、まるで天気の話をするような調子で答える。
「それ支援じゃないです!単なる観客席です!」
魔物の咆哮が森に響く中、ガルスが地面を蹴って突進した。その拳は風を切り、魔物の顎を捉える。
骨と骨がぶつかる鈍い音が響き、魔物の巨体がよろめいた。
続けてセレーネが華麗に舞うような動作で鉄棒を振るい、魔物の太い尻尾を叩き折る。
リリアは必死に辺りを見回し、手頃な石を見つけて投げつけた。
「せい!えい!」石は魔物の鱗に当たって無力に跳ね返る。「全然効いてない…」
「魔法が使えないなら、物理で殴れ!」ガルスの雄叫びが森に響く。
「それ、聖職者の言葉じゃありません!」リリアが涙目で叫んだ。
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しかし魔物も手強かった。鋭い爪を振るい、長い尻尾で薙ぎ払ってくる。
ガルスとセレーネも徐々に苦戦を強いられ、息が上がってきた。このままでは押し負けてしまう。
リリアは歯を食いしばって考えた。魔法が使えない。詠唱もできない。
でも、魔力そのものまで消えたわけじゃない。それなら——
「詠唱ができないなら…魔力を直接流し込む…!」
リリアは決意を固めると、体内に眠る魔力を拳に集中させ始めた。魔力が指先に集まるのを感じながら、魔物の足元へと突撃する。
「魔法拳・雷撃掌!」
リリアの拳が魔物の足に触れた瞬間、微弱ながらも青い火花が散った。
雷の魔力が魔物の体を駆け巡り、その巨体を痺れさせる。魔物の動きが一瞬止まった。
「おお…これが魔法拳か!」ガルスが目を輝かせる。
「物理と魔法の融合…素晴らしいアイデアです!」セレーネが手を叩いて感嘆した。
「いやいやいや!これ魔法使いとして正しい進化なんですか!?」リリアは混乱しながらも、その一撃の手応えに驚いていた。
三人の連携攻撃により、ついに魔物は倒れた。森に再び静寂が訪れる。
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夕暮れが森を染める中、三人は街への帰路についていた。
リリアは疲れ切っていたが、どこか達成感も感じていた。今日は魔法に頼らず、自分なりの方法で戦えた。それは新しい発見だった。
「魔法が使えない状況でも、工夫次第で何とかなるものですね…」リリアがぽつりと呟く。
「拳は万能だ」ガルスが満足そうに頷く。
「鉄棒も万能です」セレーネが穏やかに微笑む。
「それは絶対に違うと思います!」
リリアの渾身のツッコミが、夕暮れに染まった森に響き渡った。遠くで鳥たちが羽ばたく音が聞こえ、ようやく森に生命の気配が戻ってきたようだった。




