子ギツネの名前
和尚さまの名前は、弦月と言った。
それは、本当の名前ではないとも言った。
本当の名はわけあって、棄てたのだと、弦月和尚さまは悲しげに言った。何か理由があるのかも知れない。僕はその理由を聞かなかった。
弦月とは、《天と地に弓引く者》と言う意味で付けたらしい。
『《弓引く》……?』
僕は小首を傾げる。
弦月和尚さまは笑って説明する。
「月が形を変えるのは、知っているかい?」
和尚さまの言葉に、僕は頷いた。
『うん。知ってる。僕が生まれた時はまん丸だったけれど、だんだん細くなったから』
弦月和尚さまは、僕の話を聞きながら、嬉しそうに頷いた。
「そう。その欠けた月が、弓のように見えた日があったろう?」
言われて僕は考える。
『うん。満月の後、しばらくしたら半分になった。月が登ってくるのがとても遅くて、僕、眠らずに待ってた事があるんだ』
僕の言葉に、和尚さまは驚く。
「そんなに遅くまで、起きていたのかい?」
僕は、こくりと頷く。
『僕は、月の明るい晩に生まれたから、また月が出たら、僕みたいなのが生まれて来るのかなって、思って……』
呟きながら悲しくなる。
『でも……誰も生まれて来なかった……』
「……」
和尚さまは黙って、僕の頭を撫でてくれる。
あったかい……。
その手が心地よくて、僕は頭を擦り寄せる。
『その時出てきた月はね、まるで地面に弓を引いているようだったの。しなる弓が下を向いていて、真っ直ぐな弦が上にあって……』
その時の僕は、それを見て納得した。
『きっとね、月が地面に向かって矢を番えているから、生まれてくるはずの僕の仲間は怖くって、生まれて来れないんだ……って、僕、そう思ったんだ』
目を閉じながら呟く。
その時の事を思い出すと、心が壊れてしまいそうに痛くなる。
ぎゅっと体を丸める。
小さく体が震えた。
「そうか。お前は、寂しかったんじゃな……」
和尚さまが呟きながら、僕の頭を優しく撫でた。
『……』
僕は答えず、ただその手に擦り寄った。
「その地面に弓を引いていた月が《下弦の月》じゃよ」
『え? 下弦? 下弦って、弦が下に向いているっていう意味じゃないの? 僕が見た月の弦は上に向いていたのに、下弦って言うの?』
僕は不思議そうに訊ねた。
その言葉に、和尚さまは笑う。
「ふふ。お前は賢いの。……そうじゃ、下弦と言うのは弓の弦が下を向くからそう名付けられた」
和尚さまは愉しげに喉を鳴らす。
「下弦の月が狙っているのは、本当は《天》なのだよ」
『天……?』
僕はわけが分からなくなって、頭を抱えた。
和尚さまはそんな僕を見て、くすりと笑うと優しく頷いた。
頷きながら、和尚さまは弓引く仕草をする。
シュルっと衣擦れの音がして、袖が和尚さまの右の手のひらを隠す。和尚さまはそれを弓の弦に見立てて、袖の先を掴んだ。
「地に弓を向け引き絞り、沈む時に《天》を狙う。……それが下弦の月」
真剣な顔で天を狙い、和尚さまは弓を引く。
──カンッ……!
『!』
ビクッ!
僕には和尚さまの射る弓の音が、聞こえたような気がした。
その音はとても悲しく響いて、僕は少し、恐ろしくなる。
『……うん。なんとなく分かった』
和尚さまの言葉に、僕は納得する。
『そうか。引き絞らないと矢は射る事が出来ないからね……。じゃあ反対の上弦の月は、天に弓を向けて引き絞った後に、地に向かって矢を射るんだね?』
和尚さまは笑う。
「そんなところじゃ。お前は頭がいいな」
言いながら、また僕の頭を撫でてくれる。
褒められて、僕は得意になる。
パタパタとしっぽを振った。
『じゃあ、じゃあ、《弦月》って言うのは、その二つの月のこと?』
「そうじゃよ」
和尚さまはその言葉に、悲しげに眉を寄せながら小さく笑う。
「私は、天にも地にも、弓を引いてしまったのじゃからな……」
和尚さまは遠くを見るように、顔を上げた。
『和尚さま……?』
黙り込んでしまった弦月和尚さまを、僕は少し心配しながら、その顔を仰ぎみる。
泣いてはいないけれど、僕には弦月和尚さまが泣いているように見えた。
『……』
僕はそんな和尚さまを慰めようと思って、ぺろりとその頬を舐める。
「!」
舐められて、和尚さまは少し驚いた様子だったが、すぐに笑って僕に語りかける。
「ふふ。くすぐったいの。そうじゃ、……お前の名はなんと言う?」
弦月和尚さまに問われて、僕は首をかしげた。
僕は、生まれた時から一人だった。
名前をつけて貰った覚えなどない。
『名……?』
小首を傾げながら、和尚さまを見る。
そんな仕草を感じて、和尚は戸惑う。
「お前の名前だよ。……もしかして、ないのか?」
和尚さまは、少し声をひそめる。困ったような顔をした。
僕には、家族がいない。
生まれた時からひとりぼっちだ。だから名前なんてあるはずがない。
僕は首を振る。
『名前なんて知らないよ。僕は雪から生まれたんだ。雪は話さない。……僕の近くで話せるヤツなんていなかったから……』
言いながら、僕は少し俯く。
名前がないことが、ひどく悲しいことのように思えたし、その事で目の前の和尚さまが、困った顔をしているのが嫌だった。どうにかして、この場の雰囲気を明るくさせたかった。
僕は必死に考えて、小さく、あっと呟く。
いい事を思いついた!
『でも、和尚さまとは、話せるね。僕ね、誰かとこんなに話した事って、今までになかったから、とっても嬉しいんだ……!』
誰かと話したのは、初めてだよと、僕はパタパタと耳をはためかせ笑って見せる。
僕は必死に明るい声を出した。弦月和尚さまに、心配を掛けたくなかったんだ。
「……」
だけど弦月和尚さまは黙り込む。
そもそも和尚さまを騙すなんて、無理な話しだったのかもしれない。僕はまだ生まれて間もない。
例え僕に、不思議な力がある物の怪だとしても、弦月和尚さまの目が見えないと言っても、僕の声の震えくらいは分かるに違いない。
『……』
必死に隠そうとしてはしたけれど、限界だ。
だってずっと苦しかったから。それをなかったことになんか、出来やしない……!
見上げれば、和尚さまには顔を歪めている。《不憫でならない》って言ってるようだ。
僕は居心地が悪い。
隠し通そうとした努力は、報われなかった。それが痛いほどに分かる。
和尚さまの表情を見ると、自分が情けなくなって、泣きたくなった。
弦月和尚さまは、はぁと溜め息をつく。
「それは困った。名前がないとなると不便じゃな」
その一言で、僕は少しムッとする。
雰囲気を明るくしようと思ったのに、事態は思わぬ方向へ進んでしまった。
思ってもみなかった状況の変化に、僕の苛立ちは隠せない。
『僕は困った事なんてない! 第一ここには和尚さましか、いないじゃないか!』
ぷいっとそっぽを向き、僕は辺りを見廻した。
弦月和尚さまは、目が見えないのに、この古寺には小僧さんがいない。だって人の気配が全くしない。
よく生活が出来るものだと、僕は不思議に思う。
僕には、考えられない事だった。
目が見えなかったら、狩りが出来ない。
狩りが出来なければ、食べていけない。
食べなければ生きてはいけない。
《和尚さまは、誰の助けを借りて、生きているのだろう? まさか、、一人で生きていけるわけもないだろうし……》
僕は眉を寄せ、和尚さまの心配をする。
「何を言うか。名は体を示すと言うではないか。名前は必要じゃ!」
急に和尚さまが声を張り上げ、怒ったような声を出した。
僕は和尚さまのその大きな声に驚いて、ビクッと体を震わせる。
僕の怯えを感じ、和尚さまは思わず声を荒らげてしまった事にハッとする。
「すまない……。驚かせてしまったの……」
申し訳なさそうに、そう謝った。
僕は小さく頭を振る。
『ううん。いいの。大丈夫……』
謝られて一応は許したものの、やっぱり僕は納得出来ない。
だってそうだろ? 僕は必死に隠したんだ。弱味を見せたくなかったから。
それに怒鳴るほどのことなの? 僕は好きで一人でいたんじゃない。誰も傍にいてくれなかったんだ!
名前? 名前なんてどうでもいい! そんなのなくったって、僕は今の今まで生きて来られたんだから……!!
僕は、ぐるるっと威嚇音を出す。
怒りで毛並みも、逆立った。
和尚さまは、眉を寄せた。
それが怒っているように見えて、僕は悔しくなる。
「……」
『……僕、僕はね、そんな言葉知らない』
僕は必死に口を開いた。
思った事を口にする。
和尚さまの言葉はまるで、名前がないのが悪いみたいな言い方だった。それが癇に障った。
僕の今までの生活を、全否定されてような気がして、気分が悪かった。
『僕には名前がない。生まれた時から一人だった。だから、つけてくれる人がいなかった……っ。名前がないのが悪いっていうんだったら。……だったら、和尚さまがつけてよ! 僕に名前をつけて!!』
半分怒って、半分期待して、僕は叫ぶ。
言われて弦月和尚さまは、少し怯んだ。
「う、うーむ。……しかし、わしなどがつけるのは……」
煮え切らない反応に、僕はムッとする。
『……うーっ! じゃあ、いらない!』
ぷいっと僕は横を向く。
『今まで、なくても何ともなかったし、別になくてもいいよ……っ』
半ば、やけっぱち。
《少し期待したのに……っ》
そっぽを向いて、ぷぅ……と頬を膨らませた。
《……いいんだ。しょうがない。今日会ったばかりの人なんだから》
今まで会話すらした事がなかった。
それなのにこうして僕と話をしてくれた。それだけで、十分じゃないか。
弦月和尚さまが唸る。
「そんな訳にはいかぬ。……」
うーむうーむと悩んで、弦月和尚さまは、ぽんっと手を打った。
「分かった分かった! それならば名をつけてやろう! お前の名前は、『狐丸』がいい!」
これはいい名をつけた! とばかりに和尚さまはご機嫌で微笑んだ。
けれど僕は違う。
ぐるるっと再び唸る。
だって《狐丸》だよ? 見たままじゃないかっと、僕は小さく呻いた。
「お前がつけろと、わしに言ったのじゃ。何か文句があるのか?」
和尚さまが僕に、ずずずいっと凄んでみせる。
僕は、うぐっと息を飲んだ。
和尚さまは、にやっと笑うと、僕に告げる。
「そうであろう! 文句は言えぬであろう? 今日からお前は『狐丸』じゃ。よいな」
和尚さまに念を押され、僕は仕方なく頷いた。
『……分かった。僕は……狐丸』
僕は、自分の名前を宣言する。
よろしい。と弦月和尚さまは、満足気に頷いた。
文句を言いはしたものの、僕は嬉しかった。
こんなに沢山、誰かと話をしたことはなかったし、撫でられたことも無かった。
《ましてや、名前なんて……っ》
小躍りしたくなるのをじっと我慢して、僕は和尚さまに撫でられる事を選んだ。
ポッカリ空いていた心の中が、なんだかあたたかくなったような気がした。
柔らかい風が吹く。
氷のように凍てつく冬の風ではなくて、ほんのり暖かい、春の香りを含んだ優しい風だった。
× × × つづく× × ×
相変わらず〆が《風》ですね( ̄▽ ̄;)
最近、〆は全部《風》。
《風》様様です。。。
表現、増やさんとね。。。