第8話 哀感
「大変…「哀感」だわ…」
そいつは虚な目をして、ヨレヨレのスーツの様なものを着ていた。しかし、中年男性の姿ではあるが、何かモヤが掛かっている様な、はっきりしない見た目をしていた。
「何デダヨォ… 哀シイヨォ… ナァ…何デダヨォォォォォォ!」
涙を流しながら呻くような声を出した。再び目を凝らして見ると突風が吹き、姿が消えた。
あれ…?姿が消え…
バシィィン
痛い…血が出ている…?俺は、殴られた…?ほんの一瞬でどうやって…?
俺は岩に身体を叩きつけられ、特に強打した頭からは血が流れていた。目の前が真っ暗になり、力を入れても、指一つ動かなかった。
全身が痺れているみたいだ…動かない…?意識が朦朧とする…あの時とは違う…
また、あのときと同じの声が聞こえた。
ー望月龍成ノ身体ヲ強制的ニ使用シマス。ー
相変わらずの無機質な声。だが、朦朧とした意識の中、俺は必死に思った。
あぁ…そうか…勝手にしやがれ…
俺は意識の中に深く深く落ちていき、夢を見ているような気分になった。
動かなかった筈の身体は立ち上がり、哀感にゆっくりと近付いていった。
宵は剣を使って哀感と戦っていたが、全く歯が立たず、劣勢の様子だった。しかし、俺に気付くとほんの少しだが、表情が柔らかくなったが、その隙を突かれ、殴り飛ばされてしまった。
「天邪鬼、理解不能ヲ使用シマス。」
視界が澄み、哀感と宵の動きがスローモーションに見えた。
アイツの顔が段々とはっきり見えてきた。男…?
男は涙を流しながら悲痛な叫びを上げた。
「灯花…梨花…何で無視するんだよぉ… 俺は…お父さんは…こんなに仕事を頑張っているのに… 「おかえり」ぐらい言ってくれよぉ… 何でだよぉ…何デダヨォォォォォ!」
この世のものだとは思えない程に顔が歪み、黒い霧の様なものが噴き出した。周りが黒い霧で包まれ、啜り泣く音がそこら中から聞こえる。
「龍成くん!何処!?大丈夫!?注意して!」
飛ばされた宵の声が随分と反響して聞こえた。
居場所がよく分からない…
「理解不能ヨリ、「汝、名を示せ」ヲ使用シマス。」
支配された身体は宵を捜さず、俺がまだ使えなかった「理解不能」の持つ力を使った。
なぜ宵を捜さない?哀感を倒す方が優先的なのか?
考えを巡らしてどうにか身体を取り戻そうと思った時、とてつもない頭痛がした。
何かが流れ込んで来る…?
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そこは、ごく一般的家庭だった。大して裕福と言うまででもなかったが、とても幸せだった。娘の梨花が生まれてからは、特に。俺は、写真を撮るのが趣味になった。少しでも幸せを保存できるように、いつでも懐かしむ事ができるように。そうだったのに…
「ただいま…」
梨花は16になり、高校生になった。反抗期が続いていたが、それに追い打ちをかけるように彼氏ができた。
俺も妻も接し方に困り、意見が食い違うようになってしまった。それから家族関係が悪化し、すっかり話さなくなってしまった。
今日も「おかえり」もないのか…
テーブルには既に冷めきった夕飯が置かれていた。
ガチャ
部屋から妻が出てきて言った。
「今日は早かったわね。ちゃんと働いたの?給料上げてよね?」
「わかってる…」
いつもこればかり…今日は大きな仕事を任されたというのに…
「あ、帰ってきてたんだ。」
「梨花…」
「昨日勝手に部屋に入ったでしょ。」
「あぁ…すまん…」
「やめてよね、ただでさえ加齢臭がすごいのに最近はハゲてきて、お腹も出ているんだから。キモい。」
「わかった…ごめんな…」
「じゃあ、とっとと失せて。」
二人のために仕事を頑張っているのに…ハゲてきたのも、仕事の疲れからだというのに…こんなに尽くしてやっているのに…なぜこうなってしまったのだろう…何でだよぉ…何デダヨォ…哀シイヨォ…
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この男の過去か…?哀感は、人の哀しみなのか…?
怨のときよりも鮮明な映像に戸惑ってしまった。
「天邪鬼、鼓舞」
宵の声が聞こえたと思った同時に黒い霧が晴れ、哀感の姿がはっきりと見えた。
宵が哀感に触れ、優しく囁いた。
「哀しかったんだね。もう、大丈夫よ。きっと」
哀感は涙をながし流し、その泣いた顔が幼子のようになった。そして、少しずつ形が崩れ、散っていった。
安心した顔をした宵が俺にも近づき、触れた。深い意識から光が差し、俺は上に引っ張り上げられるように身体の主導権を取り戻した。
「ありがとう。」
「お互い様よ。」
とっくに日は上り、俺らは大したケガもせず、拠点に生還した。