第2話 真面目な新人の困惑
翌朝、リリアは約束の時刻より三十分も早くギルドに到着していた。昨夜はガルスの戦闘を思い返してほとんど眠れなかった。
「おはようございます、リリア様」
受付嬢のマリアが微笑みかけてくる。
「おはようございます。あの、ガルス様はまだ…?」
「いえ、もう来られていますよ。裏の訓練場にいらっしゃいます」
訓練場?リリアは首をかしげながらギルドの裏手に向かった。そこで見たものに、彼女は言葉を失う。
ガルスが素手で木製の人形を殴り続けていた。一撃ごとに鈍い音が響き、人形の表面に深い凹みができている。そして——彼は祈りの言葉を唱えながら殴っていた。
「天なる神よ、汝の名において悪を討つ!」
右拳。
「正義の名において罪を正す!」
左拳。
「聖なる怒りをもって敵を砕く!」
回し蹴り。
人形がついに倒壊した。
「……ガルス様?」
リリアが恐る恐る声をかけると、ガルスが振り返る。額に汗を浮かべているが、表情は清々しい。
「来たか。今日は基礎訓練から始める」
「あの、今のは…?」
「朝の祈りだ」
「祈り…ですか?」
「そうだ。神への感謝と、今日一日の無事を願う祈りだ」
リリアは困惑した。確かに祈りの言葉は本物だった。だが、それを唱えながら人形を破壊するのは、どう考えても異常だ。
「普通の聖職者は跪いて静かに祈ると思うのですが…」
「俺は普通の聖職者じゃない」ガルスは新しい人形を設置しながら答えた。「行動で示してこそ、真の信仰だ」
「今日は魔法の基礎を確認する。まずは火の玉を撃ってみろ」
訓練場の中央で、ガルスがリリアに指示を出した。周囲には魔法練習用の的が並んでいる。
「はい!」
リリアは杖を構え、詠唱を始めた。
「炎の精霊よ、我が呼び声に応えて——」
「遅い」
ガルスの言葉にリリアの詠唱が止まる。
「え?」
「実戦で詠唱にそんな時間をかけていたら、敵に殴り殺される」
「でも、正確な詠唱をしないと魔法が暴走する可能性が…」
「なら暴走しない程度に短縮しろ。火の玉程度なら『炎よ、出でよ』で十分だ」
リリアは眉をひそめた。魔法学院では、詠唱を短縮することの危険性を散々教え込まれている。
「それは危険です。魔法学院の教科書には——」
「教科書に書いてあることが全て正しいと思うか?」
ガルスが歩み寄ってきた。その眼は真剣だ。
「昨日、森でお前は何も出来なかった。俺が戦っている間、お前は杖を構えたまま突っ立っていただけだ。なぜだと思う?」
「それは…突然のことで、準備が…」
「違う」ガルスは首を振った。「お前は完璧を求めすぎている。完璧な詠唱、完璧な魔法制御、完璧な戦術。だが実戦に完璧など存在しない」
リリアは反論しようとしたが、言葉が出てこなかった。確かに昨日、彼女は何もできずに終わった。
「もう一度やってみろ。今度は短縮詠唱で」
「でも…」
「俺がついている。暴走したら物理的に止めてやる」
物理的に止める?リリアは青ざめた。まさか魔法を拳で打ち消すつもりではあるまいな。
だが、ガルスの表情は本気だった。
「『炎よ、出でよ』」
リリアは恐る恐る短縮詠唱を試した。杖の先端に小さな火球が現れ——そして制御を失った。
「きゃあ!」
火球が的を外れて明後日の方向に飛んでいく。このままでは訓練場の壁に激突して爆発する。
その時、ガルスが動いた。
彼は走りながら拳に魔法力を込め、暴走した火球に向かって右ストレートを放った。拳と火球が激突した瞬間、火球は霧散した。
「え…?」
リリアは目を見開いた。魔法を物理攻撃で相殺するなど、理論上は不可能に近い。
「魔法も結局はエネルギーだ。同等以上のエネルギーをぶつければ相殺できる」
ガルスは何でもないというように拳を振った。
「今度は的を狙ってやってみろ」
三時間後、リリアはようやく短縮詠唱での火の玉を的に命中させられるようになった。だが、疲労困憊だった。
「休憩にしよう」
ガルスが水筒を差し出してくる。リリアは感謝して受け取った。
「あの…質問があります」
「何だ?」
「なぜあなたは物理戦闘にこだわるのですか?強力な回復魔法が使えるなら、攻撃魔法だって使えるはずです」
ガルスは少し考えてから答えた。
「昔、仲間を失ったことがある」
リリアの表情が真剣になる。
「魔法に頼りすぎていた。魔法力が尽きた時、俺は何もできなかった。仲間を守ることも、敵を倒すこともできなかった」
ガルスは拳を握りしめた。
「それから決めた。魔法は人を救うためだけに使う。戦うのは、この拳だ」
リリアは黙って聞いていた。ガルスの言葉には、深い悲しみと強い意志が込められていた。
「でも、効率を考えれば魔法の方が…」
「効率?」ガルスが振り返った。「お前は効率のために冒険者になったのか?」
「それは…違いますが」
「なら何のために?」
リリアは困った。魔法学院では成績が全てだった。より高度な魔法を覚え、より効率的に問題を解決することが正義だと教わった。だが、冒険者になった理由は——
「人の役に立ちたかったからです」
「なら俺たちは同じ目的を持っている」ガルスは微笑んだ。「方法が違うだけだ」
その時、ギルドの方から慌ただしい足音が聞こえてきた。マリアが駆け寄ってくる。
「ガルス様!緊急依頼です!」
「商人の護衛依頼が急遽発生しました」
ギルドマスター室で、バルドが説明した。
「本来なら中級冒険者数名で対応する予定だが、全員他の依頼で出払っている。ガルス、お前に頼みたい」
「護衛対象は?」
「薬草商人のロベルト氏。隣町まで薬草を運ぶ予定だが、最近その街道で盗賊が出没しているという情報がある」
リリアが手を上げた。
「私も参加させてください!」
バルドは困ったような表情を浮かべる。
「君はまだ新人で…」
「実戦経験を積むには良い機会だ」ガルスが口を挟んだ。「ただし条件がある」
「何ですか?」
「俺の指示には絶対に従うこと。そして、危険だと判断した時は迷わず逃げること」
リリアは力強く頷いた。
「承知しました!」
一時間後、二人は商人のロベルトと共に馬車で街道を進んでいた。ロベルトは五十代の温厚そうな男性で、薬草の知識が豊富だった。
「この街道も昔は安全だったんですがねえ」
ロベルトが手綱を握りながら嘆く。
「最近は物騒で、一人では怖くて通れません」
「盗賊の規模は?」ガルスがリリアに尋ねた。
「えーと、目撃情報では五、六人程度とのことです」
「なるほど」ガルスが頷く。「ゴブリンより人数は多いが、基本的な対処法は同じだ」
「同じって…人間の盗賊とゴブリンを一緒にするんですか?」
「敵は敵だ」
リリアは呆れたような表情を浮かべた。この人は本当に物事を単純に考える。
その時、街道の前方に倒木が横たわっているのが見えた。明らかに人為的に置かれたものだ。
「止まれ!」
茂みから数人の男が現れた。顔を布で覆い、剣や斧を持っている。まさに盗賊の典型的な出立ちだった。
「大人しく荷物を渡せば命は助けてやる!」
リーダー格らしい男が叫んだ。
ロベルトが震え上がる中、ガルスは馬車から飛び降りた。
「お前たちには二つの選択肢がある」
昨日と全く同じ台詞だった。リリアは苦笑いを浮かべる。
「一つ目は大人しく立ち去ること。二つ目は——」
「俺の拳と語り合うことだ」
盗賊たちは一瞬ひるんだが、すぐに数の有利に気づく。
「たった二人で何ができる!やっちまえ!」
六人の盗賊が一斉に襲いかかってきた。
「リリア!後方支援を頼む!」
「は、はい!」
リリアは杖を構えた。今度は躊躇しない。
「炎よ、出でよ!」
短縮詠唱で火球を放つ。狙いは正確で、一人の盗賊の足元に着弾した。爆発で相手がよろめく。
その隙にガルスが突進した。よろめいた盗賊に右フックを叩き込み、続けざまに別の盗賊に肘打ちを決める。
「うおおお!」
残りの盗賊たちが剣を振りかざして襲いかかるが、ガルスの動きは昨日より更に鋭かった。武器を持った相手でも、間合いを詰めてしまえばこちらのものだ。
「風よ、縛れ!」
リリアが風の魔法で一人の盗賊の動きを封じる。ガルスがその隙に拳を叩き込んだ。
わずか三分で、六人の盗賊が全て地面に転がっていた。
「すごい…」ロベルトが感嘆の声を上げる。「まるで嵐のような戦いぶりでした!」
「今日のお前は昨日より良かった」ガルスがリリアに言った。「短縮詠唱も身についているし、状況判断も適切だった」
「ありがとうございます!」リリアの顔が輝く。「でも、まだまだガルス様の足手まといですね」
「足手まとい?」ガルスは首を振った。「お前の魔法がなければ、もっと時間がかかっていた。連携というものを理解し始めている」
リリアは嬉しそうに微笑んだ。初めて師匠に認められた気がした。
「さあ、先を急ごう」
三人は再び馬車に乗り込んだ。だが、この時のリリアは知らなかった。彼らの戦闘を、森の奥から見つめている人影があることを。
その人物は、白い聖職者のローブを着ていた。そして、手には異様に硬そうな鉄の棒を握っていた。
「興味深い戦い方ですね」
その人物——女性の声が森に響く。
「これは…お近づきになる価値がありそうです」
彼女は馬車の後を追うように、静かに森の中を移動し始めた。その表情には、獲物を見つけた肉食獣のような笑みが浮かんでいた。




