雪桜
「いってまいります。」
とある青年が愛する娘へとそう言い残し白銀の世界へと足を向けたのはもう何年も、いや、何十年も前のこと。その青年はその日から一度とて、娘の前に姿を見せることはなく。
それでも娘は青年の帰郷を信じ、今尚独り、白銀の地で青年を待ち続けている。
娘とて、本当は理解していた。あの日、青年を見送ったが最期。もうその姿を、己の瞳に映すことは叶わぬだろうことなど。そしてそれを、青年自身も理解していたであろうことも、同時に痛いほど理解していた。よって娘は、再び青年と言葉を交わすことはおろか、再び青年の姿を瞳に映すことすらも、諦める覚悟をしていたのだ。
このご時世、仕方のないことであろう、と。
だがその後何十年にも渡り娘がその地で独り青年を待つという選択をしたのは、一重に、青年をその瞳に映したかったからに他ならぬだろう。頭では現実を理解しつつも、己の心に嘘をつくことはできなかったのだ。
勿論、それが功を奏する日が来ないことなどとうの昔に娘も理解している。だが、かつて青年が己に「待つな」とは一言も言わなかったことが、娘にとっては待つ理由になり得たのだ。いつから自分はこんなにも諦め悪くなったのであろうかと思わずにはいられぬが、結局のところ、青年に逢いたいという願いが、娘をこの地から離すことを良しとしないのだ。
それに加え、娘は思う。万が一、億が一にでも青年がこの地へ帰郷する日が来たとして、ここに誰一人とて存在していなかったとしたら。それは、あまりにも悲しく、寂しいことではないかと。また、帰郷した青年を一番に出迎えるのは、最期に見送った、私自身でありたいと。
とて、帰る見込みのない青年を独り待ち続けることは、虚無と苦痛以外生み出すものが何も無いのも事実。許されたのであれば、あの日見送るなどしたくはなかったのが、娘の本音。
それもそうであろう。
愛する者を帰らぬ旅路へと見送りたいと望む者が、この世に一体幾人いるであろうか。だが世間が、時代の波が、娘の本音が表へと出ることを終ぞ、良しとしなかった。
そんな本音を隠し持ちながら笑顔で見送ることができる程、娘は強くはなかった。そのことを、娘は数十年経った今尚、後悔している。きっとあの日の自分は、とても人様に見せられるような顔ではなかったであろう、と。そう、自覚していた。
だからこそ、せめて「おかえりなさい」は笑顔で言いたいのである。
もうすぐまた、この地が彩を成す季節が来るだろう。
もう何度、青年なきこの地の白銀と彩の繰返しを見詰めてきたのか、娘はもう数えることをとうの昔に辞めている。ただいつからか、娘には白銀の季節以外の記憶がないのだ。白銀の季節以外を記憶が無い程に虚無に過ごしているのか、はたまた別の理由故か、娘には判断の仕様がない。しかしながら、そんなことなど娘本人には些かどうでも良いことであり、むしろ好都合とも思っている。
青年と過ごしした僅かな年月の中、娘が今尚忘れることの出来ぬ言葉があった。
「雪は天からの手紙である」
これは青年が心から尊敬していた、寺田寅彦氏の言葉。この言葉を良く、青年は娘へ語っていた。
「本当に素敵な言葉だろう。私が一等好きな言葉なんだ。」
と。そして青年を見送ったあの日も、青年はこの言葉を口にし、娘にこう語っていた。
「まるで、今の私と君のためにあるような言葉だな。」
と。この言葉が忘れられぬからこそ、青年をいつか届けてくれるやもしれぬこの白銀が舞い続ける日々が、娘にとっては好都合であり、同時に僅かな希望であるのだ。
娘はその僅かな希望を胸に、今も独り、白銀舞い続ける地で待ち続ける。この世の誰よりも愛している、あの青年の帰郷を。
時は春。
今は日本各地桜が見頃を迎えており、それは冬になれば一面銀世界になるであろう地も、もちろん例外ではない。
そんな季節の日本の北に位置する片田舎。田舎といってもそこは他の人里から幾らか離れ、今は人ひとり住んではないない、所詮廃村と呼ばれる地である。廃村ということも然る事乍ら、もう一つの理由により、この地は普段から一般人の立ち入りが制限されているなんとも珍しい地でもあった。
そんな地に、一人の老人が立っている。老人の目の前には廃村への入口と、雪景色。そう、これこそがこの地への立ち入りを制限している理由なのである。
かつての村民によれば、一人の娘がこの世を去って以降、季節問わず雪しか降らぬ、いわば万年雪になってしまったというのだ。何人もの学者が調査に訪れたものの原因は不明のまま。村民も気味悪がり次々移住していき、遂には今の姿になったという。そんな異常な状態故、一般人の立ち入りを制限せざるを得なかったのだ。勿論、老人はそれを承知の上できちんと許可をとり、この地を訪れてる訳だが。
同じ国内であるが最早異次元の地とも思えるこの地に、なぜ、老人が一人足を運ぶに至ったのか。それは老人が何十年も前にある青年と交わした約束という名の、自身の長寿ともいえるその生涯において最大にして最後の心残りを果たすために他ならなかった。
白銀の世界へ老人が一歩踏み込めば、老人を取り囲むのは真冬のような寒さと、静寂。まるで来訪者を拒むようなそれの中、幾らか早足で歩を進めた老人の視線の先に見えてきたのは、古びた墓石と平屋。まるで世界から取り残されたようにポツんと佇むそれが、老人の目的地である。
静かに墓前に腰を下ろすと、老人は懐から黄ばんだ一通の封筒を取り出し、そっと墓前に供えた。
この封筒に入った手紙こそ、老人がかつてある青年と交わした約束であった。
墓前に供えたその手紙。これは老人が若かりし頃、生まれ故郷から遠く離れた地である青年から託されたものであった。青年が愛していたという、一人の娘へと。
遠方の地で出会った青年は、当時の老人よりも二、三年長の、物静かな人物であった。活発な性格であった老人とは対局ではあったものの、同じ部隊であったことも相まって、行動を共にする事が多かった。
数多の言葉を交わしはしたが、専ら話題は老人の故郷か青年が尊敬していたという寺田寅彦氏。きっと、自分たちが置かれている現実を直視したくはなかったのであろう。その当時の話は、殆どすることはなかった。
だが、日々同胞たちが去りゆく中で、明日は我が身かと考えずには居られなかったのかもしれない。青年はある日一度だけ、老人に漏らしていたのだ。
「生きて帰れるなど、もう思ってはいない。だが、もし叶うものならば、私はせめて、雪の下で、眠りにつきたいと思うのだ。」
と。老人はそれを聞いた当時、死するならせめて、故郷を思わせるものと共に、との意だと思っていたが、それが間違いであると感じたのは、青年のその本音を耳にしてから幾らかも経たぬうちであった。
人は死ぬ日が誰しも決まっているという。きっと、青年のそれはその日であったのだろう。
赤に染った青年を目にした時、老人は思ったのだ。あぁ、最期の希望すら、叶わぬのだろう、と。
青年自身もきっとそれを悟った。悟ったからこそ、青年は老人に手紙を託した。もしも、青年の望み通り雪の下でその時を迎えることが出来ていたとしたら、これを託すことはなかったかもしれない。
「逢いたい。」
そのたった一言の掠れた呟きが、青年の遺した最期の言葉であった。青年の故郷である雪国にであれば、雪が溶け、桜が見頃であったかもしれない。そんな、季節のことだった。
それから数ヶ月、老人は奇跡的に帰郷を果たした。勿論、その手紙を手にして。
帰郷からというもの、老人は約束を果たすため、娘を探し求めた。ただ、数十年探し求め続けるも、見付けるには至らなかった。
理由は何も難しいものではなく、単純明快。娘の居場所を知る術を、老人は持っていなかったのである。
そも、老人は青年の故郷が何処かの雪国であるとしか聞いておらず、名も名字しか知らずに別れた。更には、唯一の手掛かりになるであろう手紙にすら、住所はおろか、娘の名前すら記載がなく。完全に八方塞がりであったのだ。
それでも老人は様々な雪国を時間の許す限り、何年も掛けて渡り歩き続けた。しかしながら、見つける事は出来ずにいたのである。
遂に老人は自身の老い先の短さを感じ、自身の孫にこれを託そうと考え口を開くに至った。この話をするのは、何十年も生きてきて初めてのことであった。だが、この話を聞かせると孫が思いもよらぬ事を口にしたのである。人里離れた所に、万年雪の村があるらしい、と。孫の話によればそこは既に廃村だと言うが、老人は確信した。
そこが、そここそが、自身の捜し求めた娘がいるであろう地であり、かつて青年もいた地であろうと。
だからこそ今、老人はこうして墓前に立っていた。直接渡すことは叶わなかったが、自身の動けるうちに、自身の手で渡しに訪れることが出来たことは奇跡だとしか言い様がない。数十年の時を経てやっと、本来の持ち主にそれを渡すことが出来たのだ。これ程までに喜ばしいことはないだろう。
老人は一度墓前に手を合わせると、静かにその場を立ち去った。青年の帰郷を待ち侘びた娘が降らせているであろうこの雪が、青年の思いを娘の元へ届けてくれることを。そして、二人が再び巡り会うことが出来たならと、願わずにはいられなかった。
その後、青年と娘が再会出来たのか否かを知るものは勿論いない。だがきっと再会出来たのだろうと、老人は信じている。
まだ雪は残っているものの、廃村のそこかしこにある桜の大木が、綺麗にその花を咲かせていたのだから。