70:毒の林檎
「……はぁ」
ヴァイスは珍しく溜息を吐いた。
彼の視線の先には、カレーの出店に突撃していくレイテの背中が。
それを見つめながら立ち尽くすヴァイスに、「告白しそびれたな」と茶化すような声がかかる。
「む、アシュレイか。いたのか」
「当然だ」
物陰より姿を現したのは、眼鏡の執事アシュレイだった。
「レイテお嬢様には『たまには一人で外出したい』と言われたがな。されど、大事な御身だ。ならばコソっと付いていくのが忠義よ」
「悪い執事だ」
「それが私だ」
当初はヴァイスに反目していたアシュレイ。だがその実力と誠実さを知った今、話す声色は穏やかだった。
「もちろん、お嬢様が転びそうになった時には支えるために飛び出さんと思ったが……この最強王子めっ。まさか音を置き去りにしかけるような速度で助けに現れるとは思わなかったぞ」
「それは悪かったな。お前の仕事を奪ってしまった。俺も、まさかあそこまでの力が出るとは」
「それほどお嬢様を想っているということか?」
「――」
執事の言葉に、彼はわずかに目を見開き、そして、「ああ」と頷いた。
「彼女のことを、支えたいと思うよ。鈍感な俺でも……流石に日々高まるこの気持ちの主幹が、尊敬や庇護欲ではないと、分かる」
レイテに尽くさんとする仲間は大勢いる。それはとても素晴らしいことだと、誠実なヴァイスは心より思う。
――だが、〝一番は俺でなくてはならない〟。
他の連中が横に並ぶなふざけるな。レイテの一番で在り続けるためなら、俺はさらに強く強く強く強くなってやろうと――ヴァイスは自身の胸の内に、今までの人生では感じえなかった『黒い炎』が渦巻くのを自覚していた。
そう、
「これが、愛か」
ヴァイス・ストレインは胸を押さえた。魂の発する、血潮よりも熱い鼓動。それにようやく名を付ける覚悟が出来た。
「フッ……もう貴様を『氷の王子』とは誰も呼べないな」
灰かぶりの執事は苦笑する。
元々は心身共に穢れ切っていたアシュレイ。だがそこでレイテと出会い、まるで魔法にかけられたように、麗しき執事の姿と穏やかな日々を手にすることが出来た。
だが、ヴァイスは違う。
「なぁヴァイスよ。私のことを、友だと思ってくれているか?」
「もちろんだ。お前は尊敬できる男だ」
「そうか。なら」
アシュレイは笑って言葉を続けた。
「私が、レイテの一番にならんとしたら、どうする?」
「ぶち殺すぞ」
瞬間、凄絶な殺意が解き放たれた。
王子より溢れる蒼白の燐光。白雪の光。が、ソレはもはや人肌に触れて溶けるような、そんな優しさを感じるモノではなくなっていた。
「ッ――これは……!?」
アシュレイは呻いた。燐光の舞い降りた肌が、熱い。
「あ、ありえん」
アリスフィア放射光は、ヒトを助けるために女神が与えた、異能の根源エネルギー。体力消費と精神の昂ぶりに応じて引き出される、ヒトの希望の輝きだ。
ゆえに人体に無害であるはずなのに。陽光にも似た、優しき光であるはずなのに。それなのに、
「まさか……人を害せる濃縮率にまで、放射光を収束させて……? そんな、どれだけ殺人的な量を引き出せば、こんな……!」
「なぁ」
戦慄する執事の言葉を、ヴァイスは優しく遮った。
そして一歩、彼に近づく。――ただそれだけで地面が罅割れた。身体強化倍率、十三倍突破。
「俺の親友、アシュレイよ」
また一歩踏み寄る。――巨人の歩みが如く轟音が響いた。身体強化倍率、十四倍突破。
「あまり、つまらぬ冗談を、言うなよ」
アシュレイの胸ぐらがそっと掴まれ、引き寄せられた。――一切抵抗できなかった。百獣の王に噛み付かれたような、兎が如き絶対的恐怖を感じた。身体強化倍率、十五倍突破。
「次にふざけたことを言ったら…………本気で怒るぞ?」
「ッッッ!?」
ドっと冷や汗が全身から溢れる。
……気付けばアシュレイは解放されていたが、全細胞には泡立つような恐れが残り続けていた。
「さぁアシュレイよ。俺たちもカレーを食べに行くとしよう」
砂の国の本場カレーは本当に美味いぞぉと、朗らかにレイテを追うヴァイス。そんな彼の背中を見つめながら、アシュレイは震えと共に微笑んだ。
「は、ははは……。今のアレと敵対する相手が可哀そうだ」
強くて優しいだけだった白雪の王子が、今や漆黒の情動と我欲を宿すようになった。これは人間性の欠落などではない。むしろ逆。『男』としての、完成であった。
「ああ、ヴァイスよ。真に強くなった私の友よ」
――優しい魔女に魔法を掛けられた私と違い、お前は。
「毒の林檎を、喰わされてしまったようだな」




