寂しげな和尚
声を掛けてくれたのは、この寺の住職のようだった。
白い衣の上に、小豆色の五條袈裟を掛けている。
いつからそこにいたのか、縁の上に座布団を置いて、静かに座っていた。目の前にはお茶と茶菓子が置かれていた。
その姿は穏やかなようであって、何者にも揺るぎそうにない、どっしりとした風格を感じさせる。
《このお寺みたいな人》
そんなふうに思った。
『……』
僕は、恐る恐る様子をうかがう。
和尚さまは、目が見えないようだった。
瞼を軽く閉じていて、僕がいる方を向いてはいるけれど、それが少しずれている。緩く背が曲がっていて、とても優しそうな人だった。
『……こんにちは』
僕は、おずおずと声をかけた。
この人も、逃げるのだろうか……? そんな不安が、僕の頭をよぎった。
けれど、和尚さまは逃げなかった。
それどころか、興味を示したようだった。
声の幼さに、和尚さまは驚いた様子で答える。
「なんと、こんな山寺に童子が来るとは……! タヌキにでも化かされておるのかのう⁉」
ふふふと笑いながらも丁寧に、こんにちはと返してくれる。
『!』
喜んでくれた!
そう思うと僕は嬉しくなって、しっぽをパタパタと振った。
けれど僕はキツネだ。
タヌキではない。
『僕は、タヌキではないよ』
僕はムスッとして答えた。
僕の言葉が面白かったのか、和尚さまの顔がほころぶ。
「おぉ。……それは、すまない事を言ったの。お詫びにこの饅頭をやろう。……饅頭は好きか?」
言われて、僕は首を傾げる。
『饅頭……?』
尋ねる僕に、和尚さまは笑って答える。
「菓子の事だよ。おいで。ここで食べるといい」
和尚さまは僕を、人の子と思っているようだった。
目が見えないのなら、仕方がない事だった。
それでも僕は嬉しかった。
今まで、誰かと話したことなどなかった。
誰かと話すのは、こんなにも幸せな気持ちになれるのかと、僕は思う。
もっと、たくさんお話がしたい。
だから、《おいで》と言われ、僕は素直に上機嫌になる。
和尚さまは《さあここに!》と、自分の座布団をひっくり返して、勧めてくれた。
『座布団はいらない』
言いながら、僕が濡れ縁に飛び上がると、そのまま和尚さまの隣にちょこんと座った。
誰が傍にいてくれる。それだけで、こんなにも安心するもんなんだ……僕は初めてその事を知った。思わず顔がほころんでしまう。
その様子に、和尚さまはふふふと笑う。
「そうか、お前は人ではないのだな?」
僕はキョトンとする。
少し血の気が引いた。……もしかしたら、怖がらせた?
『……どうして、分かったの?』
おずおずと尋ねた。
「それは、分かるさ。ここの縁に、ひとっ飛びで登れる子どもがいるものか」
愉快そうに和尚さまが言った。
僕は縁に腹ばいになって、もといた場所を眺めた。
寺の縁はずいぶんと高い。子どもどころか、大人でも勢いをつけなければ、登るのは難しいだろう。いや、大人であっても、目の前の和尚そんのような小柄な人は登れないに違いない。
『……』
和尚さまに言われて、そのことに初めて気がついた。
『……もしかして、試した?』
僕は急に、不安になる。
《もしかしたら、騙して僕を捕まえる魂胆なのかも……》
そう思って、僕はギュッと眉根を寄せる。
今まで出会った動物たちは、僕を恐れて逃げていた。
けれど目の前にいる和尚さまは、自分の事を恐れはしないが、試している。何か良からぬ事でも考えているのかも知れなかった。
《もしかしたら、僕の事を食べちゃうのかも……》
今までそんな自分の心配なんてしなくてよかった。だって今までみんな、僕を見て逃げて行っていたから。
だけどこの状況は、今までと大きく違う。
和尚さまは僕を恐れていない。
むしろ、捕らえようとしている……⁉
僕は小さく、ぐるるっと唸る。
僕の警戒の念を感じたのか、和尚さまは慌てて言葉を紡いだ。
「あぁ……すまない。不安にさせてしまったかい? しかし、私も目が見えぬ。見えぬモノが何なのか、少しでも知りたいと思うのは仕方がないだろう?」
オロオロと言い訳を始める和尚さまの姿が、なんだか可笑しくて、僕は目を細める。
和尚さまの言葉に、僕も最もだと思った。
『それもそうだね……』
こくりと頷いて、返事をする。
和尚さまからは、やっぱり嫌な感じはしない。優しくて、ほんわかするような、あたたかい匂いがした。
それから僕は、饅頭をふんふんと嗅いでみる。
先程からしている、甘くて美味しそうないい匂いに、ごくりと喉がなる。
和尚さまはフフと笑い、再び『お食べ』と言った。
けれど、その顔はなんだか浮かない表情をしている。
僕に《試したのか》と聞かれ、落ち込んでいるのだろうか? 警戒している人間からの食べ物など、食べてくれるはずがない。そんな風に思っているのかも知れない。
『食べて……いいの?』
僕は尋ねてみる。確かに和尚さまは不思議な人だけど、危ない人には見えなかった。何かあったら、すぐ逃げればいい。そんな風に思った。
だからこのとき僕はすっかり気を許していて、目の前のお菓子を本当に食べていいのか……そればかりが気になっていた。僕は、恐る恐る尋ねてみる。
その言葉に、強ばっていた和尚さまの顔が破顔する。
「あ、あぁ。もちろんだとも。……実は、頂き物なのだがね。儂は実は、あまり甘いものが得意ではない……」
困った顔で和尚さまは、笑った。
『ふぅん。そうなの……。じゃあ、いただきますっ!』
言いながら、かぷっと饅頭にかぶりつく。
饅頭は今まで食べたことがない、ほんのりと優しい味がした。
僕は嬉しくなって、ぱたぱたとしっぽを振る。
「おやおや、しっぽがあるのかい?」
『うん!』
ご機嫌で答える。
「しっぽがあって、タヌキではないなら……さては、猫だな!」
和尚さまは愉しげな声をあげる。
『違うよ。猫ではないよ』
正体を外したのが嬉しくて、僕は耳を揺らす。
違うと言われて、和尚さまはうーんと唸る。
「ならば、犬であろう!」
『違う違う。犬でもないよ』
ふふふと笑う。
饅頭を食べ終わり、僕はぺろりと口を嘗める。前足で顔を洗った。
「……」
和尚さまはふと、笑みを消すと、僕に言った。
「……どうも、当てられそうにない。よかったら、お前を撫でさせてくれるかい?」
どことなく悲しそうな和尚さまの言葉に、僕は少し悩んだ。
『……うん。いいよ!』
けれど僕は、無邪気にウンと頷いて、和尚さまの膝にぴょんっと跳び乗った。
和尚さまの膝の上は、雪の上とは違って、とてもあたたかで、気持ちがいい。
「!」
和尚さまは頼んではみたものの、まさか僕が了承して、ましてや膝の上にまで登ってくるとは思っていなかったようで、少し驚いたように身を強ばらせた。
『……? どうしたの? 触らないの?』
僕は、小首を傾げる。
「あ。……あぁ」
無邪気な僕の言葉に和尚さまはふわりと笑うと、そっと優しく僕を撫で始めた。
《あれ……? 和尚さま。少し、震えている……?》
僕は、ふとそう思った。
《え⁉ もしかして、僕が怖い……?》
まさか今更⁉ とも思ったけれど、有り得ないことじゃない。
パタパタと耳をはためかせ、僕は和尚さまを見上げる。
今までの出来事がふと、僕の頭の中をよぎった。もしかしてまた、逃げられるかも知れない……そんな不安が湧き上がる。
……けれど、和尚さまは逃げなかった。
ホッと小さく溜め息をつくと、それと同時に、こわばっていた肩の力が抜けていった。
『……』
僕はそれが少し嬉しくて、そっと微笑む。
もう、ひとりじゃない……。そう思えた。
和尚さまの手のひらはとても優しくて、あたたかくて、幸せな気分になる。
僕は、ゆっくり目を閉じた。
「柔らかくて、あたたかい。そして、この大きなしっぽ! ……うーん。そうだな、お前はキツネか?」
『当たりっ!』
撫でられると、とても気持ちがいい。
僕はスリスリと和尚に頭を擦りつけた。
「……お前の家族はいないのかい?」
撫でながら和尚さまは、僕に聞いた。僕は首をかしげる。
『家族ってなぁに?』
「《なに》ってお前……」
僕のその言葉に、和尚さまは少し戸惑って、言葉を考えながら口にする。
「一緒に暮らしている者のことだよ」
静かにそう言った。
言われて僕は、『そんなのいないよ!』と膨れて言い返す。
『僕は、最初から一人だったから』
その言葉に、和尚さまは少し驚いた様子を見せたが、すぐに悲しげな微笑みを浮かべた。
そうか、それだったら……と和尚さまは呟く。
「ここで、私と一緒に過ごさないかい?」
『!?』
願ってもない言葉だった。
僕は驚く。
そんな事を言ってくれる者など、今まで一人としていなかった。
だけど、喜んじゃだめだ。今までだってそんなことなかったじゃないか……。だけど……。
『い、……いいの……?』
上目遣いで和尚さまを見上げた。
「あぁ、お前さえ良ければね……」
困った顔で、……けれど泣きたくなるほど優しい声で、和尚さまは言った。
僕は、小さく頷く。
とても嬉しかった。思わず目頭が熱くなる。
もしかしたら、嬉しくても泪は出るのかも知れない。
『……』
あぁ、でもこれはもしかして、夢かも知れない……。いや、きっとそうだ。僕は夢を見ているのに違いない。
僕は慌ててゴシゴシと顔を掻いて、再び顔を上げた。
『……』
夢じゃない。
寝ぼけているわけでもない。
目の前の和尚さまは、優しく微笑んでいてくれる……!
たとえ夢でも、このまま覚めないで欲しい……!!
僕は、笑った。
多分、変な顔だったに違いない。
『うん……!』
ひとりぼっちだった僕は、自分を恐れない人間を見つけて、ご機嫌だった。
だけど和尚さまはこのとき少し、悲しそうに目を細めた。
僕が何者であるか……、和尚さまにはそれが分かる。
分かっていなければ、言葉を話すキツネなど、怖くて相手に出来ないはずだ。
分かっていて、僕と共にあることを選んでくれた。
「……」
和尚さまは、もう見えなくなった目で、本堂の奥を見つめた。
いつしか笑みが消える。
当然、和尚さまは人間だ。
物の怪ではない。
けれど、僕を恐れない。
正体が分かっているのにも関わらず。
そして僕を恐れない和尚さまもまた、ただの人であるはずがなかった。
☓☓☓つづく☓☓☓
続きはまた今度。
不定期配信。