愚者の石
最近改稿した時期は、2020年5月6日。
薬品の臭いが漂う薄暗い地下の研究所に、一人の女性が階段を下りて扉を開け、入室してきた。
「ヨン・ジェルマン師匠。
聞いて下さい! 実は自分は一か月後に・・・・・・って臭っ!? また換気魔方陣発動させてなかったんですかっ!?
こんな狭い密室に換気もせずに危険薬実験するなんて自殺行為です!」
少女は部屋の天井左隅に描かれている魔方陣を眺めながら、部屋の中央にてアルコールランプ上にあるフラスコとにらめっこしているローブ着の人を叱りつけた。
師匠と呼ばれた人は「ああモハンか、はいはい」と嫌味そうに返答して、摘まんでいた乳棒を魔法杖代わりに軽く振る。
すると、描かれていた魔方陣の記号の並びがひとりでに変わった。
数十秒後、この部屋の臭いが和らいだ。地下室と地上の外の空気がその魔方陣を介して入れ替え始めたのだ。
「全く師匠ったら、没頭したら自分の命も顧みず研究を続けるんですから、そのうち自分の集中力が原因で死んでしまうかもしれないんですよ?
気化する薬品を扱う時はまず換気! 鉄則です」
「集中力とは違うかわりに『好奇心猫を殺す』なんてことわざは聞くがね。
ところでモハン君はさっき何か言いそびれたみたいだね? 一か月後に・・・・・・何かあるのかい」
ああそうですね と、言って一回咳払いした少女モハンは、自分の薬指にはめられた金の指輪を、師匠に見せつけながら答える。
「一か月後に例の彼と結婚式を挙げることになりました。
式には是非、師匠も出席してくださいねっ!」
「え? いや私は『愚者の石』の実験に忙しいから無理だよ」
モハンの指輪に興味を示さない師匠のそっけない辞退に、モハンは怒鳴り散らした。
「もう本当師匠は錬金術以外のことは心底どうでもいいんですねっ!
こっちから願い下げですよ!」
しかし彼女の怒りはすぐに納まる。
「・・・・・・『愚者の石』?」
「ああこれの事だよ。
知り合いの同業者から拝み倒して借りたんだ」
首を傾げたモハンに対し、師匠は机上に置かれたバケットに被せてある白布を取り外した。
バケット内に表れたのは、濁った青と黒の色の斑点を持つ拳大の石だ。
『愚者の石』を見下ろしながら、師匠に近寄るモハンは呟いた。
「『賢者の石』の方は知っていますよ。
鉛や錫を金に変質させる能力を持ち、その粒を飲めばあらゆる病気や傷を治すどころか不老不死になれるという錬金術師達の憧れの宝ですよね。
それと何か関係でも?」
「性質・構造物質・特殊能力・作成順いろんなとこで『賢者の石』とは対照的な物だと思えば概ね合っている。
こいつは金などの完全物質を不完全物質へと変貌させ、粒を飲めば生命に危険が及ばないほどに体調がほんの少しだけ崩し、水に入れれば未知の汚れと気泡を湧かせ、湯気に入れれば奇妙な音を発し、特定の魔方陣上に置けば予測不能な効果を発揮する!
どうだ? 素晴らしいだろう!!」
先程のクールな態度が嘘みたいに豹変するように、『愚者の石』の説明を嬉々として声高々に説明する師匠に、モハンは(本当に錬金術や魔術の解説するの大好きですね)と、呆れた。
まあ彼女が呆れた理由は、師匠の態度だけではなく。
「なんですかそのふざけた能力は!? そんなゴミみたいな物に、自分達の結婚式より優先されることがどうやったって納得できません!
ってか何の用途があるんですか!? 学校や仕事を休みたい時にしか役に立たないじゃないですかっ!
他に何に使えるんですかそれっ!?」
青筋立てたモハンに、師匠は淡々と自論を口にする。
「まあ確かに仮病を本当の病気に昇華させ休暇を取るくらいしか、私もこれの用途を思いつかなかったのだがね。
だが何かの役に立つかもしれないから、この石を調べているわけでは、ないのだよ。
ただこの石にはロマンという名の謎が含まれている! 私はそれが知りたいっ!」
「つまりただの好奇心だけで研究してると・・・・・・こんな存在価値が『賢者の石』の足元にも及ばない屑を・・・・・・」
師匠は摘まんでいた乳棒を乳鉢上に置く。
「なかなか辛辣だね。
だが、この『愚者の石』にも、『賢者の石』より優れているところがある」
「・・・・・・一応聞きますけど、どんな所がですか?」
『愚者の石』を掴み、その腕を天井に向けて掲げた師匠は、テンション高めで返答する。
「ただ単に『賢者の石』は人間の下らぬ欲望を忠実に叶えるだけの分かりやすいつまらない存在だ!
だかこの石はどうだ!? 『賢者の石』よりはるかに謎のベールに包まれており、どんな反応をするのか一切の予測ができないっ!
私はこのことに胸が躍るよっ! ああ知識欲というのは偉大だ・・・・・・」
長々と説明した師匠だが、「だがね・・・・・・」と、一回ため息をついた。
ちなみにモハンは半ば放心状態で師匠の言葉を聞き流している。
「『金を不完全な物質へと変化させる』能力をこの目で直接捉えなければ『愚者の石』の真価を学べきれないと私は考えている・・・・・・。
だが、この研究所に今は金なんて高価な代物があるはずもな・・・・・・ん? 待てよ?」
「え? 師匠・・・・・・何をっ!?」
師匠はボーっとしているモハンから彼女の指輪を強引に外して奪い取った。
モハンはいきなりの事で慌てふためいて取り返そうとする。
「感謝するモハンよ!
この指輪によって、『愚者の石』の情報の闇が明かされ、ひいては我々『錬金術師』界の発展へとなるだろう!」
モハンの妨害も虚しく、金の指輪と『愚者の石』を擦り付ける師匠。
擦り付けられた金の指輪は、一瞬だけ黒く発光した後、みるみる濃い青緑色の錆らしきものに侵食される。
「あ・・・・・・ああ・・・・・・」
モハンの力ない呻き声が発される。
ほんの数秒で金だった指輪は、青緑色の物質へと完全に変貌した。
もうその指輪は金色に美しく輝くことはないだろう。
彼女は少しの間、開いた口が塞がらず、頭の中が真っ白になる。
呆然としているモハンを、師匠は無視して『愚者の石』をバケットに戻し、変色した指輪を凝視した。
「まさかこれは・・・・・・想像以上だ!
私・・・・・・いや今までの人類で、獲得どころか目撃すらもされてない正真正銘の新物質!
早速この物質の特性を調べねばっ!」
師匠は踵を返し、モハンに対し、背を向けた。そのまま別室である倉庫へと向かう。
モハンは気を取り戻した後、脳裏に彼氏が自分にプロポーズした場面が浮かび上がった。
今まで感じたことの無いひどい激昂に、彼女は表情を大きく歪め、歯を食いしばり、『愚者の石』を腕の筋が引きちぎれんばかりに力強く握りしめ、高く持ち上げ、そして・・・・・・。
「ねえ奥さん聞きました? 近所の例の事件・・・・・・」
「ええ石で殴り襲った事件の事ですわね・・・・・・被害者は変わり者の錬金術師よね?」
「まさか犯人が、穏やかで人望もあるあの娘とは・・・・・・いまだに信じられませんわ。
どうもついカッとなってやってしまったらしくて・・・・・・」
「にしても本当残念よね・・・・・・確か彼女、一か月後ぐらいに結婚式挙げるはずなのに警察に捕まるなんて・・・・・・全く何てバカなことをしでかしてしまったのかしら・・・・・・」
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