第1話「馬鹿正直に愛をくださいと叫んだ、その結果(1)」
誰も入って来ない教室で、濁りのない空気を吸い込む。
朝の澄んだ空気は、なんとなく体にいいような気がする。
そんな思い込みは、今日も私に一番乗りという称号を与えてくれる。
(始まりはいつだって、心高鳴るものだったはずなのに)
高校に合格して、この街を初めて訪れたとき。
視界に入ってきた光景は、今でも忘れられない。
言葉の通り、静かで穏やかな場所。
ここでなら、呼吸がしやすくなるかもしれないって幸福が生まれた。
「おはよ、莉雨」
蒼の声を聞くと、空気が和らいだような感覚に陥る。
自然と安堵の笑みを浮かべられるようになった自分に驚きつつ、隣にいてくれる蒼に感謝の気持ちを心に刻む。
「おはよう、蒼」
どこまでも透き通った純粋な空気を独占する時間が終わりを告げ、普段使用している馴染みある教室に登場人物が一人加わった。
「結果出た?」
「あー、うん」
教室に掲示してある、英語のクラス分け表を見て見ぬふり。
視線はクラス分けの表に向けているようで、実際は蒼のことを視界に入れていたい。
蒼が、私の隣で存在してくれているってことを確認したい。
「また同じクラスか」
「できないフリした方が、知り合いも多いから」
まだ登校する生徒の数が疎らと分かるくらい静まり返った校舎で、私たちは穏やかな時間を過ごす。
それだけ早い時間に私たちは登校していて、まだ生徒が足を踏み入れていない校舎の空気を私は思う存分吸い込んでみる。
「蒼は『できないクラス』で《《できる》》を、思う存分に発揮するの?」
「そっちの方が、目立てるかなって」
「蒼、目立ちたいの?」
「目立ちたいって言うよりは、記憶に残りたい」
教室の前に立ち、扉に手をかけたときのことだった。
「そんな深刻に捉えなくていいって。はい、扉を開けてください」
蒼に促されながら、軋む音とともに扉を開くと誰もいない教室が姿を現す。
「クラスのみんなに、英語のできる奴がいたって記憶を残したいなぁって」
机と椅子が整然と並んでいる様子が、これから学校が始まることを物語っていた。
これから学校が始まるのは紛れもない事実なのに、蒼がくれる言葉の重みを受け入れるために静かに酸素を取り込む。
「クラスの人たちに、蒼の記憶を残したいね」
「でも、そんな努力も一年も保たないってところがな」
歩を進めて自分の席に戻る途中で、誰ともすれ違うことがない教室の中が愛おしい。
聴覚は木造校舎と靴の擦れる音を鮮明に拾っていくけれど、それすらも寂しさと感じずに愛おしいと思えるのは大きな成長かもしれない。
(蒼は亡くなってからずっと、誰かに見つけてほしかった)
登校用の鞄とは別に、トートバッグに入れてきたお弁当箱を取り出す。
「朝から、凄い食べるんだな」
机にお弁当箱を置いたタイミングと、蒼が自分の席へと向かうタイミングが重なった。
私が蒼の秘密を知ることになったことを奇跡と呼ぶのなら、こういうタイミングの重なり方も奇跡って呼んでもいいのかもしれない。
「蒼って、食べ物を口にできるって解釈で合ってる?」
「この間、茶を飲んだときに証明したと思うけど」
蒼との毎日は、奇跡の連続でもあるってことを忘れないようにしたい。
「お昼ご飯……交換してみたいなーって」
本当のことを言うと、私の手作りを蒼に押しつけたい。
でも、私は蒼の彼女でも、お母さんでもないってことをわきまえている。
ただのクラスメイトが手作りのお弁当を食べてほしいなんて願いを抱くことが、そもそも間違っていると気づいている。
「私のお弁当と中身は違うから。お揃いのお弁当にならないように配慮しているっていうか……」
なんで、いきなり蒼に手作りを押しつけたいなんて発想になったのか。
正直、自分でもよく分からない。
きっと蒼が食べ物を口にできるうちに、なるべく多くの味と関わってほしいとか。
そういう気持ちが働いただけだとは思うけ、ど……。
「蒼?」
机の上に置いた、お弁当箱が攫われていった。
「え、ちょっ、待って!」
「たまには莉雨の手作りとか食べてみたい」
どうして机に置いてあったお弁当のほかに、もう一個のお弁当箱があることに気づいたのか。
どうして、私の分のお弁当が用意してあると分かったのか。
私は、お昼ご飯を交換したいとしか言っていないはず。
「甘えさせてよ」
「蒼!」
「ほら、クラスでは他人のフリ」
蒼からお弁当箱を取り戻そうとするけれど、蒼は時計を指差して余裕あるところをアピールしてくる。
さすがは芸能人並みの容姿をしている蒼は身長が高くて、手も足も出ない。
「くっ……」
「俺は、平穏な幽霊生活を送りたいんだよ」
私が早起きして作ってきたお弁当箱は蒼の手中に収まり、まるで始めから蒼のお弁当箱だったんじゃないかと錯覚させるほどの馴染み具合に言葉を失う。
「はぁ」
お互い、自分の席でおとなしくする。
私も蒼と同じで、蒼が幽霊だって秘密をばらしたいわけでもない。
クラスの人たちに、私たちの関係が縮まったなんて余計な情報は伝えたくない。
「…………」
ふと、お弁当箱を入れてきたトートバックが目に入る。
幽霊の蒼は人の心を読む力を持っているとか、そういう事情があるのかもしれないと妄想を膨らませたことを謝りたい。
(私のお弁当箱、見えてる……)
要するに、蒼は私がお弁当箱を二個用意してきたことに気づいていた。
気を遣ってくれたのだと分かると、顔に熱が籠もり出すから嫌になる。
「……蒼って、凄く素敵なクラスメイトだったんだね」
素敵という言葉に対して、蒼は特に返事をくれない。
それは、もっともなこと。
私と蒼は、ただのクラスメイト。
ただのクラスメイト以上って関係を、互いに知られたくない同士。