「見えない未来を始めるために、私は私にできることを探してみた」
今日、私が呼吸してきた日々が戻ってくる。
今まで吸い込んできた空気に、新しい空気が混ざり込んでくるのを感じる。
「桝谷さん、入ってください」
「ありがとうございます」
子役のときに吸い込んできた空気の重さに耐えられないと思い込んでいたけど、今日の空気は吸い込みやすい。
(帰ってきたよ、役者の世界に)
多くのスタッフと、数台のカメラの目が突き刺さる。
突き刺さるって表現は痛みだけを伴うように感じてしまうけど、私に向けられる視線は高揚感へと変わっていく。
もっと、もっと、私に注目してほしいっていう欲が、眠っていた感覚を呼び覚ます。
「着いた……」
たった今降りたばかりの列車が、もう出発の合図を鳴らしている。
定められた時刻通りに運転するのは、もちろん大事なことだけど、せめてもう少し。
ほんの少しでいいから、この土地に降りた余韻に浸るくらいの時間を与えてほしい。
「そんなに急がなくてもいいのに……」
汽笛の音にかき消される、私から列車への盛大な愚痴。
人を降ろして、人を乗せたら、もう出発。仕事なのは分かっている。
仕事、仕事、仕事をやって、社会というものは成立していく。
それは確かに、そうだけれど。
「まるで、歓迎されてないみたい……」
誰も聞いていない、誰にも聞こえることのない声の大きさの独り言。
列車がこんなにも事務的に事を進めてしまっては、この土地に降りたことへの感動も何もない。
この土地へようこそ、みたいな祝福感溢れる雰囲気なんて夢のまた夢ということかもしれない。
時間は止まることなく進んでいくのだから、列車が忙しく活動するのは当然のこと。
いつまでも同じ場所で、動かずに待っていることなんてしない。
「もしもし」
古びた小さな駅に降り立ったのは私、独りだけだった。
「今、到着しました」
耐震強度とかいろいろ心配になってしまう建物の造りは、リフォームも何もされていない手つかずの状態だということを物語っていた。
おかげで、紹介された駅の写真と何ひとつ変わっていない駅の有様に安心感を抱くけど、この写真もいつ撮影されたものだか分かったものではない。
自分では気づくことができないけれど、どこかしらは変化してしまっているのかもしれない。
「どっちの方向に歩けば……」
ずっと変わらない、なんてことがあるはずがない。
時間は止められない。時間は未来へと歩んでいくものだから。
「駅を出てすぐ、ですね」
一緒にいたいけれど、一緒にいることができない人。
一緒にいることができないけど、とても愛しい人。
時間が経過することで、大好きな人との別れは必ず訪れる。
「はい、はい。大丈夫です、今日からお世話になります」
別れがあれば出会いもある、出会いがあれば別れもある。なんてことを、人は言う。
けれど、それってある意味残酷だと思っている。
新しい出会いが待っているから別れなさい、別れが待っていのが嫌なら出会うのをやめなさいって言われているみたいで、好きじゃない。
「今、急いで向かいます!」
別れは悲しい、寂しい、辛い、苦しい、痛い。
どの言葉を使っても表わすことのできないような感情を伴うのに……。
この先に待っている出会いに目を向けなさい、と励まされたって元気が出てくるわけがない。
これからの出会いに乞うご期待とか。
期待できないから、こんなにも苦しい。
「はい、一旦失礼します」
でも、どんなに辛い別れが訪れたとしても、いつかは前を向かなければいけない。
小さな子どもでも理解しなければいけない現実を、私が理解しないでどうする。
後ろを振り返ってばかりはいられない。
残された人間は、これから続いていく人生を生き抜かなければいけないのだから振り返ってばかりはいられない。
「どこにいるんだろう……」
桜が舞う。
桜が舞う。
今は、桜が咲いている季節。
今は、桜が咲き誇っている季節。
桜の花びらが、空を舞っている。
青い空に、桜色の花びらが彩りを加えていく。
「迷子も、またよし」
私が見上げている空に、舞う桜。
桜には祝福のイメージがあって、新しくやって来た土地に住むことを許してくれている。
桜が、私の幸福を祈ってくれているかのような。
そんな妄想ごとを積み上げていけば、自分の抱えている不安なんて消え去ってくれるんじゃないか。
そう、思った。
「……さん?」
名前を呼ばれたの、何年ぶりだろう。
この世界には苗字と名前というものがあるけれど、名前なんてものはなくても生きていける。
苗字で呼ばれることに慣れてしまえば、後は流れに身を任せるのみ。
自分の名前を呼ばれないことに対して、寂しさなんて抱かなくなる。
そう思っていたはずなのに……。
「はい、私です」
私に与えられた新しい人間関係が、私の心を動かし始める。
「お迎えありがとうございます」
「いえ、あの、私が一刻も早くお会いしたかったので……」
そんな嬉しすぎる言葉を羅列してくれるだけの価値が、俳優の桝谷莉雨にはあったということなのか。
彼女が私を必要としてくれるから、私は今日も俳優として生きることができる。
「今日から、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、あの、よろしくお願いします」
朗らかな笑みを浮かべる彼女が、なぜ引きこもりになってしまったのか。
今日が初対面の私に向ける笑顔は凄く素敵なのに、その笑顔にこそ無理が隠されているってことを知っている。
「辛いときは泣いてもいいですよ」
「…………」
「今まで、独りでよく頑張ったね」
「ふっ、うっ…………」
私の言葉が、心に届いたのかもしれない。
溜め込んで感情が一気に溢れそうになった彼女と、数年前の私を重なって見える。
独りで荷物を抱えるのは辛いけれど、こうして荷物を一緒に持とうとしてくれる人がいるのは本当に心強い。
「ありがとうございます……!」
泣きたいときに泣くことができる場所があるのは、凄く幸せなこと。
これは本当に、そうだと思う。
「いっぱい泣いたので……。一生分ってくらい泣いたので、もう大丈夫です」
「そう言うなら、信じます」
「これからは一生、元気で頑張っていきます!」
始まりの季節に咲く花が、私たちの始まりを祝福しているように見える。
目の前にいる彼女が、世界を彩る花の美しさに気づくことができるように。
俯きがちの彼女が、空と花びらの二色が作り上げるコントラストを見上げることができるように。
「もしも……私が泣きたくなるようなことがあったら、甘えさせてください……」
「遠慮しないでくださいね」
優しくされることが辛かったときがある。
温かさに包まれることが苦しくなってしまったことがあった。
人の優しさも温かさも大好きなのに、人の好意を受け入れることが怖くなってしまったときが確かに存在した。
「ありがとうございます……」
「遠慮しなくていいよ」
同情、されていると思ったから。
あの子は可哀想な子なのよ、だから優しくしてあげなさい。
そういう雰囲気が漂っていたから。
だから優しくされるのも、特別扱いされるのも好きじゃなかった。
「車の運転できたら、もっとかっこつくんだけど」
そんな歪みきった私も、私の一部ではあるけれど。
そこはそこで、私の黒い部分だって認めなきゃいけないところではあるけれど。
「少し……かなり歩くことになると思うんですけど、なんとか付いてきてくださいね」
明日を生きなければいけない私には、人の優しさも温かさも必要だった。
すべての感情をしまい込んで、何も感じない自分を演じきれれば良かったのかもしれないけど、自分の中の人格をコントロールするには無理が生じた。
「…………これから、たくさん……迷惑かけます……」
他人に優しく、自分に厳しく生きていくには、人の優しさも温かさも受け入れなきゃだと思った。
「カット!」
自分が、駄目になるから。
「確認入ります」
恐れなくていい。
怖がらなくていい。
今日が始まりだから。
今日から、新しい人生を始める。
(残された私は、これから続く人生を生きていってみせるよ)
蒼を亡くしたときに抱いた感情が、台本に書かれてある台詞と共に反復されていく。
蒼と同じ感情を抱くことができているなんて、そんな贅沢でおこがましいことは言えない。
だけど、蒼の気持ちを私はほんの一部分でも受け取ることができているかなって自惚れ。
蒼がやってきたことを、私はほんの少しでも担うことができているだろうかって自惚れる。
「蒼」
私はただ、私に与えられた環境に溶け込めばいい。
ねえ、蒼。
もう、何も心配する必要はないよ。
優しい蒼が広がる空を、やっと独りで見上げることができるようになったから。
「私の芝居、ちゃんと見てた?」
クラスで独りぼっちの蒼を追いかけていたときから、きっと私は完全に恋に落ちていた。
恋に落ちるって言葉の意味を、私は自分の人生をかけて体感した。




