第6話「ねえ、私はこの世界に存在する人ですか?(6)」
『莉雨ちゃん、良かったよ』
『莉雨ちゃん、お疲れ様』
昔は知らない人たちに、よく名前を呼ばれた。
正確には一緒に仕事はして名前は知っているけど、心の中では何を考えているか分からない大人たちによく名前を呼んでもらった。
そんな日々が当たり前で、それが私の日常だった。
「っ、あ、その……」
嬉しい。
嬉しい。
嬉しすぎる。
でも、よりにもよって有栖川蒼に名前を呼ばれるなんて悔しすぎる。
「俺の名前、呼んでみる?」
有栖川蒼の表情から、笑顔が消えた。
そして、カメラに向いていたはずの視線は私に向けられる。
有栖川蒼の視線を、私は独占している。
「……っ、そんなの卑怯」
これじゃあ、意地でも彼のことを名前で呼ばなければいけないような気がしてくる。
わざわざ名前を呼ばせる状況を作り上げるなんて、なんて根性が悪いんだと思ってしまう。
「蒼」
「っ」
道を塞がれてしまっては、もう有栖川蒼に縋ることしかできなくなる。
私の中の有栖川蒼が、有栖川蒼でなくなる。
私が、過去の有栖川蒼という存在を消し去った。
「……これで満足?」
「ありがとう、莉雨」
やんわりと笑う有栖川蒼は、なんて表現すればいいのか分からないけど綺麗に見えた。
深い蒼色の中に、有栖川蒼が溶け込んでいくかのような錯覚。
青い空も有栖川蒼の存在も決して消えてしまうはずがないのに、儚さのようなものを感じてしまう。
そのせいで、私の視界に入るすべての景色を美しく感じてしまう。
「ところで! 話題を逸らさないで! そのカメラ、返し……」
「なかなかいい写真が撮れたと思うんだけど」
またしても、言葉を失ってしまった。
人間、本当に感動したときは何も声が出なくなるんだなってことを学ばせてもらう。
カメラは渡す気がないのに、写真は簡単に見せてくれる。
一体なんなのか。
一体、有栖川蒼は何を考えているのか。
「別世界の写真みたい……」
空との距離に気を取られてばかりいて、辺りの景色なんて一切視界に入れることができていなかった。
それなのに有栖川蒼に手招かれることで、私の視界はだんだんと広がりを見せていく。
「建物だけは、ここが学校って丸わかりだけどな」
「あ、じゃあ、このコンクリート部分を撮影しないで、私と空が……」
冷静になって、自分が立たされている状況を確認する。
私は有栖川蒼に、何を提案しようとした?
「ごめん! なんでもない!」
自分が綺麗に見える方法を探した?
それとも、有栖川蒼の撮った写真をどうすればもっと良いものに仕上げられるのか考えた?
どっちにしたって、恥ずかしい。
どちらを選んでも、自身の行いはとても恥ずかしいもの。
「また話を逸らされたけど、今度こそ写真を返してもらう……」
「莉雨、待っ……」
有栖川蒼が私との距離を取ろうとするから、私は彼を追いかけようと一歩を踏み出す。
有栖川蒼に置いて行かれないように自然と駆け足になる自分だけど、何か心残りがあるような気がして誰もいなくなった屋上を振り返る。
「莉雨?」
「あ、ううん……」
青い空を別れることを、こんなにも寂しいと感じてしまう。
階段の下に向かっていくということは、空との距離が遠くなるということ。
これで、いい。
青い空なんて滅んでしまえばいいってくらい、私は青い空が嫌いだった。
だから、これでいい……はず。
「隙は見せちゃダメだよ、有栖川蒼」
「は?」
光溢れる未来ってものを訴えかけてくる深い空の青が鬱陶しかったはずなのに。
あんなにも憎たらしくて仕方がなかった存在を、こうも綺麗に感じてしまうなんて悔しすぎて仕方がない。
「カメラは、私が預からせてもらう……」
「あーあ、せっかくのいい雰囲気が台無し」
有栖川蒼と、同じ気持ちを感じられることが嬉しいのかもしれない。
有栖川蒼と、好きなものが同じということが嬉しいのかもしれない。
自分に起きている事象すべてが嬉しいのかもしれないけど、それはそれでやっぱり認めたくない。
「なんで……」
カメラを奪うとき、私は有栖川蒼の指に触れた。
「んー、答えを返すなら、俺が死んでるからかな」
でも、カメラを奪うことに成功はしても、私は有栖川蒼の指に触れることができなかった。
「死んで……?」
「俺から触ることはできる。でも、死んでるせいなのか、莉雨……だけじゃなくて、相手から俺に触れることはできないってこと」
やっとの想いで有栖川蒼のカメラを奪い去ることに成功したのに、自分を幽霊と称する有栖川蒼は力の抜き切っている私の両手からカメラを強奪していく。
「そんな話、あるわけがない……」
もう一度、カメラを取り戻しに行く。
その際に、彼の指にもう一度触れた。
でも……。
「透ける……だろ?」
私は、彼に触れることができない。
有栖川蒼は私を宥めるように、おとなしくカメラを私に手渡してくれる。
「でも、俺は莉雨に触れることも、カメラを持つこともできる」
「そんなのって……」
幸せを幸せだって認めることができているような、彼の笑みに惚れそうになった。
けれど、その笑顔の裏には、俺は大丈夫だよって芝居が隠されていたことを私は知る。
「握手でもする?」
結果は、同じ。
有栖川蒼に手を差し伸べられたところで、私は有栖川蒼に触れることができない。
有栖川蒼は、私に触れることができる。
握手を交わしたときに、彼が嬉しそうな笑みを浮かべてくれたことが心に引っかかる。
「私の指、熱い? 冷たい?」
「ちゃんと熱があるよ」
「……そっか」
「莉雨は生きてるんだから、ちゃんと熱を感じる」
狡いよ、狡い。
全部が狡い。
なんで赤の他人程度の私の前で、芝居をするのか分からない。
俺は大丈夫だってフリをしなければいいのか分からない。
「ずっと……独りだったの?」
「独りじゃないよ。ちゃんと認識されてるだろ?」
「確かに、有栖川蒼は私のクラスメイトだけど……」
有栖川蒼は、私にだけに見える特別な幽霊ではない。
誰もが、有栖川蒼のことを認識している。
誰もが、有栖川蒼は生きているって信じ込んでいる。
「ほら、莉雨が泣きそうな顔してどうすんだよ」
私は、幸せってものに不慣れだったことに気づく。
手にした途端に幸せが失われてしまうんじゃないかって不安が、どんどん私の涙腺を煽り始める。
(幸せになりたいって思ったのに……)
本当の幸せってものを手にしてみたい。
ありのままの自分でいられる場所を、ようやく見つけられたような気がした。
それなのに、それを教えてくれた有栖川蒼は、私が生きる世界に存在しない人だった。