異世界相撲道 誰ガタメノ横綱
詠唱の暇もなかった、と現役大関のカルマ・ワルプスギスは語った。
エルフの血を引き、早打ちのカルマと呼ばれ長年相撲界で存在感を放つ彼は、今期のアリーナで無名の新人になすすべなく土俵から叩きだされてしまった。
「私は最初、自分の敗北を受け入れられなかった。この私の速さに比肩する存在がいるとは考えもしなかったな……」
――満星の強さは何によるものなのでしょう?
「意思だ。その巨体で敵を土俵の外に叩きだす、その一点を突き詰めた反射速度だった。数年単位であの戦術を身体に染み込ませているのだろう。いや待て、さてはもっと長く……?」
――彼はどうしてこれまで無名だったと思いますか?
「つい先ほど、異なる世界から相撲界を荒らしに現れたインベーダーとしか思えんね。もはや忘れ去られた古代衣装に身を包んでいた点も興味深い」
――あのほぼ裸の、ふざけた服装がですか?
「髪型もだが、久しぶりに見たなあれは。古式相撲と呼ばれる類のものだ。私が子どものときにはもう全く見なかったはず。あれはたしか……300年前だったか?父ならもっと詳しく知っているはずだ。懐かしいな、私が江戸に渡ったタイミングと同じくして黒船が……」
〈中略〉
――彼は横綱になると思いますか?
「なるだろう、なるべくしてなるに違いない。彼は横綱になるために存在しているような男であり、同時にこの世界に居てはならない異物でもある。時代を間違えたな」
勝負は一瞬だった、とイケメン力士のアルバ・ダンダリオンは語った。
相撲界のルーキーと評され氷の貴公子の異名を持つ彼は、されど今日満星という凶星に敗北を喫し、無念の中優勝を逃した。
「……油断、していたんだろうな。僕は」
――それは全く警戒していなかったということでしょうか?
「いや、警戒はしていた。だが記録映像で見るのと実際に相対して感じるのは違う。なんというか、気迫だ。エンチャントもないのに体からオーラが出ているかと思ったよ」
――こちら、本日の録画です。
「あれ、マジでオーラ出てるじゃん。僕の見間違いじゃなかったのか。あの体格かつあの速度の無詠唱とは、チヒロは一体どこからあんな有望株を引き抜いてきたのやら」
――対策は難しいのでしょうか?
「難しい、というより環境が変わる。彼の戦術にメタを張ろうとすると、ほかの相撲取りを相手取る練度が下がる。それを嫌って満星への黒星は仕方ないと割り切る者もいるだろうね」
――今後、彼は横綱になると思いますか?
「その可能性は、ある。彼の蛮族のごとき戦い方……あれに対応できる相撲取りを僕は1人しか知らないよ。だが氷の貴公子に二度の敗北はない。来期のアリーナでは僕が勝つ」
この世界では、相撲とは1対1の決闘のことを指す。そしてその決闘においてはその肉体と杖1本だけを持ち込むことが許される。
現代における相撲とは、至近距離における魔法の乱打戦により最強の魔法使いを決める儀式である。満星という名の力士はその歴史ある儀式に紛れ込んだ、まさしく異物であった。
◆◇
ここは並行世界ニッポン。されど相撲が国技であることは変わらない。それは1対1で勝敗を競うスポーツである。先に土俵というグラウンドの外に出るか、足以外の部位に土をつけた者が敗北する。実は「はっけよい、のこった」は試合開始の掛け声ではない。などなど、なんとなく知っていることもあれば、何だそれはといいたくなるような豆知識もあるだろう。
俺は和室で座布団に座り、新聞の一面に目を通していた。そこには優勝杯を抱えて満面の笑みを浮かべる俺が映っていた。なんだか少し恥ずかしい。我ながらとんでもないことをしたと思う。夢の中にいるようで現実味がない。
適当につけていたテレビでは、優勝決定戦で戦った青年がインタビューを受けていた。
……俺にはなかったな、インタビュー。こっちは優勝したのに。まあ、されたところでしどろもどろになる確信しかないし、何かの拍子にボロが出ないとも言えないか。
そんなことを考えていると、オレンジ髪をポニーテールでまとめた美人が襖をゆっくりと開けて和室に入ってきた。彼女はチヒロ。この世界に転移して困っていたところを救い出してくれた救世主だ。そんな彼女はあくび交じりに俺に問いかけてきた。
「ふわあ……ミツルくん、もしかして朝刊持ってる? 郵便受けになかったからこっちに来たんだけど」
「っと、すみません。新聞、俺が先に読んじゃってました。普通に考えたらそりゃチヒロさんが先ですよね」
「別にいいって。なんなら一緒に見ようよ!あ、ミツルくんだ。やっぱり載ってるね!」
チヒロさんは今年で20歳らしいが、何と自分の会社を持っている。その名も『相撲部屋・春ノ星』。相撲取りに憧れる青少年を支援するジムのようなものであり、俺は現在ここの従業員兼会員ということになっている。
つまりチヒロさんは、俺のスポンサーでもありジム運営の責任者かつ親方でもあるというわけだ。数か月はお世話になっている。俺より年下なのに本当にすごいと思う。普通知らない男性を養うとかできませんよ。頭が上がらねえし足向けて寝られねえ。
「いや~っ、最初の会員さんがミツルくんだったのは幸運だったね。今期のアリーナに出場させられる会員がいなかったら、功績不足でここ取り潰されてたかもだし」
ホッとした表情でチヒロさんはしみじみとつぶやいた。
アリーナというのは奇数月に開催される力士の大会のようなもので、いわゆる本場所のことだ。この世界では本場所という古臭い言い方はしないのだとかつてチヒロさんは俺に語った。
「ほんと、チヒロさんの人徳の割に会員が少なすぎて悲しくなってきますよ。この和室だって、ホントは何十人で使うような場所じゃないですか」
俺はがらんとした和室を見渡した。この部屋は俺が占領していいような広さじゃない。だというのに、ほかに会員がいないからという理由で俺はこの部屋を割り当てられているのだ。不釣り合いすぎて涙が出てきそうだ。
「でもでも、これからは入会したいって人がきっと増えるよ。ミツルくんが優勝してくれたことだしね。このまま連続優勝目指しちゃって!」
チヒロさんは無邪気に俺の肩を叩いた。その無垢さ加減、いや育ちの良さがいっそ愛おしくすら感じる。親に愛されて友達にも恵まれて育ったのだろう。
「……次はどうかわかりません。みんな俺の戦い方を研究してくるでしょうし」
「辛気臭いなあ、君は。杖と魔法の決闘、そんな相撲の世界に現れた、その身一つで無双するいまだに黒星なしの古き良き力士! それが君でしょ」
チヒロさんがリモコンを手に番組を変えると、そこでも俺にまつわるニュースを放送していた。それもどうやら学術的なあれこれのようだ。
『今、相撲界の新星が話題になっています。本日は〇×大学教授のホンゴウさんにお越しいただいています。ホンゴウさん、満星という新人力士についてなのですが……』
『いやもうね、これが語らずにいられますか! あんたね、現代の渋谷の街並みに甲冑姿の武将が現れたってくらいのビッグニュースですよ!? みんなね、どれだけこれが驚くべきことかって何もわかってないね!先代横綱もあれはあれでよかったが……ゴホン、話が逸れた。とにかくこれはね、歴史に残る出来事なんだ!』
興奮のせいか顔を赤く染めて熱弁する学会の権威らしいジジイがそこにいた。仕事中なのに酒でも飲んでんのか?だがしかし素面であってほしくもない。
心の中でチャンネルを変えてくれないかと念じる俺だったが、努力は実らず。俺にテレパシーの才能はないらしい。チヒロさんはリモコンを握ったまま番組を鑑賞していた。
『相撲の新境地、いや古風相撲の再復興の一助になることは間違いないね。オレが保証するよ、絶対にそうなる』
新天地でちやほやされるというのはフィクションではお決まりだ。にしたって、褒め称えてくれる人間だって選ばせてほしいものだ。チヒロさんの厚意も並々ならないものではあるが、歴史オタクジジイの熱量には負けている。いやチヒロさんを責めてるわけじゃない。責めるわけじゃないけど……。
『もうね、彼のこと家に呼びたいぐらいですよ。どんな風に育ったのとか、どうしてそんな伝統的で格式ある誇り高い古き良き相撲取りを目指したのかってもう1年だって語り合う自信がありますよ』
俺にはないんですよ。数あるフィクション作品の主人公は恵まれた環境にいるなあと俺は実感した。どうして名前も知らないジジイに早口で称賛されなきゃならんのだ。俺は元の世界では当たり前の相撲をしただけだってのに。
ああ、これが「俺何かやっちゃいましたか?」の心境か。ごめんな鈍感系主人公たち、俺もうお前たちのこと笑えねえわ。
「これも今流行りの異世界転生ってやつなのかね……?」
「ん? ミツルくんなんか言った?」
「言ってないです。来期のアリーナも頑張りましょうね」
「うん、私も親方として精一杯支えるから!」
はあ、なんて頼りがいのあるできた大人なんだ。俺ってホントに幸せ者だぜ、得体の知れない人間を受け入れたばかりか力士として在籍させてくれるなんてよ。
『いやね、絶対話が合うと思うんだよ。もう生きる文化財といっても過言じゃないね』
ははっ、涙が出そうだ。俺は頬をつねった。つねった箇所が猛烈に痛い。となるとこれは現実だ。やっぱ現実ってクソだわ。
俺は大きく息を吐いた。いったいいつになったら元の世界に戻れるのやら。
それまではこの世界でも力士として生きようと思うが……。
このままチヒロさんの世話になってたら、迷惑かけるよな。マゲだって自分じゃきれいにできないからこの人に結ってもらってるんだし。みんなが当たり前に使える魔法、俺は使えねえし。試しに杖とか降らせてもらったけどなんも起こらなかったんだよなあ。
俺だって、いつまで快進撃を続けられるとは思わない。こんなの所詮ビギナーズラックってやつなんだろうな。
◆◇
「ふふふ、アルバは慢心故敗れたようだがこの我はぶへえっ!?」
――突き倒し。
「なあ、物は相談なんだがちょっとだけ詠唱の時間をくれなごべしっ」
――押し出し。
「お前の構え、つまりは格闘技だろう?心得のある小生を舐めないことだおうっふ!?」
――寄り切り。
「ふん、研究の成果を見せてやる!……あれ!?」
――上手投げ。
無詠唱魔法すら唱えさせない。感覚を研ぎ澄ませ、杖の先や肋骨のふくらみに注視し、魔法を撃たれるより早く後の先を打つ。
しかし中には、負けを覚悟した取組もあった。
相手はテレビで氷の貴公子だとか言われていた金髪のイケメンだった。
彼は先に土俵に上がる前に、杖の先を俺に向けて思いの丈をぶつけてきた。
「……今日は僕が勝つよ。優勝を逃してでも君を倒す」
その目が真剣さを物語っていた。間違いない、この男は俺の戦い方に研究を重ねている。俺への対策に時間を割いたが故に、「優勝を逃してでも」という言葉まで吐いたのだ。
「あんた、名前はなんだっけか。四股名じゃなくて本名なんだが」
「アルバだよ、今は大関をしている。氷の貴公子って呼んでくれてもいいんだよ?」
彼は土俵に上がると、すぐさまフェンシングのような半身に構えた。その身体は絞られた雑巾のように細く、極限まで研いだ剣を思わせた。ダイバースーツのようなユニフォームがぴっちりと肌を覆っている。
「――さあ、やろう」
俺は驚いた。この世界の力士は、土俵に上がる前に何かしらパフォーマンスをすることが定番だからだ。大手企業がスポンサーについている力士も多く、広告塔としての役割を果たす者は少なくない。多分、力士が取組前に四股踏んだり塩撒いたりしてた頃の名残なのかな。俺はこっちの世界に来てからやってないけど。
俺との勝負以外求めるものはない、とでも言いたげな顔だった。
「――っと」
俺はつい嬉しくなって、大きく四股を踏んでみせた。足は天を衝くように伸ばし、ゆっくりと上げてドスン、と降ろす。この世界に来て初めてのことだった。
アルバの登場に沸いていた観客は示し合わせたかのように静まった。
「ほう……」
これが俺の誠意の示し方だと察したのか、アルバはにやりと笑った。
「両者、構えて――」
行司が取り仕切る中、俺たちは土俵で向き合い――そして、唐突にアルバが消えた。
右、いない。左、いない。透明化――でもない、上だ!
「双頭の咢、呪いの子。その紅爪で敵を引き裂け――!」
空中に飛び、詠唱の時間を確保する。それがやつの戦略だった。落ちてくるまで俺はアルバに手が届かない。
なるほど名案だ。だが何もできないわけでもない。
氷色の刃が杖から放たれる――前に、俺はアルバの杖の先を握りしめた。そして俺は全力を振り絞って杖の先を折り曲げた。魔法が暴発し俺の右手に痛みが走るも、これでアルバは攻め手を失った。
「んなっ!?」
魔法に対処ができないなら、放たれる前になんとかする。結局していることは変わらない。俺は落下するアルバの脇を掴んで土俵の外に投げた。
なんとか受け身を取ったアルバは呆けたような顔をすると、その場にへたり込んだままカラッとした笑みを浮かべた。
「――ははっ。トロールみたいな身体なのに頭いいんだな」
「おいそれ褒めてねえだろ」
「褒めてるよ、褒めてる。……またやろう。次は僕が勝つ」
「いーや、また俺が勝つね。頑張れよチャレンジャー」
「新人のくせに生意気なヤツだ。気に入ったよ」
俺はアルバのもとまで近寄り、腰を下ろして手を差し伸べると、握手を交わして共に立ち上がった。会場からは拍手の嵐が巻き起こった。
不思議と悪い気分はしなかった。
◆◇
夕方、この前テレビに出ていた歴史オタクおじいさんがジムにやってきた。
「満星―っ、満星―っ!白星発進おめでとーうっ!ちょっとそこのカフェでお茶でもどうかなーっ!?」
チヒロさんが何とか追い返してくれた。厄介オタクって本当に怖いね。
◆◇
俺はチヒロさんとふたりで焼肉屋にいた。あれからジムの会員は増えていない。多分、俺という存在があまりに異質だからだろう。色物の後に続きたいと思う常識人はいない。
向こうの世界でも、回し姿とマゲはマトモな恰好じゃない。力士だけに許された変態衣装みたいなものだし。こっちの世界の人がどう思うかなんて、ちょっと考えればわかることだ。ぱっと見ただのデブだもんな俺。
「ミツルくんの連続優勝を祝って、かんぱーい!」
「乾杯です。あ、タン焼けてますよ」
焼肉を楽しんでいるのは打ち上げのためだ。大阪アリーナで俺はまたしても優勝し、見事関脇に昇進した。横綱を含めて上から3つ目の地位に当たる。こっちの世界じゃどうも昇進と降格が随分と起こりやすいようで、前回関脇として対戦した相手が2段階降格して前頭だった、なんてこともあった。
「あれだね。今期もミツル君は、いや満星は向かうところ敵なしだったね!」
「はは、そう見えてたのなら何よりですよ」
透明魔法で姿を隠してきたやつがいた。透明になり切る前に掴んで投げ飛ばした。
発光魔法で目つぶしをしてきたやつもいた。適当に張り手したら吹っ飛んだ。
魔法っていうのは無詠唱だと効果が出にくいらしい。俺にはそのあたりの理屈はよくわからんが、まあそう考えると俺って卑怯だな。
準備ができる前に、相手の土俵に立つこともなく叩き潰しているんだからさ。世間は面白くないだろうな、こんな変態が無双して。
チヒロさんは大阪アリーナ開催前に、ないと不便だろうからと俺にスマホを与えてくれた。俺はそのスマホでこの世界の力士について調べに調べた。すると、この世界じゃ相撲がサッカーか野球みたいな扱いを受けているとこが判明した。
……俺の世界に、魔法を使う野球選手が現れたとしよう。そいつはホームランを馬鹿みたいに打つし、ピッチャーをやらせれば無失点ときた。
見てるほうも選手の方もおもしろくねえだろうなあ。俺はよく焼けた牛タンを口に放り込むと白飯をかきこんだ。
「最速昇進だよ~大関まであと一歩だよ~!」
「はい。頑張ります」
チヒロさんは本当にうれしそうだ。もうビール2杯目だよ。さては酒豪か。
俺は酒あんま好きじゃないんだよな。同期が飲酒運転で捕まったってのもあるけど、酔っぱらった親父に何度いびられたことか。
チヒロさんになら……まあ、いいか。もう身に余るくらいの幸運をもらってるんだから、ちょっとくらいウザ絡みされたってかまわない。
むしろそれくらいされないと、いつか反動でとんでもない不幸が飛んできそうだ。
「チヒロさん」
「え、何~?」
「本当に、ありがとうございました」
俺は深々と頭を下げた。チヒロさんは虚をつかれたような表情になった。
本当に、チヒロさんは20歳でよくやっていると思う。自分で会社を立ち上げて、相撲界隈を少しでも支えようとジムを開いて、たったひとりで運営してきたんだ。営業や呼び込みだって1人でこなしてきたのだろう。
多分俺は、その報いのために呼ばれたんじゃないだろうか。少女の献身を美しいと思った神様が適当に選んで派遣した異世界の男が、俺だったというだけの話。
だから、斎藤満こと俺が選ばれたのではなく。神様にとっては、異世界で相撲をやっている人間なら誰でもよかったのかもしれない。
「ミツルくん……?」
「次のアリーナでも優勝して、俺は大関になります。見ていてください」
俺はチヒロさんに宣言した。相撲界において、大関とは横綱を除いて最も高い位を指す。横綱がその世代の顔なら、大関はその世代の四肢だ。実力がない者に務まる職務ではない。
俺はかつて大関を目指す者として、「次世代の横綱として期待され、その重圧と責任に耐えられる力士でなければならない」と常々周りから言い聞かされてきた。その説教じみた言葉の数々に苛立ちを覚えたこともある。そんなに窮屈なら大関になどならなくてもいいと考えた夜もあった。
――けれど今度は、この世界では、俺は自分の意思で大関を目指す。
この世界の番付の価値は自分が知るものとは違うだろうけれど、それでもこの宣誓は俺の本心からくるものだ。
慢心はしない。油断もしない。俺の相撲で、この世界の力士を叩きのめす。次のアリーナでも優勝してみせる。
「ミツルくんはうちの誇りだよ~! ありがとうはこっちのセリフだよ~!」
チヒロさんは号泣した。まずいこの人泣き上戸だったか。
俺は肉を食うことも忘れてチヒロさんをあやした。ああ、やっぱり俺はこの人のために相撲を取っているんだな。そんな幸せな考えが俺の脳裏をよぎった。
◆◇
次の日、焼き肉屋での出来事が「満星が女性を泣かせている」としてSNSで拡散。チヒロさんの指示もあって俺は炎上にノータッチだった。下手な釈明は火に油を注ぐだけだ。
俺はしばらくチヒロさんにスマホを預けて鍛錬にいそしんだ。
俺はジムの中で足腰の鍛錬に汗を流しながら、異世界でも人間ってそうそう変わらないのだなあと思うのだった。
「満星~っ俺はお前が無罪だって信じてるからな~っ!」
そして歴史オタクジジイ再びあらわる。やめてください警察呼びますよ。
あっ、チヒロさん判断が早い。通報から数分、早くもジジイが警官に連行された。
◆◇
大関昇進をかけたアルバとの戦いの日。なんと彼は杖も持たずに回し姿で現れた。流石に髪型はマゲではなかったが、彼の登場に合わせて湧き上がる歓声も今日ばかりはしんとしていた。
その四肢は太く、胸板は厚く、ボディビルダーのような隆々とした筋肉が露出していた。前のこいつがレイピアだとすれば、今のこいつは巨剣だ。
こいつは俺の土俵で俺を打ち負かす気なんだ。俺というジョーカーを完封するためだけに鍛錬を重ねてきたに違いない。驚愕を通り越して俺は感心した。
優勝ではなく、得意の魔法を捨てても俺に勝ったという栄光が欲しいのだ、コイツは。
「……すごいよ、お前は」
「勝つためならなんだってやるさ。手を抜いてくれるなよ?」
「当然だ、俺の相撲を見せてやる」
「ああ聞かせてくれ、君の魂の叫びを――!」
両者、土俵の上で向かい合って――、ここ。
白色のオーラを纏った両名が、同時にまっすぐ突進する。俺の胸にアルバの頭が当たって、俺は少し後ろへのけぞった。その隙を逃すまいとアルバが這うような姿勢のまま迫り――
「ぬうんっ!」
「あぶっ!?」
――俺は彼の頭を叩き落して、地面とキスさせた。そりゃ低い姿勢から懐に潜り込まれるのは嫌だけど、そこまで低姿勢だと諸刃の剣だ。一発はたけばこんな風に土がついちまう。
それはそれとして俺はアルバに手を伸ばした。背中を叩いてる余裕がなかったから後頭部を掴んではたく形になってしまったが無事だろうか。脳震盪とかやってないだろうか。
「すまん氷の貴公子、顔面やったか?視界揺れてないか?」
「い、いやゲホっ、砂が口に入っただけだ。あとその四股名長いからアルバでいい……満星、君がのけぞったのは演技だったのかな?」
「半分演技で半分本気だよ。お前のぶちかまし結構よかったぜ」
俺の手を取ってアルバが立ち上がった。彼は誇らしさと悔しさが混ざった表情を浮かべていた。本気で勝つ気だったのだから、負けたときのショックも大きいだろう。
それにしても、負けてすぐに分析に入れるメンタルすげえな。俺だったらそういうの明日に丸投げしちゃうわ。
「でも思ったより勢いが殺されてた。もしかして誘導された?」
「そこまで気付くかよ。こりゃ俺の黒星も近いな」
「あと気付いたことなんだけど、適度に脂肪もつけたほうがいい感じ?その方が打撃を受け流しやすいよな?」
「はいストーップ!ミツルくん、じゃなかった満星、敵に塩は送らないの。次の取組があるんだから早く土俵から降りてってば!」
「うっす親方。そういうわけだアルバ、また次のアリーナで会おう」
「ああ、そこのおてんば姫のお世話は君に頼んだよ」
俺はチヒロさんに腕を引っ張られる形で土俵を降りた。今日はもう俺の取組はない。
俺は腹をさすりながら晩御飯の献立に思いを馳せた。
「チヒロさん、今日の晩飯のおかずは何ですか?」
「ちゃんこ鍋だよ、君の世界で力士のソウルフードだっていうあれ!」
「なっ再現できたんですか!?」
俺は驚きの余り大声を上げた。この世界にはちゃんこ鍋が存在しないものだから、少しばかりもの悲しさを感じていたのだが、今それが吹っ飛んだ。
ああ、懐かしのあの味が楽しめるのか。別に大好きな味ではないけれど、しばらく食べないでいるとどうも物足りなく感じてしまうのだ。ああ、力士やってるなあ俺。
◆◇
俺は黒星なしでアリーナを勝ち進み優勝した。大関昇進も決まり、これを拝命した。そして驚きの事実を知った。大関に昇進した力士は、一度だけ四股名を買える権利を与えられるのだという。
なるほど、氷の貴公子なんていうアルバのキザなあだ名は大関になってからだったのかな。動画サイトに上がっている昔の取組を見て、彼が魔法で氷を操る練度に俺は怖気すら感じた。だからこそ彼に氷魔法を一時的にしても捨てさせてしまったことに、なんだか罪悪感がこみあげてきたのであった。
打ち上げは寿司だった。しかも回らないやつ。というか、この世界に回転寿司はなかった。そんなお寿司屋さんがあるんだ、とチヒロさんは驚いていた。
そして俺の好きなネタはサーモンだ。同僚にゃ子供舌だって笑われたっけな。
「満星。優勝そして大関昇進おめでとう。ここのヒラメはうまいぞ……?」
そして店に入れば歴史オタクジジイがワイングラス片手に先に入店していた。そして当然のように警察に連れて行かれた。なんなんだよアンタ。
◆◇
「そういえばチヒロさん、今の相撲界には横綱っていないんですか?番付表にはいないし、調べてもなんか引退した横綱しか見つからないんですよ」
「えっ!?」
俺の質問を聞いた瞬間、チヒロさんの身体が跳ねた。まるでタブーを聞いてしまったようで、俺の首元には冷や汗が流れ始めた。
チヒロさんはきょろきょろとあたりを見回した。そんなことしなくても、ジムには相変わらず俺とチヒロさんしかいない。
「そのね、いない……ことになってるんだ、横綱は。公式記録が消されちゃったから」
「なんですかそれ。記録がないとかおかしいですよ」
「ええと、初めから話すね。君の世界だとどうか知らないけど、こっちだと横綱は1人しかなれないんだ。横綱はアリーナに出ない。大関が連続優勝して初めて挑戦権が得られる仕組みになってるの。で、大関が決定戦で勝てば横綱交代なんだ」
「代替わり制か。いや待ってください、それなら今横綱がいないってのは……?」
「その横綱は――強すぎたんだ。このままだと誰も勝てない。ずっと1人が横綱の席に居座り続ける。それを憂いた横綱は、次に挑戦する大関に席を譲ることにしたの。自分という横綱を、いなかったことにして」
それはおかしい。だって今も横綱はいないのだろう。その胸中の疑問を見透かしたような態度のチヒロさんが、続けて口を開いた。その声は、言葉にできないほどの悲しさにあふれていた。
「良くも悪くも、今は才能ある若者が群雄割拠する時代でさ。アルバとかは結構期待されてたんだけど……」
「あ。俺が優勝をかっさらったから……?」
「ち、違うよ。君は悪くない!何ならみんな、君が横綱になる日を……いや、君ならあの横綱だって倒せるって私は信じてる!」
チヒロさんの激励は胸をすり抜けた。
横綱。決して手の届かない場所にあるはずの地位。相撲界の頂点。
――手を伸ばしては、いけない地位。それがもうすぐそこにあると知って、俺の心臓の鼓動は極限まで速まった。
「だから頑張ってミツルくん!私は絶対、あなたを横綱に勝たせてみせるから!」
次のアリーナで、俺はアルバに大敗した。
◆◇
アルバに土俵から突き落とされた俺は、その後彼に殴り掛かられた。
「おい満星、何を考えてる!?今わざと負けただろう!?」
「……すまん」
「おい行司、もう一度だ!こんな勝ち方認められない、認めてなるものかっ!」
ざわざわと観客が騒ぎ出した。頬がじんじんと痛む。
「まさか君、横綱になりたくないとか言い出すんじゃないだろうな!?」
「……そうだよ。お前が横綱になったほうがいいじゃないか」
「ふざけるなっ!」
アルバは馬乗りになると、俺の頬をひっぱたいた。当然の所業で、当然の仕打ちだった。だから俺には反抗する気概さえもなかった。ただ涙が無感動に流れた。
「俺は余所者だ。この世界のそれとは違う相撲をしている」
「取組のスタイルが問題になるものか!先代横綱も、君のように古式相撲でその座までのし上がったんだぞ!?」
へえ、それは知らなかったな。知ったところで何になるわけでもないし、むしろ俺が横綱になってはいけない理由が増えたのだが。もしかして、俺の相撲の取り方が話題になってたのって、そういう背景もあったからなのかな。
「俺の父はモンゴル人で、母は日本人だ。生まれも育ちも日本だってのに、あいつらみんな俺のことモンゴル人に見てるんだ!ずっと、ずっと俺は余所者だった!」
「っ?何の話だ、それは……?」
「俺は自分のこと日本人だって思ってたよ、でもみんなが違うって言うんだ、お前は仲間外れだって言うんだよ!俺だけ、俺だけ……この世界でもっ」
俺は醜聞も知らずに吼えた。この世界に来て感じていた疎外感は、決して癒えることがなかった。たった1人で異世界にたたずむ異物。清流に叩き落されたヘドロの塊。そんな風に自覚していた。
横綱が俺1人だけにならないのならばまだ我慢できた。数いる横綱の、その中でもひときわ異質なヤツだと認知されるなら受け止められた。
でも、たった1人の横綱が俺こと異世界人だなんて、そんなひどいことあっていいわけないだろう。バレたときのバッシングが怖い。この悩みを分かち合える人間がいないことがたまらなく寂しい。
モンゴル人力士が日本の相撲界に馴染んで何年が経過しただろうか。それでも、世間の素朴な目というものは時に無慈悲に精神を貫く。いわんやこの世界では、ということだ。
「君の背景は理解した。……だがな、チヒロを見ろよ。君を信じて送り出したあいつの顔を見てみろよ!」
「――あ」
無理やり頭を掴まれて、チヒロさんのいる方向に顔面を向けさせられた。
チヒロさんの顔からは滂沱の涙があふれていた。ああ、そうか。そりゃ聞こえるよな。
俺が横綱になりたくないって言ってたの、聞かれちゃってたか。そうだよな。
「君が負けるのは君の勝手か?違うだろう、あの子の夢まで君は壊した!君は一番泣かせちゃいけない相手を泣かせたんだ!」
チヒロさんが席を立って駆け出した。俺はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
何も声をかけてやることができなかった。
アルバは俺に馬乗りになったまま、
「いいか、知らないみたいだから教えてやる。先代横綱、その名を春ノ星!弱冠16歳にして最強の横綱の名をほしいままにし、その強さゆえの孤独に苦しみ、次に横綱に挑戦するやつにその座を明け渡すなんて馬鹿なことを選んだ!公式記録もすべて抹消した!」
それは知っている。チヒロさんに教えてもらったから。
「でも本当は正々堂々と戦って負けて、横綱を譲りたかった!だから彼女は自分でジムなんか開いたんだ。自分に比肩する人材が来てくれないかって、最強を目指してくれるビッグなやつはいないかって心のどこかで期待してたから!!
そこに、君が、来たんだろうがっ!!!」
待ってくれ、待って。そこから先は知らない。いや違う、知っている。
ガラガラのジムを、俺1人しかいない和室を、がらんとした相撲部屋を覚えている。
「チヒロがどれだけ君に期待してたかわかってて言ってんのかコンチクショウ!君がどこから来たって関係ない、何者だろうとどうだっていいんだ!」
いつの間にかアルバは泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして嘆いていた。
「君にしかできないんだ。君の相撲が、チヒロの相撲を唯一終わらせられるんだ。やっぱり僕ではだめだ。古式相撲の作法から戦い方が、魂にまで染みついた君だから……!」
ああ、アルバも奮闘していたんだな。チヒロさんが横綱を譲る決断をするまでに、コイツは何度も彼女に挑戦して敗れてきたに違いない。そして俺の登場に合わせて古式相撲を研究したが、かけた年月の違いという残酷な事実が彼を打ちのめしたのだろう。
俺は立ち上がって、目尻に浮かんでいた涙を手で拭った。
「俺はチヒロさんを追うよ。ありがとうアルバ、おかげで大切なことを思い出せた」
「ああ、行ってくれ。あの孤独なお姫様を高塔から連れ出せるのは君だけだ。ただ今期の優勝は諦めてくれ、君のために黒星を確保する義理はない」
ありがとう。俺はそう言い残して、回し姿のままチヒロさんを追いかけた。
◆◇
会場の外は大雨が降っていた。遠くに雷も聞こえる。俺は傘もささずに会場周辺を走ってチヒロさんを探した。
時折すれ違う人にオレンジ髪の女性を見ませんでしたかと尋ね、首を振られ続けること十数分。駐車場にそれらしい影を見たと、歴史オタクジジイが息を切らして報告に来てくれた。彼もまた、傘をさすことなく雨に打たれていた。
「礼はいらんよ、行きな満星。アンタにしかできないケリの付け方っってのが……あるだろう?漢を見せてきな」
俺は深々と頭を下げた。それはそれとしてジジイには高熱があったので、近くにいた人に頼んで救急車を呼んでもらった。さっさと治れよジジイ。俺が横綱になるところ、見たいだろう?
俺は駐車場に向かって無我夢中で走った。そして、大雨の中独りでたたずむチヒロさんを見つけたのであった。
「チヒロさん」
「ごめん、ちょっとそっち見れない」
「見なくて大丈夫です。俺が勝手に話します……まず、すみませんでした。チヒロさんの思いも知らないで、俺は自分の都合で負けを選んでしまいました。力士失格です」
数秒間の沈黙。風が木々を揺らし、雨が路面に弾かれる音だけがその場に満ちていた。
「……最初に会った時のこと、覚えてる?」
「はい。気づいたら俺は回し姿でコインパーキングにいました。すぐに見物人が集まってきて、今にも通報されそうだったことは忘れられません」
「そこを、私が助けたんだよね。えっと、何て言って割り込んだんだっけ?」
記憶の海をサルベージする暇もなく、俺の脳細胞がかつての光景をリフレインした。
「『この人、私の彼氏です!』ですよ。俺も含めてみんなポカーンってしてました」
「そうそう、普通ほぼ全裸の人を彼氏になんて選ばないよね」
「おまけにデブです。いやあ、冷静になると警察呼ばれて当然の見た目ですよね」
「……でも、私の目には違って見えたんだよ。文献で見たような佇まいに回しにマゲ!古式相撲は大好きだったけど、私はどうしてもあの姿には抵抗があって……」
「実は俺もいまだに苦手なんですよ。抵抗があって当然ですって」
「そうかな、そうかもね。試しに君に相撲をしてみてって頼んで、私は確信したよ。ミツルくんは何から何まで理想の横綱で――多分、一目惚れだった」
チヒロさんの声が、俺には涙ぐんだもののように聞こえた。真相はわからない。豪雨が人間ぽっちの涙など洗い流してしまうから。
「私は、無詠唱の身体強化魔法が大の得意で、杖がなくたって唱えられるの。それ以外はてんで駄目だったけど、それだけは誰にも負けなかったんだ」
チヒロさんが語るのは、彼女を駆り立てた熱の源だった。力士になる前の、まだ何者でもなかった頃の思い出だった。
「そこで思い出したのが古式相撲だったの。あたしの家には江戸時代の風景を閉じ込めた映像結晶がいくつもあって、そこではミツルくんみたいな相撲取りが激しくぶつかり合ってるんだ。幼いころは何回も何回も見返してた――私は、あの相撲がすっごくかっこいいって、そう思ったんだよ」
「最初から古式相撲が好きだったんですね。だから、そのスタイルで横綱にまで……」
それは孤独な道程だったことだろう。今を生きる人間のどれほどが、自分の「好き」をいつまでも貫き通すことができるというのだろう。それができた時点で、世間からは勝ち組とも目される。妬みも嫉みも向けられただろう。
ある意味で彼女は不幸だった。自分の「好き」を貫き通した結果、彼女はより高みに上り、より孤独になってしまったのだから。
かつて相撲界の頂点に君臨した少女は、今なすがままに雨に打たれている。それが孤独な王様の末路だった。たったひとりで幼いころの憧憬を追い続けた夢追い人の骸だった。
どこか投げやりな口調で、チヒロさんは言葉を吐いた。
「横綱って、相撲の神様なんだってね。私びっくりしたよ、あの日、君がコインパーキングに現れた日、神様が急に目の前にいたんだもん。……でも、やっぱり自分に都合のいい神様なんていないよね。酷いよね、この人なら私に勝ってくれるかもって打算で近づいたんだから。だからこれは、私が勝手に期待して裏切られただけで、」
「――俺は横綱になる!あなたのための横綱になる!」
俺は叫んだ。肺がはちきれんばかりの空気を吸い込んで、喉が壊れることも厭わずに声を発した。
俺が孤独だと感じていた以上に、チヒロさんだって孤独だった。なんなら俺を信じていた分、裏切られたようなショックに襲われたことだろう。だから今度は俺が寄り添う番だ。異世界から来たばかりで何もわからない俺に、あなたが優しく手を差し伸べたように。今度は俺が、あなたの孤独を癒してみせる。
最初は打算だったかもしれない。俺という人間が横綱になる可能性だけに価値を感じていたかもしれない。でもチヒロさんの優しさは、一緒に過ごした日々は、決して嘘なんかじゃないんだ。
「あなたを独りになんかさせない!正々堂々戦って、その座を奪う漢になってみせる!絶対に、絶対に……!」
「……………………いいの?」
震えた声でチヒロさんが問いかけた。ここで間違うなよ斎藤満。
ここに誓え。誇りを胸に吼えろ。ただの1人の力士として宣言しろ。モンゴル人とのハーフだとか、異世界人だとかそういうのは関係ない。
俺は、チヒロさんのための横綱になる。
「当たり前です!俺は――あなたを倒して、横綱になります!」
「――う、あ――!」
チヒロさんが俺の方へと振り返って駆け出すと、俺の胸の中に飛び込んだ。
俺はチヒロさんが雨に打たれないよう、その巨体で屋根代わりになり抱きしめた。
ウドの大木が、ようやく役に立ったと確信できた瞬間だった。
その日の夜、俺とチヒロさんはそろって風邪を引いた。
考えてみれば当然のことだ。両名共に長く雨に打たれ続けていたわけだし、体調を崩さない方がおかしい。
重い身体を何とか動かして互いに看病をし合い、今期は休場しなければいけないな、と笑いながら仕方なく結論づけて――
季節は過ぎ、何度かアリーナを重ねて、あっという間に俺は横綱決定戦への出場権を手に入れた。
チヒロさんとの誓いを果たす日はもうそこにまで迫っていた。
◆◇
チヒロさんこと春ノ星が宣言を撤回し、規定通り横綱決定戦に出場することが各所に伝えられた。この報を受けて、相撲界は大いに沸き上がった。
俺は歴代2位の速さで横綱決定戦への出場権を得た。1位はもちろんチヒロさんだった。当時の記録が見られないことが甚だ残念だ。
横綱決定戦は先に2勝した者の勝ちらしい。1敗すれば後がない。とはいえ、この世界でも相撲は1戦でかたがつく。むやみに緊張する必要はない。
「西に~、満星~!」
行司が俺の入場を促した。俺は土俵に向けてゆっくりと歩みを進めた。
いつだって勝つことだけ考えていればいい。俺は大きく息を吸い込んでから吐き出し、土俵の上に立った。観客席からは歓声が沸きあがった。
勝ってくれ。横綱を土俵に上げてくれてありがとう。頑張れ。そんな声が耳に入った。
少しだけ罪悪感がある。今日はファンのためではなく、俺に手を差し伸べてくれたただ1人のために相撲をとるのだから。
「東に~、春ノ星~!」
チヒロさんが土俵に向けてゆっくりと歩き出した。その腰回りには回しが、そして胸にはさらしがまかれていた。初めて見る、力士としてのチヒロさんの姿だった。
まるで王者のような目つきに、ボクサーを思わせるほど良い肉つきをした肢体。朗らかな性格をしたいつもの彼女とは別人のようで、とても凛々しかった。
ひときわ大きな歓声が上がる。もう二度と見られない筈だった王者の戦いが見られるのだから、喜びもするだろう。
かたや150キロを超える肉体。かたや60キロにも満たない肉体。それらが真正面からぶつかるのだ。挑戦者が絶対王者に下克上を果たすのか。それとも少女が巨漢を打ち倒すのか。
さあ、世紀の一戦を始めよう。俺が横綱になるための戦いの幕を開けよう。
「チヒロさん、約束通り来ましたよ。ずっと待たせてすみませんでした」
「ちょっとミツルくん?土俵の上じゃ四股名で呼ばないと……って私もか、あはは」
「ところでこれ終わったら何食べます?焼肉も寿司も前に行きましたし……」
「んー、たまにはラーメン食べにいこっか。最近は効率的に太るための食事ばっかりだったでしょ?」
俺は丸く突き出た自分の腹と、腹筋が浮き出たチヒロさんの下腹部を見比べた。チヒロさんのそれを板とするなら、俺の腹はまるでゴムボールみたいだ。
「最近は同じ量食べてるはずなのに、チヒロさんは体型変わんないですね。その体質ホントに羨ましいですよ」
「うーん、私としては食べた分だけ太れるのも才能だと思うけどなあ」
俺たちはまるでジムでの日常会話のような、街中でふとすれ違ったような、デートの待ち合わせ場所に来たような、そんな態度で言葉を交わした。
行司も、いつ仕切り始めればいいのか少し困惑している。こんな和やかな雰囲気で始まる横綱決定戦は、きっと初めてなのだろう。
だが少し待ってほしい。用意してきたものがあるのだ。俺たちは試合を始めたがっている行司を手で制して、手製の升を手に持った。その中には当然塩が入っている。
これがやりたかったんだ、とチヒロさんは笑って塩を土俵にまいた。
この世界のかつての相撲を知る者ならば、その行為の理由がわかるだろう。けれどもそういった雑学を知っている者はごく少数のようで、観客たちは俺たちが何をしているのか理解できていない様子だった。
どうか許してほしい。俺にとっての懐かしさなど関係ない。チヒロさんが笑って相撲を取れるように。彼女が幼いころに見たというかつての相撲に、少しでも近づけるように。
◆◇
実況席には有識者や横綱・大関経験者が窮屈そうに座っていた。普通は2名体制なのだが、今回ばかりは取組の特別さから3人体制で臨んでいた。決戦を前にチヒロとミツルが塩を土俵にまき始めたとき、その意味を理解した実況席の数名は大きく声を上げた。
時代の生き証人、400歳超えのカルマ・ワルプスギスは目に見えて興奮していた。横綱経験者としての招致だった。
「あれは、かつて私が見た相撲儀式と同一のものだ!たしか映像結晶におさめて……いや、あれは売ってしまったんだったか。とにかくあれは歴史的にも由緒正しい、古式相撲の試合前の手順なのです――」
そして、歴史オタクジジイことホンゴウもまた実況席に呼ばれていた。興奮具合で言えば彼もカルマに負けていなかった。
「おお、四股踏みもしてるね。あれは足腰を鍛えるトレーニングで、同時に古式相撲を始める前の作法でもあって――」
アルバもまた実況席に呼ばれていた。彼は横綱経験者ではない。けれど、チヒロこと春ノ星と一番多く横綱決定戦で戦ったのもまた彼だった。
「ちょっとおふたりさん、混乱するからひとりずつしゃべってくれないかな。あれが大事な儀式っていうのはわかったからさ、もっとふたりの勝敗とかについて語らない?」
彼はカルマやホンゴウと違って一歩引いた姿勢で状況を見つめていた。しかしながら、実況席から一番熱のこもった視線を向けているのもまたアルバだった。
彼は、自分がチヒロと戦った際の経験の全てをミツルに託した。十数回に及ぶ敗北の記憶を、彼の力になりますようにと託したのだ。
そして、そうしてミツルに願いを託したのはアルバだけではなかった。かつてチヒロと戦ったことのある力士がミツルの元を訪れ、彼の勝利のために知見や助言を送ったのだ。
この一戦で、チヒロが公式戦に復帰するか否かが決まる。チヒロが敗北した場合、以後彼女は相撲協会に復帰し、一競技者として鎬を削ることを宣言した。
「もう君だけの夢じゃないんだ。気張れよミツル……!」
その手は自然と祈るように。不思議なことに、アルバはミツルに勝ってほしいと願いながらも、チヒロがミツルを倒す姿も幻視していた。
どちらもありうる。勝負の神様は非情なまでに公平だ。
「――第1戦、構えて!」
塩撒きと四股踏みというパフォーマンスを終えた彼らに、行司が試合開始を促した。
その瞬間、ふたりの目つきが鋭くなる。先程までの和やかさはどこへやら、敵意と戦意の入り混じったオーラが試合開始前にも関わらず放たれていた。
その3戦は、のちに伝説の取組として語り継がれることになる。
股を開いて中腰姿勢。今にも飛び出して食らいつきそうな威圧感を互いに放ちながら――
「――っ」
先に動いたのはミツルだった。大砲の玉のような突進力。そのまま食らえば敗北は必至。
「シャァッ!」
それをチヒロは流れるように横に避けて躱し、すれ違いざまにミツルの回しに指を引っかけ、場外に投げ出そうとした。
が、ミツルの突進は嘘のように止まった。チヒロの回避すら読んでいた彼は、体勢を崩しながらもチヒロの回しに指をかけていたのだ。
「ぉらあっ!」
読み合いに負けチヒロが動揺した一瞬に全力を込め、ミツルはチヒロを土俵の外にまで放り投げた。その山なりの軌道は、彼女を観客席にまで吹き飛ばした。
「に、西の~勝ち~!」
行司が勝利を告げたタイミングで、チヒロは何もない空中を踏みしめて弾丸のような速さでミツルに突進した。場外からの復帰という無法技に、思わずミツルは膝をついてしまった。
「ひ、東の勝ち……?」
審議が入る。相撲において飛行魔法は一律で禁止されているが、未知の力で空中を足場として踏みしめるのはセーフなのか。
結果、かつてアルバが空中に氷の足場を作り場外を回避した取組から、チヒロの行為は違反ではないと結論付けられる。
「第2戦、構えて!」
後がないミツルだが、動揺は見られず毅然としていた。
今度はふたりが同時にぶちかましを仕掛けた――かに見えた。
「受け止めたっ!」
アルバが驚きの声を上げた。ミツルは勝負に出たのだ。正面から激突すると見せ、相手の勢いを殺して自分の勢いに持っていく。かつてアルバがミツルに食らった技だった。
回しへの刺し手もさばき切り、一方的にまわしを掴んだミツルは、瞬く間にチヒロを上手投げで制した。チヒロは為すすべなく土俵の上を転がった。
今度ばかりは反撃の余地のない勝利だった。観客席からは歓声が上がった。
互いに1勝1敗。次で勝者が決まる。
満星という新たな横綱か、それとも春ノ星の続投か。
身体についた土をはらうと、チヒロは雑念を払うように四股を踏んだ。
それに返すように、ミツルも大きく股を開いて四股を踏んだ。
傍から見れば体力を無駄に削る行為だろう。けれどそれはふたりにとって、何度も繰り返してきたルーティーンのようなものだった。
この瞬間、ミツルとチヒロの心が通じ合った。
――楽しい。
勝利が愛おしい。敗北すら愛おしい。それは原初の切望。悔しささえ前進する原動力になっていた、幼いころの純粋な姿勢。
「それでは、第3戦……構えて!」
彼らは不敵に笑い、大きく深呼吸して一歩前に踏み出し、そして中腰に構えた。
「ふっ!」
「しっ!」
何の奇策もなく。次善の策の用意もなく。真正面から彼らはぶつかった。
土俵のど真ん中で彼らは互いに回しを掴み、全力を込めた揺さぶり合いが始まった。
少し力をこめただけで、足を少し動かしただけで、幾多もの展開が頭の中に浮かんでは消える。ふたりはその中から最適解を探し続けた。
より勝率が高くなる試合運びはどれか、息を切らして取捨を続ける。
先にほころびが出たのはミツルの方だった。
安全策を取ってのことか、彼がわずかに左足を引いたタイミング。チヒロはそれを勝機と感じた。押し切れると彼女の直感が告げた。
その直感は正しかった。チヒロは足腰に力をこめて下から押し上げるようにして、一気に土俵際までミツルを追い詰める。ミツルは土俵際で何とか留まったものの、もう後がない。
観客たちは固唾を呑んでその攻防を見守っていた。
そのまま、何秒がたっただろうか。
押し切れない。あと一歩が足りない。
それも当然のことだ。土俵際で粘られるという体験を、絶対王者が味わったはずもない。
そこまで対抗できる力士がこれまでいなかったのだから、土俵際はチヒロにとって研究外の領域だった。けれど異世界から来た彼からすれば、それは何度も経験したピンチに他ならない、そして土俵際には、得てして奇跡の勝利が潜んでいるものだ。
ミツルにとっては土壇場こそが見せ場だった。大関らしからぬ守勢の相撲が原因で敗北を重ね、大関降格の危機に陥ったこともあった。心無い声にさらされることもあった。
きっと、この瞬間のための積み重ねだった。
「ぬあああああああ!」
「しまっ……!?」
ミツルは、掴んだ回しごとチヒロを持ち上げた。
それはまるで、泣きじゃくる赤子に高い高いをするように。
目が合った。
――ありがとう。言葉はなくとも、彼女の瞳がそう語っていた。
そして彼は身体をひねり、チヒロの背中をポンと優しく土俵の外に置いた。
土俵際でそんな無理をしたのだから、続けてミツルも土俵の外に倒れこんだ。
決まり手は打っちゃり。しかし打っちゃりと呼ぶには、あまりに優しい一撃だった。
「西~満星の勝ち~!」
ここに、新たな横綱が誕生した。彼は異世界から来た力士だった。
土俵際まで追い込まれて、土にまみれて、それでも最後に勝利を手にしたのは彼だった。
「……泣いてるの、ミツルくん?」
「チヒロさんだって、泣いてるじゃないですかっ」
「ちょっと、これは目にゴミが入っただけで……やだ。止まんないや、これ」
数年ぶりに横綱が生まれた会場を、彼らの涙が濡らした。
満面の笑みを浮かべながら互いに涙をぬぐい合って、ふたりはそのまま――
◆◇
打ち上げは、無理を頼んでちゃんこ鍋にしてもらった。2人で作ったちゃんこ鍋は、これまでの打ち上げで食べた何よりもおいしかったと、俺はそう確信した。
「次は私が迎えに行くよ、ミツルくん――だから待っててね」
「ええ、早く来てくださいね」
チヒロさんと俺が見つめ合った瞬間、ジムの入口が勢い良く開かれた。
「待った、今度は僕が横綱になる番だ!というわけでチヒロ対策を手伝ってくれミツル!」
「満星~、オレも打ち上げに混ぜてくれ~っ!」
ああ、せわしないなあ。でもかけがえのないせわしなさだ。
俺は箸をいったん置いて、笑顔と共に器に入ったスープを飲み干したのであった。