表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

return

作者: 豆田 麦

 誰だって、一度は過去に戻りたいって思うだろう。戻りたい時期は人それぞれだろうけど、私はいつだって良かった。あの男から逃げられるならいつだって。


 目覚めたときには、うっすらと見覚えがある部屋にいた。開けるタイミングをいつも逃していたカーテン。小さなテーブルに転がるビール缶。吸殻が山になってる灰皿。この半年で急に黄ばんだ白い壁紙。1DKの小さな部屋にシングルベッド。私はそのベッドの端に小さく縮こまって寝ていたらしい。


 どさりと振り下ろされてきた腕に息を呑んだ。つい身構える条件反射。

 細いくせに私を殴る時には酷く太く見えたあの腕。

 だらしなく開いた口の端にはよだれの跡がついている。この顔は間違いなくあの男。

 でも、こんなにハリのある肌だった?


 小さないびきをかいているそいつの頬をおそるおそる触ろうとして、自分の指先の変化に気づいた。荒れていない指先。きれいにマニキュアされた爪。タオルケットの下の乳房は硬く、しっかりと形を保っている。


「……今、何時?」


 隣にいるそいつは、眠そうに目をこすりながら私を抱き寄せた。瞬時に強張る私を不思議そうに見つめる。どうしたの? と笑う顔。

 そう、この頃はこうやって屈託なく笑う人だった。その腕は私を優しく抱き寄せることにしか使われることはなかった。それがずっと続くものだと私が信じていた頃。


 この部屋は、八年前に私が暮らしていた部屋。


「今日はなんだかおかしいね? 疲れてるのかな。食事は外でする?」


 私を抱いたまま、額に口づける。目をなかなかあわせられない私を覗き込んで、くすりと微笑み、今度は頬に口づける。今の私の体は覚えていないはずの痛みを頬に感じる。何日も消えなかった青黒い痣はまだついていないのに。まだ覚えていないはずの恐怖が首筋の毛を逆立てていく。こんなにも優しい人だった。この優しさの記憶が、三年後の私を苦しめた。


 私が悪いのだと思った。あんなに優しい人が変わったのは私のせいだと思った。

 仕事で疲れているのに、話し掛けた私が悪いのだと思った。

 むせるような熱帯夜なのに、肩に手を触れたのが悪いのだと思った。

 店で品切れだったからといって、この人の好きな銘柄とは違うビールを買ったのが悪いのだと思った。


 だって、あんなに優しかったのだから。


『おかぁたん?』


 首に回される細い腕。小さなえくぼの出る手。おでこ同士をくっつけて私を覗き込む、形だけはあの男によく似た目の男の子。何度も抱きしめては泣いた。ごめんねと。お母さんが悪かったの。お父さんを怒らせちゃってごめんねと。


 ……あの子は? あの子はどこにいったの?






 私が過去の私に戻って半年が過ぎた。

 記憶どおりに結婚の話が進んでいく。

 特別にエリートコースを進んでるわけではないけれども、そこそこに名の通った会社に勤める男を、父も母も歓迎した。


 過去に戻れるものならば、同じ間違いは犯さない。そう思ってた。戻れるはずが無いと思っていたから。何もかも私が悪いのだと自分を責め続ける悪夢のような催眠術がとけるまでに四年かかった。

 「間違い」が私の間違いではなく、あの男の間違いなのだと私自身が認めるまでに四年の時間と、折れて曲がったままつながってしまった小指と、無数の痣が必要だった。


 映画をみたり、私の好きだった店で食事をしたり、夜景を見にドライブしたり。

 あの男は私の記憶どおりに行動している。


「ごめん、ちょっと調子悪くて」


 舌をからめながら伸ばしてきた手をそっと押さえた。何度かに一度の夜は拒絶をしてみる。我慢できないわけじゃない。まだ訪れてない未来には、もっと乱暴に扱われた。私が痛覚などもたないかのような扱い。けれど、痛みにあげる悲鳴にあの男は下世話に笑った。もうすぐ、あの未来が訪れる。その記憶が、今は優しく触れる手に寒気を起こさせる。


「ここのところよく調子が悪いね。ゆっくり休むといいよ。僕は今夜は帰ることにするから」


 こんなとき、大丈夫だからと昔の私は引きとめた。ただ、この優しい人と一緒にいたくて引き止めた。帰るよと言う直前の、ほんの一瞬の眉間の曇りを昔の私は気づきもしないで。愛しくて、まばたきする間も惜しいと思った人の仕草を私はどれだけ見逃していたのだろう。


「待って。ごめんなさい。大丈夫だから」


あの頃よりもずっと男の仕草を見逃さない私は、私の記憶どおりに行動する。






「ないないば?」


 腫れあがった目の周りをタオルで冷やしていると、まだよちよち歩きのあの子がよってきて覚えたてのいないいないばぁをしてみせてくれる。私が目を押さえているのがそう見えたんだろう。にじむ涙をタオルで拭きながら、いないいないばぁを繰り返した。






 もしかしたら。

 もしかしたら、今からあの男を変えることができるかもしれないと思った。私はあの男の喜ぶ顔みたさに何でも言うことを聞いていた。だから、今から少しずつ、私が思うようにはいかない行動をするのに慣れさせておけば、と。

 けれど、そのたびにわずかに彼の瞳にちらりと揺らめく色が私の口を封じた。その色は確かに、これから三年後には毎日のように私を怯えさせる色と同じだったから。

 強張る体をごまかして、笑顔を必死でとりつくろって、記憶どおりの挙式をあげた。


 あと、二年。あと二年このこみあげる吐き気にこらえれば、あの子に会える。


「仕事、続けたいの」


 妊娠がはっきりした時に、そう告げた。前の時は、妊娠と同時に辞めた。当然のように、何の疑問も抱かずに。けれど、今度はそんな馬鹿はしない。あの子にもう一度会えたら、今度こそすぐに逃げ出すのだ。


「……だって大変じゃないか。つわり、つらいんだろう?」

「大丈夫だから」


 そう、大丈夫。激しく打つ心臓の音が耳鳴りのように私の脳内に響く。

 大丈夫。この時にはまだ、この男は私に乱暴はしなかった。

 それでもお腹を守るようにそっと手でかばう。大丈夫。


「産まれたらどうするの?」

「いい保育園を紹介してもらえそうなの。先輩が通わせている保育園」

「君がそうしたいなら、かまわないけど……無理はするんじゃないよ。君一人の体じゃないんだから」


 そっと抱き寄せて、額に口づけて。あまりにあっけない許可に拍子抜けした私が馬鹿だった。


「ねぇ、男の子かな」

「……まだわからないわよ」

「名前考えなきゃな」

「男の子ならキャッチボールがしたいな」「女の子ならどうしよう。僕は近づく男の子みんなを蹴散らしちゃうかもね」

「ああ、ごめんね。眠いよね。今日も仕事大変だったんだろう。つらいよね。寝なくちゃ」


 毎晩繰り返される他愛の無い戯言。

 私が眠りにおちそうな瞬間を狙うように話し掛けられる。

 時にはお腹に向かって話し掛けてくる。

 我が子の誕生を待ちきれない新米パパは、日付が変わるまで張り切り続けた。


 一週間と経たずに、私は職場で倒れ、そのまま四日間の入院。退院後も安静を命じられ、仕事は辞めざるを得なかった。


「ごめんね。僕が浮かれすぎたんだよね」


 点滴を打たれながら、うとうとと眠りに落ちそうな瞬間、白くぼやけた視界の中で満足げなあの男の笑顔だけが、目の奥に焼きついた。






 大丈夫。まだ大丈夫。仕事はやめざるを得なかったけど、なんとかなる。以前の私とは違う。大丈夫だからね。お腹をさすりながらつぶやく。あと三ヶ月。そうしたら会える。







 ここのところ、あの男は帰りが遅い。前もそうだった。仕事が忙しくなった、急な出張が入った、と家にいない時間が増えてきた。前は寂しさで不安だったけれど、今はほっとする。ゆっくりと眠れる。触れられなくてすむ。なによりも怯えなくてすむ。


 ねぇ、ぼうや、今度はどうやって暮らそうか。お母さん、働かなきゃいけないから一日中は一緒にいられないけどがんばろうね。一生懸命働くから、帰ってきたらいないいないばあをして遊ぼう。今度はおかあさん泣かないで抱きしめてあげられる。


 あと少しで訪れる未来を夢見てカレンダーにチェックをいれた。医者に言われた予定日よりも四日早い日に二重丸がついている。なんで? と聞くあの男には、そんな気がするのよと答えた。


 予定通りに陣痛が始まって、予定通りに病院に行き、予定通りに産まれた。何もかも記憶の通り。看護師がまだ産湯にもつかっていない赤ん坊をお腹にのせてくれた。



「元気な女の子ですよ」



 一体どういうことなのか。お腹の上でおっぱいを探して口をぱくぱくさせている赤ん坊を見つめる。女の子。




 あの子はどこに行ったの?

 あの男によく似た形の目をもつあの子。どう考えたって、あの子にまた会うためには、あの男の子供を産むしかないと思った。だから吐き気をこらえ続けたのだ。なのに。


 赤ん坊は、かくかくとしたぎこちない動きでおっぱいを探し続けている。この子は誰なの?

 小さな、しわだらけの、透明に近いほどに細い指を、そっとつつく。きゅう、と握り締められた瞬間に、看護師に「じゃあ、きれいにしてきましょうね」と連れて行かれた。

 産湯につかった子を、また抱かせてもらう。やっぱりおっぱいを探す口に、そっとあてがう。まだお乳は出ないけど、口に含ませてみようねと言う看護師の言うとおりに。まだへたくそだけど力強く吸われて、乳房がじわっと硬くなるのを感じた。


 ああ、そう。あの子もこうやって生まれてすぐにおっぱいをふくませたっけ。懐かしい赤ん坊の匂い。壊れないように抱きしめて、ふわふわの産毛のような髪の匂いをかいだ。あの子に感じた愛しさと同じものが、胃のあたりからあふれてくるのを感じる。



 でも、でもあの子はどこに行ったの。



 二時間起きにおっぱいがほしいと泣くあの子に起こされて、おっぱいをあげておむつを換えて、あの子の泣き声でなんか一度も目を覚まさないくせに明け方になるとあの男は眠れなかったと文句を言い、その文句をぼんやりと聞き流しながら会社に送り出して。

 昼も夜もないあの子のリズムに付き合って、ぐっすりとまとめて眠る時間なんてかけらもなくて。隙をみてはうつらうつらしながら家事をした。一日の家事が終わってしまえば、時には一緒にお昼寝して。でも大体は眠るあの子をうっとりと見つめていた。寝返りを打つ姿まで愛しくて。


 あのときと同じ時間を過ごしている。この子はあの子とは違う。兄弟でも全然その子ごとで違うというけれど、こういう感じなのかしら。おっぱいを欲しがる時間が違う。飲む量が違う。でも、お腹がいっぱいになってげっぷをさせて、またすぐにうとうとするまでのほんのちょっとの時間に見せる顔がよく似てる。初めて見る世界をじっと見つめる目。何もかもを吸収するように、視野がひろがっていくのがわかる。そして私の顔を見つめ、自分を守るものとして認識し、記憶していこうとする。あの子もこうやって私を見つめた。




 もうすぐ始まるはず。もうあの男は変わりはじめている。変わった、と思ったのは最初だったからだろう。

 今ならわかる。変わったのではなく、本質を見せはじめているのだ。


 あんな思いはもういや。あの男が怒りを爆発させないように、覚えている限りの予防をした。怒らせないように先回りをした。


 まだ、かろうじて「始まって」はいない。

 疲れてそうな時は話し掛けなかった。

 暑い夜は触れないようにした。

 いつもの銘柄のビールは切らしたことはなかった。


 本当なら、あの子が生まれていれば、本当ならもう逃げ出してる予定だったのに。


 けど、まだあの子はいない。

 どうしたらいいのかわからなかった。


 もう一度妊娠したらあの子は生まれるだろうか。


 わからなくて、逃げ出すことができなくなった。




「暇だなぁ」


 私が茶碗を洗ったり、山のような洗濯をしていたり、明日の弁当の準備をしたりしている時に、寝転がって野球中継なんて見てる男が呟いた。


 この頃、赤ん坊は起きてる時間がのびてきていて、今は茶の間にひいた赤ちゃん布団で機嫌よく声をあげている。前の時もそうだった。気が向いた時は子煩悩な顔をするくせに、そうじゃなきゃまるでこの子がいないような顔をする。


「ねぇ、何か芸とかないの?」


 は? としか返せなかった。何かの冗談だと思ったから、曖昧に笑って米とぎを続けた。


「俺がヒマだっていってんだろ? なんか楽しませてよ」


 挑発するように覗き込む顔。目の奥でちかちかと黄色い光が点滅する。


 ――危険信号。


 背中に氷をいれられたみたいに、ざぁっと血の気がひき始めた。


「なんでさぁ、いっつもいっつもそんな俺の顔色うかがってるわけ?」


 クッションが、私の顔の横を通り過ぎ、壁に当って落ちた。

 凍りついた私を蔑むように、愉しそうに、笑う男がそこにいる。


 どうして。変えようとしたことは変わらない。

 どうして。あの子はいないのに。

 どうして。


 形を多少違えながら、記憶どおりの時間が始まった。







 あの男は私の友人や親にも愛想がよくて、いつでも「いいだんなさんね」と言われていた。

 私自身も「しっかり者」で通っていた。誰にも言えなかった。毎晩のように起こる出来事を。


 最初の頃は痣は外から見えないところにつけられた。真っ青になった内腿。えぐられたといえるほどの乳房についた歯型。ひねりあげられた二の腕。

 突き飛ばされて頭を打ち、目がさめたら朝だった。子どもが泣いているのに寝ているなんてと鼻で笑われた。


 真夏でもハイネックの長袖を着ている私を最初にいぶかしんだのは母だった。やがて顔にも痣がつき始め、同じ市内にいる実家にすら帰れなくなったけど、母は時折訪ねてきた。そのたびに転んだとかの言い訳。その言い訳がつきたころに、母がそっとつぶやいた。


「今の不景気にお給料をちゃんともってきてくれるいいだんなさんなんだからもっと上手くやりなさい」


 もう何をしても止まらない。会社で面白くないことがあればそれだけで理由は十分だった。包丁はすぐには見つからないところに隠してある。


 これ以上何をしろと?


 泣き叫ぶのは逆効果。黙って嵐が通り過ぎるのを待つしかない。面白くない女だとあの男が吐き捨てるまで。異常な雰囲気とあの男の怒声にあの子が泣き叫べば、なんとかしろとまた殴られた。這ってあの子の側に行き、抱きしめてあやした。お願い。泣き止んで。


 あの男がいびきをかきはじめ、あの子がやっと眠りについて、私もうとうとし始めるともう朝がきている。まだ生きていることに安堵して絶望する朝。


 男に暴力をふるわれても逃げ出さない女は馬鹿だと思っていた。自分の身に起きるまでは。逃げ出す気力すら奪われる暴力があるなんて思いもしなかった。痛みに朦朧とした意識、遠くから聞こえてくるのは罵りの言葉だけ。その世界の中で自分はその罵りの言葉どおりの人間なのだと刷り込まれた。








 たった一つの救いは、あの男はあの子に手を上げることはなかったこと。今、口の周りをケチャップだらけにして笑ってるこの子にもまだ手をあげていない。


「おかあたんのオラムイスおいちいねぇ」

「そう、よかったぁ」


 ケチャップを拭き取ろうと手を上げたとたん、肘が痛んでおしぼりを落とした。この時の痣はすぐ消えたけど、神経痛はこの先ずっと続いたのを覚えている。


 あの子もオムライスが大好きだった。四歳の誕生日に作ってねとせがまれた。私がどんなに笑ってみせても、私の側から離れられなかったあの子。いつでも私の手を握り締めて、公園で遊んでいても五分ごとに戻ってきては抱きついてきた。そのたびに涙をこらえた。あの子と同じ思いをこの子にもさせていいのだろうか。でも、四歳の誕生日にオムライスを作ってあげる約束をしたのに。



 ……誕生日?

 あの子の四歳の誕生日はまだ迎えていなかったんだっけ?

 そういえば、私の時間が巻き戻されたのは、一体いつからだっただろう。


 あの子との最後の記憶は?



 おかあたん見ててと、手を振り回した後に滑り台から滑り降りる。めくれあがるスカートなんて気にもせずにお尻で着地して、えへへと駆け寄ってきて抱きついてきた。私に似た細くて茶色い髪をかきなでると、また安心したように走ってぶらんこへ。


 顔が隠れるようにつばの広い帽子をかぶっているけど、じりじりと照りつける日差しの中に出ていけない。ハイネックの襟元から胸の谷間に汗が滑り降りていくのを感じる。木陰のベンチなら少しは暑さをしのげた。

 公園に集まる母親達は私の側にはよってこない。私も寄っていきはしない。今日は木陰を先にとることができてよかった。お日様の下でこの子を遊ばせてあげられる。木陰を先にとられていたら、また夕方にくることになってしまう。慢性と化した寝不足と体中のきしみは、陽の下で遊ぶには少しばかり辛すぎた。


 あの男が仕事に出ている昼間は、ほんの少し息のつける時間だ。

 この子も、のびのびと遊んでるように思える。あの男が家にいるときは、私のエプロンから手をはなさないようになってきていた。

 そんな様子を見ると、ざわざわと胸の中が鳥肌立つような不安に襲われる。何かが危険だと、そう感じている。

 あの男が怒り出す前兆を感じる時よりももっと大きな不安。強い危険信号。何故なのかが思い出せない。

 そんな状態の中に子どもをおいておくことが危険だってことくらいはわかっている。


 ただ、あの子がいない。激痛が走る無理やりなセックスをこれだけこなしても、妊娠はできなかった。


 早く逃げ出したい。この子のためにも私のためにも。

 でも、あとちょっと我慢したら、もしかしてあの子が帰ってくるかも、そう思うと動けなくなる。


「おかあたん?」


 不安げにのぞきこむ顔。


「もう、かえる? おかあたん、ぽんぽんいたい?」


 ほんとに私は何をしているのか。


「大丈夫。ほら、今度は何をして見せてくれるの?」

「んとねぇ、あそこのぼれるよ」


 ジャングルジムを指差すと同時に駆け出す背中を見送った。おっかなびっくり、慎重に足を鉄棒にかけていく。いつでも助けられるように足に力をこめる。昨夜、椅子の足を叩きつけられた脛が痛んだ。得意げに振り向く子に手を振って、そのまま凍りついた。



 満面の笑顔をのせたジャングルジムの向こう。

 公園の横を通る歩道。

 近くの幼稚園の制服を着た子の右側に、ジーンズ姿の母親らしき女性。その反対側には仕事を早く終えたのか、スーツ姿の父親らしき男性。

 しっかりとつながれた両手でぶらんこをして遊ぶ子。ぽんぽんとはずみながら甲高い笑い声をあげている。母親を見上げては笑い、父親を見上げては、身体をよじって嬌声をあげている。


 あの笑顔。私だけに見せていたあの笑顔が。


 どうして。




「おかあたん、おかあたん」


 私が気づくまでに何度呼びかけていたのだろう。涙をにじませて私の手をしっかりとつかんでいる。

 あの子は――あの笑顔を惜しげもなく振りまいている。つながれた手に何の疑いもなく全体重をまかせている。



 私は、何をしているの。


 今にもこぼれそうな涙をためている子の小さな体を抱き上げて走り出した。

 足も、腰も、背中も痛い。

 きしんで悲鳴をあげている。

 急がなくては。あの男が帰ってきてしまう。

 首元にしっかりとしがみつきながら私を呼ぶ子の頭をなで、ごめんねごめんねもう大丈夫だからねと囁きながら走った。



 目の奥に黄色い火花が散る。うるさい。そんなものにかまってる暇なんてないの。キッチンシンクの戸棚の天井に隠した通帳をつかんでバックの中に押し込む。


「ほら、大好きなクマちゃん、ちゃんと持ってね」


 神妙な顔をしているのは、私の行動の意味を感じ取っているのだろうか。こくんとうなずいて、毎晩一緒に寝ているぬいぐるみを抱きしめて立っている。

 いつも頭の中でシミュレーションしていたように、お金になるものを小さなボストンバックに詰め込んで。逃げ込む先は調べてある。虐待を受けた女性の避難所の住所を書いた紙も入ってる。あとはこの子の下着の換えくらいをつめこむだけ。



 どうしてあの子が見も知らぬ夫婦の子どもに生まれてきたのか。

 今まで私がしてきたことはなんだったのか。

 そんなことは今考えてる暇はない。

 私にしか見せていなかったあの笑顔を、あの子は思う存分ふりまいていた。

 そんなことを考えてる暇は、今はない。



 黄色い火花は、がんがんと頭を痛めつける。

 大丈夫。まだあの男の帰ってくる時間じゃない。

 靴のかかとを踏みつけながら、ボストンバックとぬいぐるみを抱いた子と小さな靴を抱えて。

 玄関のドアのノブに手をかけて。

 体当たりするように体でドアを開けて。


 神様の代わりに、あの男がそこに立っていた。




「どこに行くの?」


 出会ったときには安心したその笑顔に震えながら後ずさった。


「外回りでさ、近くまで来たからさ」


 あの男が一歩踏み出す。私はニ歩下がる。


「ほんと、営業は嫌だよね。取引先じゃなきゃあんなくだらない奴らに頭なんて下げなくていいのにさ」


 あの男の向こうから、鍵の閉まる音。かちゃり。


「俺がさ、そんな思いして働いてきてさ」


 抱えてた子を下ろして、背中に隠す。小さな手がシャツを握り締める感触。


「ねぇ、せっかくさぁ、愛しい妻と娘に安らぎを求めてきたってのにさ」


 伸びてくる手。後頭部に壁の冷たさ。


「何をしてるのさ」


 壁と、奴の手にはさまれる首。

 しがみついてくる細い腕をひっぱって、私の体から離そうとするのに離れない。


「何? これ。こんな通帳見たことないけど?」


 空いた片手で、バックを逆さにして中の物を床にばらまかれた。


 目の奥で散る火花は赤や青や黄色に増え、きれいに両端が持ち上がった口からこぼれる白い歯がぼやけて見えた。

 こめかみの痛みで、髪をつかんで部屋の奥に引きずり倒されたのに気づいた。倒れたままでいることの危険を本能で感じ、手足をばたつかせて立ち上がろうとする。もう、どちらが出口なのかどころか天井がどちらかなのかもわからないまま。

 肩をちぎられる痛みが走った瞬間に、ガラスの割れる音。飾り棚の中に並べられたそろいのティーカップが崩れ落ちていく音。


 目の前の床に、ゆっくりと、降ってくる、ガラスの破片が、音もなく、砕けていく。






 この光景を、知っている。


 ひきずられる食卓。

 床にちりばめられた、元はオムライスだったものの残骸。

 黄色と赤と油の光にまみれたガラスの破片。

 きっかけはもうわからない。

 いつもきっかけなんてあってないようなものだったから。

 小さなケーキの生クリームが踏みつけられる。


 音もなく、壊れていく世界の中で、あの子の叫び声だけがはっきりと聞こえた。

 いつも部屋の隅で震えていた子は、小さな体であの男にしがみついて、やめてと叫んだ。

 あんな小さな体でしがみつかれたって、あの男に何の痛みが走るだろう。

 私の体すら軽々と部屋の端までとばしてしまう男に。


 部屋の反対側に倒れる小さな体。

 私からはその顔は見えない。

 傍に行こうと這いずる私にのしかかる大きな影。


 部屋の向こうにうずくまる小さな体。

 スカートから力なくのびる細い足。


 繰り返される光景。


 窓から差し込む光の影で、あの男の白い歯だけが浮かび上がる。


「お前は、俺から離れられないんだよ」


 手に、砕け残った大きなガラスの破片が触れた。

 指の内側がぷつんと切れる。

 そのまま、その手を影に向かって振り上げる。


 ざぁっと飛び散る赤い光。

 白い歯を覗かせてた口の下に、真っ赤な口がぱっくりともう一つ。








 目覚めたときには、うっすらと見覚えがある部屋にいた。

 開けるタイミングをいつも逃していたカーテン。小さなテーブルに転がるビール缶。吸殻が山になってる灰皿。この半年で急に黄ばんだ白い壁紙。1DKの小さな部屋にシングルベッド。私はそのベッドの端に小さく縮こまって寝ていたらしい。

 どさりと振り下ろされてきた腕に息を呑んだ。つい身構える条件反射。

 細いくせに私を殴る時には酷く太く見えたあの腕。

 だらしなく開いた口の端にはよだれの跡がついている。この顔は間違いなくあの男。



 あの子たちは、どこに行ったの。

 このまま、この男が目覚める前に部屋から逃げ出せば、あの子たちはどこかで。


 でも。



「お前は、俺から離れられないんだよ」


 目の奥の黄色い火花がしつこくまたたく。


「お前は、俺から離れられないんだよ」


 鼓膜に焼きつかれた言葉ががんがんとこだましつづける。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 豆田先生さすがです
[良い点]  屑男の解像度の高さと、恐怖と希望の狭間で揺れる主人公の心情描写の見事さ。  繰り返し描写されるDV男の卑劣さと、刻まれた恐怖の描写の鮮やかさには舌を巻きました。  バタフライ・エフェクト…
[良い点] DV男は治らないし更生させる義理もない離れる一択というのがよくわかるお話… [一言] 自分の子として生まれなければ他所の子になってると知った後ならまた違う選択をするのではと希望が持てるラス…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ