婚礼隊商
~ 星の降る井戸 ~
その年の断食月は初冬に到来した。
砂漠に僅かな雨をもたらす季節である。
この時期になると砂漠の旅も真昼の熱い時間を避ければ夜よりも楽に動くことが出来る。
昼間の旅行は見晴らしが利く分、夜の旅行よりも安全だった。
もともと砂漠の民は、盗賊まがいの掠奪や隊商の荷をかっぱらうことを厭わなかったので、砂漠を旅する隊商はいつも危険と隣り合わせだった。その上、この季節には風の方向が変わり、砂漠の道もワジのくぼみを目安にすればいいので比較的楽に旅行を進めることが出来た。
断食月は、昼の間、飲み食いが禁止され、神に祈りを捧げる月であった。
普通ならこの月には巡礼を除く旅は行われないのだが、この月、小さなクエトの国からルブアリの砂漠を支配するマフムド王のメルアの都に向かう隊商があった。荷を運ぶ駱駝の総数は三百ないし五百といわれ、その駱駝の殆どの鞍にはきらびやかな衣装や西国の硝子細工、金銀の財宝が括り付けられていた。駱駝の足が砂にめり込むのがわかるくらいであるからどれほどのものか想像もつかない。クエトの美姫シャ-ラ姫の婚礼隊商は、このような大隊商を率いていたのだった。
クエトは、砂漠の国のなかでも海湾に面している国であった。
小国でありながら港を有し、その港は東と西の国々を結ぶ貴重な交易地であった。
国土は狭く、オアシスも少ないため農耕は盛んでなかったが、港の収益はその分を補って余るほどクエトに繁栄をもたらせていた。クエトの王は、交易の利益で隣国の井戸から水を買い、それをまた寄港の船に売り、自国の民にはただ同然で分け与えた。
クエトの王と隣国の王の仲は比較的友好であったが、砂漠の中央を征服したアル・アーリィ家のマフムド王が湾岸に進出し、クエトの隣国を落とし、その支配者となったとき様相が一変した。
マフムド王はクエトの港に目をつけ、かの地を支配しようとしたが、クエトを武力で手に入れることはできなかった。なぜなら、「砂漠の炎王」と異名をとるマフムド王の行状は広く知れ渡っており、内陸だけでなく湾岸部までとなると、未支配の国々を結束させ、その上、外国の武力が進出してくる恐れもあったからである。
そこでマフムド王は一計を立てた。彼は井戸の使用権を握り、クエトへの水売りを止めさせたのである。クエトの王は愕然とした。水がなければ港の価値もなくなり、民の生活すら成り立たない。
クエトの王は、マフムド王にあらゆる金銀財宝を貢物として贈ったが、マフムド王は一向に水を売る気配を見せなかった。再三の懇願でやっと水売りを承諾させたのだが、その提示した金額と条件を携えて戻ったクエトの大臣は王に口頭でも伝えることが出来なかった。その額は、クエトの一年分の利益をはるかに上回るものだったのであり、もし金額を支払えない時の条件として、マフムド王はクエトのシャーラ姫を差し出すようにといって来たのであった。
王は頭を抱えた。クエトの王の一人娘シャーラ姫は17になったばかりだった。
姫の美しさは、その姿がベールで隠され、かつ、王宮の奥にいるにもかかわらず、四方の国々に知れ渡っていた。姫を妻にと望む若者達が財宝を手土産に求婚者の列を作ったが、クエトの王は全ての求婚を断った。姫には知らされていなかったが、彼女には内々に許婚者の青年がいたのである。
シャーラ姫の許婚者の若者は、クエト王の第一大臣の息子で、見目良く、若くしてマジュリス(御前会議)の席に連なり、敬虔な回教徒として民の信望も厚かった。誰しもが姫の夫として、次期クエトの王として認めていたのであった。
マフムド王の条件は、その若者も並ぶマジュリスの席で披露された。クエトの王は意気消沈し、代わって話をした第一大臣は、姫を嫁がせることしか国が生き残る方法はないのだと告げた。若者は一瞬、顔色を失くしたが、末席で姫の婚儀を承諾した。結果は、第一大臣と姫の乳母から本人に伝えられた。
シャーラ姫はベールのなかの顔を強ばらせながらも気丈に返事をした。
「これもまた、神様のお決めになったこと。私に異存はございません。」
そういった声は、まだ幼い少女のものだった。
婚儀は断食月の明けた次の月と決められ、シャーラ姫はそれに間に合うようにメルアの都へ赴くことになった。マフムド王からの支度金は恐ろしいほど高額で、それに釣り合うように支度するのにクエトの商人達は海を飛び回った。マフムド王のほうからは早くメルアの都に入るよう催促がきたが、クエトの王は何かと理由をつけて姫を手元に置きたがった。しかし、それも僅かしか引き伸ばすことはできず、シャーラ姫の婚礼隊商は断食月を旅した。
◇◇◇
サーリム・ハールーンは、大隊商を率いる責任者だった。クエトのマジュリスの中では一番若く、第一大臣の子息でもあったので、婚礼隊商の責任者を王から命じられたのだった。最初、彼は責任者を辞退した。彼にとっては残酷な命令だった。
彼は自分がシャーラ姫の許婚者であったことを知っていた。何も言わなかったが、彼の心の内は悲しみで一杯だった。シャーラ姫は自分が望んで嫁ぐのではなく、国のために嫁ぐのであり、相手の「砂漠の炎王」マフムド王とは一面識もないのである。婚儀が決まってから、シャーラ姫は庭の散策すらやめて部屋へ閉じこもり、彼の知っている優しい笑みすら見せなかった。この砂漠の旅行にしても彼とは最小限の言葉しか交わさなかった。
クエトの王は、この隊商の責任者を彼に命じるとき彼の足元に頭を下げたのだった。臣下に王が頭を下げるなどもってのほかである。そうまでされた以上、彼は引き受けなければならなかった。その命令を受けた後、彼は父親に報告した。彼の父親はこう言った。
「お前がお役目をお引き受けするのも神の命じたもうたこと。メルアへの旅は大変だろうが、お前が神を讃え敬う心を忘れなければ無事に運んで下さるであろう。
そして、旅の途中でいかなることに出会ってもすべて神のお計らいと知り、心正しく持つように。」
旅はつつがなく運んでいた。盗賊に出逢うこともなく、砂嵐に巻き込まれることもなく、淡々と続けられた。断食月であること、世辞にもおめでたいといえない婚礼隊商は静かに旅行した。駱駝使い達も従者達もシャーラ姫を気遣って騒ぐことがなかった。長い旅を続けてきた者達にとって、騒いで憂さを晴らすこともできないというのは気の毒なことであった。
サーリム・ハールーンは、メルアの都まで、あと一日という所で隊商を止めた。
その日は断食月の最後の夜であり、「アル・カドル」と呼ばれる聖夜であった。せめて聖夜ぐらいゆっくり休ませよう、とサーリム・ハールーンは考えたのだった。
彼は水場の近くに夜営を設け、天幕を張り、シャーラ姫と乳母を休ませた。彼自身は、隊商内をくまなく巡って、荷の点検、水の確保、そして、隊商の者達に労いの言葉をかけて回った。砂漠の風は緩やかに吹いていた。砂は音も立てずに足の下で崩れた。
「まるで、星が降ってくるようだ。」
彼は天を見上げてそう呟いた。断食月の夜空は、満天の星が輝き、いまにもその星が降ってくるように見えた。こんな星の降るような夜には…。
「サーリム・ハールーン様!」
低い女の声が彼を呼び止めた。彼は声の方に向き直った。シャーラ姫の乳母が黒のベールで顔を半分隠しながら立っていた。
「一体、どうされたのですが? 乳母殿。」
「大変でございます、姫様が天幕にいらっしゃらないのです!」
「!?」
「ちょっと目を離した隙に、外に出られたらしく。」
「天幕の周りは探されましたか?」
「はい! でも、いらっしゃらないのです!」
乳母は青ざめていた。サーリム・ハールーンは乳母を諭すように言った。
「わかりました。シャーラ姫様は私が必ず、お連れします。乳母殿は姫様の天幕でお待ち下さい。
誰か、他の者に姫様のいらっしゃらないことを言いましたが? 」
「いいえ!」
「ならば、尚更、天幕でお待ち下さい、いいですね!
それから、誰にも言わないで下さい。姫様の名誉にかかわりますからね。」
サーリム・ハールーンは乳母を天幕に戻すと自分の駱駝に鞍を乗せた。休んでいた駱駝が鼻を鳴らした。
「いい子だから、私を手伝っておくれ。」
星明りのなかでサーリム・ハールーンを乗せた駱駝は静かに走り出した。
彼にはシャーラ姫がどちらへ向かったのか見当がつかなかった。だが、シャーラ姫を見つけてメルアへ連れて行かなくてはならない。そうしなければ約束を違えたとしてマフムド王はクエトの民を皆殺しにするだろう。そして、婚礼を逃げ出したシャーラ姫とて国を裏切った者として石で追われる者になってしまう。
彼は宙を見上げて満天の星空に問いかけた。
「どうか、私にシャーラ姫の居場所をお教え下さい。あの方に神を忘れさせないで下さい。」
彼の問いに答えるかのように星が一つ流れた。星の行き先は彼の前方示した。
サーリム・ハールーンは、駱駝を駆け足させた。
星はサーリム・ハールーンを先導するように動いた。彼は導かれるままに砂漠のなかで彼の姫君を見つけた。
シャーラ姫の白く透きとおったベール姿が古びた井戸の側にあった。
このような所に井戸があっただろうか。彼の記憶にはなかった。
姫は井戸の端に腰を下ろしていた。ベールの裾がほんの少し、風にそよいだ。
サーリム・ハールーンは、駱駝を降りるとゆっくり近づいた。足の下で砂が流れる。月星の明かりは彼に道を示すのに十分だった。
彼の目の前で、シャーラ姫は半身を井戸の中に傾けた。ベールの中から長い黒髪が井戸に落ちた。
いけない!
サーリム・ハールーンは全速力で駆けた。両腕を伸ばし、華奢なシャーラ姫の背中を抱きとめた。細くてたおやかな少女の身体を両腕が感じていた。彼は言葉を発することもできずに少女を抱きとめていた。ベールを透した黒髪が目の前にあった。
動けなかった、青年も少女も。星が幾つか天上を流れる間、彼らはそうしていた。
青年の腕のなかで柔らかい胸が規則正しく上下していた。少女の息が彼の腕をなぞった。青年のがっしりとした腕に小さな手が添えられた。
「お離しなさい。」
はっきりと少女の声が命じた。砂漠の風に消え入りそうなか細い声だったが、サーリム・ハールーンには、はっきり聞こえた。彼は両腕の力を抜いた。指先が砂漠に落ちた。シャーラ姫は、ゆっくりとサーリム・ハールーンのほうへ向き直った。
星明かりが少女の顔を明るくした。透けるような白い肌、顔を縁取る黒髪、もの悲しげな黒い瞳。愛らしい唇は少し、蒼ざめて見えた。彼女は彼に微笑みかけた。
「私が、身を投げるとでも思ったのですか?」
シャーラ姫は、小さく笑った。サーリム・ハールーンは、頬が強張るのを感じた。
「サーリム・ハールーン、貴方は心配性なのですね。蒼い顔をしていらっしゃる。」
「…姫様が、無茶をなさるからです…。」
やっとの思いで彼は口を開いた。
「私がいつも貴方に心配をさせるから…。」
シャーラ姫は、サーリム・ハールーンの顔を見つめた。青年の瞳が悲しげに見えた。左の黒い瞳は今にも泣き出しそうだった。そして、右の緑の瞳は、青年の心の内を浮かべているように見えた。青年の瞳は左右の色が違っていた。
「私は、自害なぞいたしません。」
シャーラ姫は、はっきりと言った。サーリム・ハールーンは黙っていた。
「神様が私にせよ、とお命じになられたことはまだ始まってもおりませんもの。」
「…。」
「すべては神の御心のままに。私はそれに従うだけ。」
姫は微笑みながらそう言ったが、寂しげな表情を隠すことはできなかった。
サーリム・ハールーンは、そんなシャーラ姫の姿を見つめていた。彼の真摯な眼差しに少女は顔を背けた。薄いベールがシャーラ姫の横顔を隠した。
「天幕へお戻り下さい。」
サーリム・ハールーンが小声で言った。シャーラ姫の小柄な身体が彼の手の届くところにあった。
「ねえ、見て。星が降ってくるみたい!」
シャーラ姫は、幼い子供のような声を上げた。天を見上げた姫のベールが砂の上に落ちた。黒髪が揺れた。彼も天を見上げた。幾千もの星が糸のような月を取り巻いて煌いていた。瞬く星の一つが彼らに向かって降って来るように見えた。
「この井戸に降ってくるみたいでしょう。私は、この井戸に降り注ぐ星を見ていただけですの。とても、綺麗でしたわ。」
サーリム・ハールーンは、天上の星からシャーラ姫の瞳に映る星に目を転じた。
「貴方は、『星の降る井戸』をご存知? 私、この井戸を見ていてそのことを思い出しましたの。神様に私の声が届くといいなって。
私ね、この井戸に願いを言いましたの。」
ふいに、シャーラ姫がサーリム・ハールーンにしがみついた。少女は青年の胸に顔を埋めた。黒髪が微かに震えていた。
「…。」
サーリム・ハールーンは、彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。姫がまだ小さいときにから従者として仕えてきた。天使のようなシャーラ姫をいつも守ってきたのだった。それが彼の役目であり、彼に託されたことだったのだ。いつもシャーラ姫の幸せだけを願っていた。そして、いつの間にか、自分がその幸せを与えたいと思うようになっていた。
彼は動かなかった。星だけが天を動いた。
両手は砂漠の砂を握っていた。彼の袖をシャーラ姫が握り締めていた。抱きしめてしまえば終わりのような気がした。愛する者を他へ渡さなければならない苦しみも、神の約束を破る恐れも。このまま逃げてもいい。そんな考えが頭をよぎった。
彼の両腕が持ち上がりかけたとき、シャーラ姫が顔をあげた。優しく微笑んでいた。彼女の唇が動いた。
「ごめんなさいね。ほんのちょっと、心細かったの。でも、もう大丈夫。」
「…。」
「貴方の緑色の瞳が好きよ。旅人に安心を与えてくれるオアシスの緑だもの。いつも、私を安心させてくれたわ。貴方がそばにいてくれたから、私、いつも幸せだったの。」
「…。」
「私、お嫁に行きます。」
「…。」
「神様がお決めになったのですもの。きっと、悪いようにはなさらないわ。
そうでしょ。」
「はい。」
サ-リム・ハールーンは小さく答えた。
「天幕へ戻ります。」
「はい。」
シャーラ姫は立ち上がって、彼に命じた。
◇◇◇
サーリム・ハールーンは、ただひとり、砂漠を歩いていた。
シャーラ姫を天幕で待つ乳母のもとに届けた後だった。シャーラ姫を連れ帰ったとき、乳母は何も言わなかった。砂漠の真ん中で、若い男女が長時間二人きりでいたのである。何を詮索されても仕方がない。だが、乳母は何も問いたださなかった。
それよりも、無事に帰ってきたというのに落胆顔を見せたのだった。
シャーラ姫の乳母が二人の男女の心を一番よく知っていたのかも知れない。彼女は自分の姫が人身御供のような婚礼を強いられるのが不憫でならなかった。いけないことと判りつつ、彼女は二人が一緒に過ごすことを願っていたのだった。しかし、敬虔なる男女の回教徒たちは、神の教えのとおり、清廉潔白な姿で帰ってきたのだった。乳母は確かに落胆したが、だが、安堵の気持ちのほうが大きく支配した。
サーリム・ハールーンは、不幸にもそんな周りの者達の気持ちを悟っていた。王が彼を隊商の責任者としたのも、彼の父親がすべての出来事は神の采配であると言ったことも、シャーラ姫を天幕から外に出した乳母の気持ちも。皆、シャーラ姫の思いを叶えてやりたいのだった。姫が一番、慕っている青年と幸せに過ごすことを。
ことによれば、王は二人が駆け落ちすることも黙認するつもりだったのかもしれない。
糸のような下弦の細い月がたくさんの星を伴って天上にあった。
アル・カドルの夜はひっそりとしていた。
サーリム・ハールーンは、いつの間にか古井戸の側に立っていた。
両腕にシャーラ姫を抱きとめた時の温もりが思い出された。彼は井戸の端に跪いた。
「『星の降る井戸』…。」
彼は小さく呟いた。砂漠の民ならば、「星の降る井戸」の話を知っている。大抵、小さな頃の寝物語に老人が語ってくれるのだ。
井戸は断食月の最後の夜、アル・カドルの聖夜、砂漠のどこかに現われるという。
黒い髪黒い瞳の乙女<ハウリ>が井戸の側にいて、井戸を求めてやってきた旅人のために井戸の水を皮袋で汲み上げてくれる。その水を一滴、枯れた井戸に落とすと、その井戸は、どのような日照りのときでも決して枯れず、絶えず水を湛えている井戸になると言われている。ゆえに人々は永遠の井戸を得るために「星の降る井戸」の水を求めている。人が「星の降る井戸」を恋い慕うのはそれだけではない。
「星の降る井戸」は神のおられる天上界に繋がっていて、井戸の中に願い事を言うと、その声は神の使い<イズライール>のもとに届けられ、神の耳に入ると言われている。神は心正しい者の願いは必ず叶えてくださる。だが、余りにも天の高いところにいらっしゃるので神の耳に人の声が届かない。神の耳に願いを届けるには「星の降る井戸」に声を届けて貰わなければならないのだ。何時の頃からか、そのために人は「星の降る井戸」を探すようになっていた。
サーリム・ハールーンは、古井戸の中を覗き込んだ。シャーラ姫が身体を傾けたように。
井戸はとても深いらしく、水が沸いているのかどうかも判らなかった。適度な深さの井戸ならば夜でも星明りで水面の様子がわかる。だが、この井戸はそんな様子の欠けらすら見られなかった。深く、そして、何処までも静寂な色の井戸だった。
姫様は、何を願ったのだろう。
彼は静寂を見つめた。その時、彼の側を小さな星が通り過ぎた。
星の光の粉を振りまきながら井戸の静寂のなかを降りて行き、やがて、見えなくなった。
彼は頭上を見上げた。天上の星々が彼に向かって降り注いでいた。星の光は彼を通り過ぎ、井戸の中へ姿を消した。
「伝説の井戸なのですね!」
彼は天上に問いかけた。
「ここが『星の降る井戸』なのですね!」
天が彼の問いかけに答えた。『お前の願いは何だ?』
「私の願い?」
サーリム・ハールーンは一瞬、言葉を失くした。彼は願い事があってこの場にいたのではなかった。彼は、彼の周りを取り囲むように流れる星の姿を追った。そして、サーリム・ハールーンは、井戸に叫んでいた。
「私は、私の姫君が幸せに過ごされることを祈っております。この井戸から天上の神様に声を届けて下さるのなら、私の願いでなく、姫君の願いこそお聞き届け下さい。」
「姫君はいつも神の名を讃え、貴方の教えの通り過ごされておいでです。どのような目に遭われても姫君は貴方を信じ続けるでしょう。そのお心をお守り下さい!」
サーリム・ハールーンの鼻先から水滴が滴り落ちた。星の光を含んだ涙は、暗い井戸の中を何処までも落ちていった。
『お前の願いは、あの娘の願いを叶えて欲しいということか。あの娘がどのような願い事をしたのか知っているのか?』
「存じません。」
『知りたいか?』
「いいえ! 姫君の願い事は、私ふぜいが知る必要はございません!」
『そうだな。娘の願いは、お前の願いではない。それが叶えられるようにというのがお前の願いであったな。』
サーリム・ハールーンは天上を仰いだ。彼に語りかける声は天上から響いていた。
『お前の願いを聞いてやるのには、娘の願い事を儂のもとに運ぶ星が必要だ。
お前は、その星を用意せよ。』
「星でございますか? 私は星なぞ持っておりません。」
『何を言う。お前は二つの星を持っておる。その一つを使えばよいではないか。』
「…。」
『その綺麗な緑の星がよいな。黒の星では芸がない。
さあ、どうする?』
神は彼に命じた。サーリム・ハールーンは、自分の右目に手をあてた。左右の瞳の色が違うのは、神の力によるものだと皆に言われていた。だから、敬虔な回教徒である彼は、自分がほかの者と違う容姿であっても気にとめなかった。その特別な右目を神は彼に要求したのだった。人間は、神の力によって生まれたもの。その身体は神のもの。
サーリム・ハールーンは、腰帯の短剣を取り出した。三日月状の短剣の刃に彼の緑色の瞳が星明りを背に映し出されていた。シャーラ姫はオアシスの緑だと彼に言った。彼は短剣の刃に映る右目を見納めた。
サーリム・ハールーンは、短剣を右目に突き立てた。真紅の血が彼の腕をつたって、砂漠に赤い染みを作った。服にも血の染みが出来ていた。彼は、右目を抉り出し、血に染まった手の先から井戸へ落とした。叫び声ひとつあげずに。彼の緑色の瞳は、深い井戸の中を落ちていった。サーリム・ハールーンは出血のために薄れていく意識の中で、星が水面に落ちた音を聞いたような気がした。目の前が赤い色から闇の色にかわった。
◇◇◇
ふと、シャーラ姫は天幕の空気が揺れたのに気づいた。室内を照らす油の灯が微かに瞬いた。
砂漠の井戸から戻ってきた彼女は一人で天幕の中にいた。ベールを外し、姿勢を正して、じっと座っていた。彼女はひたすら訪問者を待っていた。彼とて彼女の気持ちには気づいていたはずだった。彼女はその罪ゆえに彼が劫火にさらされぬよう、神に祈っていた。あれから、随分と時間が経っていた。天幕の入口の布は微動だにしなかった。彼は来ないのだ。シャーラ姫は胸が一杯になった。彼女が思いを寄せている若者は敬虔な回教徒だった。決して、神の教えに逆らおうとはしない若者だった。彼は、姿を見せないことで彼女の悪心を諌めているのだ。その証拠に先程も彼女に触れようとはしなかった。彼は来ないのだ、シャーラ姫は確信した。その時、天幕の空気が揺れたのだった。
「誰?」
幼さの残る声が宙に問いかけた。入口の布は動かなかった。彼女は周りを見た。油の小さな灯りの向こうに霞のかかったように見える光の塊があった。シャーラ姫は黒い瞳を大きく見開いた。
「何者ですか。」
震える声が少女の口からこぼれた。光の塊は、穏やかな色を見せた。
『我が名は<ジブリール>。<イズライール>と共にある神の使い。』
穏やかな男声だった。何処となく、彼女の待っている者の声に似ていた。
「神様の御使い様が、このような端した女にどのような御用なのでしょう。」
声がか細く聞こえた。
『神はそなたの願い事を耳にされた。』
「!?」
『アル・カドルの夜、神は人間の願いを叶えてくださる。今宵はそなたの言葉をお聞き届けになった。』
シャーラ姫は両手を口許に当てて、驚きの声を抑えた。
『これより、神の賜り物をそなたに授ける。
手を。』
<ジブリール>の言葉にシャーラ姫は震える両手を差し出した。次の瞬間、彼女の白い掌に緑色の小さな石が乗っていた。彼女の爪の先ほどの小さなものだった。石は透き通った緑色の光を湛えていた。
『神の言葉を信じるなら、それを自分のものとするが良い。』
「あっ。」
彼女の掌に小石とその言葉を残して、<ジブリール>の光が消えた。天幕のなかは静かになった。彼女には緑色の小石が残されていた。
「『自分のものにせよ。』、と…?」
シャーラ姫は小石をじっと見た。
その輝きは、彼女に彼の瞳を思い出させた。
シャーラ姫は小石に微笑むとそっと口に含んだ。彼女は小石を飲み込んだ。誰にも盗られないように体内に隠してしまった。なぜか、涙が溢れた。シャーラ姫はそのまま枕に顔を伏せた。すべてが夢で、朝、目が覚めたらクエトの自分の部屋であってほしいと思いつつ。
◇◇◇
サーリム・ハールーンは夢を見ていると思った。
闇の中に彼のシャーラ姫が浮かび上がっていた。白い衣の姿は、シャーラ姫の身体の線をはっきりと見せていた。少女らしい曲線が彼には眩しく映った。
これは夢だ。
彼は唾を飲み込んだ。砂漠の悪しき妖霊が彼に罪を犯させるために見せている夢だ。人間を神の許から引き離し、堕落させようという悪魔の仕業だ。
シャーラ姫が恥ずかしげに微笑みかけた。彼女は白い腕を彼へ差し出した。闇の中だというのにシャーラ姫の姿は瞳の揺れるのまではっきりと見えた。シャーラ姫の黒い瞳が彼を求めていた。サーリム・ハールーンは、心底、この少女を抱きしめたいと思った。誰にも渡したくなかった。本当は叫びたかった。シャーラ姫の夫たるのは自分なのだと。この輿入れこそ、マフムド王の邪な罪にほかならない。だが、だからといって彼が彼女に想いを遂げるわけにはいかない。輿入れを承知したのはシャーラ姫なのだ。神の教えを護るのならば、彼女は清いままマフムド王のもとに行かなくてはならないのだ。
彼はシャーラ姫の手に後ずさった。近づけば彼女を抱きしめてしまうだろう。夢ならばなおのこと自制が利くまい。
『何を躊躇しておるのだ。』
厳かな声が聞こえた。彼に緑の瞳を遣わすように言った声だった。
「これは夢です。悪魔が私をたぶらかそうとして!」
サーリム・ハールーンは声の主に訴えた。声は答えた。
『確かにこれは夢だ。あの娘が見ている夢だ。』
「シャーラ姫さまの?」
『今夜はアル・カドル。全ての出来事は儂の胸で決めたこと。』
『今宵の娘の夢もな。』
「…信じてよろしいのでしょうか。」
『神の力は神を信じる者のみに現われる。』
サーリム・ハールーンは、がっしりとした腕を彼の姫君に伸ばした。シャーラ姫のほっそりとした腕を掴むと自分の方へ引き寄せた。彼はシャーラ姫の身体を胸に抱いた。柔らかく温かい少女の身体は、彼の胸の中で肩を震わせた。潤んだ黒い瞳が彼を見上げていた。どちらともなく唇が重ねられた。言葉は必要なかった。夢だというのに唇のやわらかさも身体の温もりも黒髪の手触りも現実のようだった。彼は何度も唇を重ねながら思った。ジャハンナムの劫火に焼かれてもいいと。
愛してる!
彼は心の中で叫んでいた。その言葉が聞こえたのか、シャーラ姫は抱きしめられたなかで微笑んでいた。彼女の微笑みは、彼の犯す罪を許していた。
サーリム・ハールーンは、夢の世界で、彼の妻たる女性と褥を共にした。
◇◇◇
目が覚めたのは、朝の祈りの声で、だった。
隊商の者達の祈りが聞こえる。
今日にもメルアからの迎えと合流する手筈になっていた。それで、彼の役目も終わる。
「あっ!」
サーリム・ハールーンは声を発して飛び起きた。彼は自分の天幕の中にいた。
昨夜は、あの古井戸の側にいたはずなのに。そして、天の声に右目を抉り出して…。彼は右目に手をあてた。目玉の曲線はなかった。代りに洞穴のようなものに触れた。
夢ではなかった? 天の声も、シャーラ姫との一夜も?
確かに右目はなかった。が、あの時、流れ出た血は、彼を汚していたはずだ。なのに、彼の衣服には血痕がなかった。彼はすべて神のなせる業だったのだと悟った。
サーリム・ハールーンは、水袋の水で手を拭うとメッカに向かって礼拝した。今まで以上に心を込めて。
「サーリム・ハールーン様、」
天幕の外で声がした。
「何だ?」
サーリム・ハールーンの声はいつものように落ち着いていた。
「朝はやく申し訳ありません。メルアのマフムド王のお迎えが到着しております。」
「…。」
「如何いたしましょうか。」
彼は少し考えてから答えた。
「隊商を引き渡します。その準備をしなさい。シャーラ姫様には、私から申し上げます。」
彼は頭布を深く被り直し、衣服を手早く整えると天幕を出た。朝日が眩しかった。
サーリム・ハールーンは、シャーラ姫の天幕の外に跪いた。
「朝はやくから失礼いたします。シャーラ姫様は、お目覚めでしょうか。」
少しの沈黙の後、天幕の中からシャーラ姫の声がした。
「何用ですか、サーリム・ハールーン。」
「メルアの都から迎えの隊商が参っております。これより先は、その隊商がシャーラ姫様をメルアまでご案内いたします。」
口の中が苦い感じがした。シャーラ姫は黙っていた。
「私の役目はここまででございます。
シャーラ姫様の上に、神の平安がございますように。お祈り申し上げます。」
彼はそういって立ち上がった。その彼にシャーラ姫が声をかけた。
「お役目、ご苦労様でした。
貴方の上にも神の平安がありますように、サーリム・ハールーン・ラジド。」
シャーラ姫は、彼の名を噛み締めるように唱えた。それで十分だった。サーリム・ハールーンは足早に天幕を離れると自分の職務に戻った。
暫くの後、彼はシャーラ姫の一行を砂漠の地平線上に見送った。数人の供を連れただけで彼はクエトに戻る。何もないクエトの街へ。
砂漠とは何と不可思議なところだろう。草ひとつ生えていない不毛の地なのに、どこよりも神の御胸に近い。地平線まで一望できるというのに「星の降る井戸」は見当たらなかった。あの井戸も神の遣わした不可思議なものだったのだろうか。
すべては夢のように過ぎてしまったアル・カドルの聖夜。
彼は、駱駝に声をかけた。砂漠の舟は、砂の上を流れるように速度を増した。
サーリム・ハールーン・ラジドは、一度も、砂漠を振り返らなかった。
お手に取っていただき、ありがとうございます。
「星の降る井戸」第2弾です。
前話「商人の客」の中で語られた物語です。
登場人物の名前が、鍵となって進んでいく物語です。
また次回、ご期待ください。