幽霊に焦がれた女の子の話
私は小さい頃から体が弱かった。
だから、中学校にも殆ど行った事がなかった。
勿論、友達も碌になかったけど寂しくなった。
お父さんとお母さんがいつも私を可愛がってくれたからだ。
ある時、病院の担当の先生から体をきちんと治すために手術をしないかと言われた。
私は痛いのが嫌だと言った。
それでもお母さんに貴方が生きるために必要なのよと言った、
お父さんは恭子が大人になった姿が見たいんだと言って涙を零した。
私にとって彼等は世界の全てで悲しませることも失望させることも許されなかった。
そうして何時間にも亘る大規模な手術が行われた。
麻酔が効いていたから痛くなかったけど、体力がないから危うかったらしい。
それでもどうにか成功した。
お父さんとお母さんは大喜びして、先生に何度もお礼を言っていた。
私は普通に生活出来る様になると言う事よりも彼等が喜んでくれた事が嬉しかった。
その時は。
それから、苦しいリハビリが始まった。
何度もこんなことは嫌だと思ったけど、一生懸命頑張った。
こんなに根気強い子は初めてだと先生は言い、お母さんは誇らしげだった。
私はその事にほっとしていた。
お母さんとお父さんに気に入られる様ないい子でいたかったのだ。
その一月後、中学校では新学期が始まるのに合わせて私は学校に行く事になった。
久しぶり過ぎて、自分の席すら覚えていなかった。
私が困っている様子を同じクラスの子達は何故この子がいるんだろうと言う様な眼差しで見ていた。
何だか自分が綺麗に完成していた絵に突如は塗りつけられた真っ黒な絵の具になった様な気持ちになった。
決定的だったのは先生の一言だ。
「高橋は今まで体が弱くて中々学校に来られなかったが、手術が成功したおけげで普通に登校出来る様になった。皆、優しくするように。」
よく顔も覚えていなかった担任の先生である、中年の小太り男性が嗄れ声でそう言った。
クラス中の視線が剣山のように私に集まってきて、思わず俯いてしまった。
ここで私は異物だった。
それをひしひしと感じていた。
実際に皆の話がよく分からなかった。
何を言ってるのかが理解できないのだ。
私が頓珍漢な返事をして、周りの人がくすくすと笑うなんていつものことだった。
それが嫌で嫌で堪らなくて、次第に私は無口になって行った。
そんな調子で既に出来上がっていた、クラス内の人間関係に入りこむなんて無理な話だった。
音楽の時間等でペアを組む時に何時もポツンと余ってしまう自分が酷く惨めに感じた。
それに加えて、私は目立ったのだ。
体育の時間はいつも隅の方で見学をしていた。
男子にはサボってるんじゃねーよとからかわれた。
給食はアレルギーがあるから沢山残す事になった。
女子からは小食系を狙って、ぶりっこしてるんじゃないのと言われた。
病院では大事にされていた私は、
教室では仲間外れの可哀相な子供だった。
友達何人出来たのお母さんに聞かれるのも、
お父さんにこれでやっと普通の学校生活を送れるなと喜ばれるのも鬱陶しくて仕方なかった。
それでも私はいい子だから、
どれだけ学校に行く時にお腹が痛くなっても、
それが体の問題じゃないと分かっていただけに黙って学校に行った。
行きたくないと言う選択肢は私にはなかったのだ。
こうして私は体の芯から独りぼっちになった。
その妙な噂が聞こえてきたのは、私の上履きや教科書が汚され始めた時だったと思う。
何でも夜の学校に自殺してしまった女の子の幽霊が出るのだと言う。
その子は酷いいじめを受けていて、それを苦に屋上から飛び降りたのだそうだ。
その話を聞いた時に私が覚えたのは恐怖ではなく羨望だった。
こんな暗闇の中を独りで歩いている様な生活に自分でピリオドを打つなんて凄いと思ったのだ。
私は意気地無しだから、そんな勇気はなかった。
それから、まるで恋でもしたかのようにその女の子の事を一日中考える様になった。
意識していれば情報と言う物は耳に入ってくる物で、彼女の事を段々知って行った。
曰く、髪が長かったらしい。
曰く、綺麗な女の子だったらしい。
曰く、大人しくて読書が好きだったらしい。
そうして、これが一番大事なのだが彼女が屋上に出るらしいと言う事が分かった。
その情報を得た日から私は学校に夜遅くまで残るようになった。
勿論、屋上で彼女に会えるのを待ち望んでいたのだ。
お母さんには不審そうな顔をされたけれどどうでも良かった。
私は生きているお母さんより、死んでしまった女の子の方が大事だったのだ。
そうして、ある蒸し暑い夏の日私は彼女に出会った。
長い黒髪に陶器の様な肌をしたうつくしい幽霊は十年来の親友の様に私に話しかけていた。
私が輪郭があやふやな彼女にずっと会いたかったと伝えると、一瞬怪訝そうな顔をしてとても嬉しそうに笑った。
孤独が晴れた様な微笑みに引き込まれて、
名前も知らない女の子の幽霊で私の中身は一杯になった。
ああ、私と彼女は同じ種類の人間なのだと体の深い所で思った。
そこから夢中で話をした。
脂ぎった俗物な担任の先生の事。
まともな会話も出来ない低能なクラスの子達の事。
一番の理解者でありながら、何も分かってくれない無神経な両親の事。
話は汲んでも汲んでも尽きない湧水の様に湧いて来て、毎日学校に残っても足りなかった。
彼女となら夜の果てまで話し続けられそうだった。
幽霊である聡明な親友はほんの少しの間なら、私に触られた。
手を繋いで頬を寄せ合って、この時間が止まればいいと思っていた。
私は充実した生活を送る反対にどんどんやせ始めていた。
特にお母さんが不審がって、病院に連れて行こうとしたぐらいだった。
それは断固としてごめんだった。
入院してしまったら彼女に会えなくなるし、私は妙な物が見え始めていたからだった。
妙な気配を感じて振り向くと、体のひしゃげた男の人が付いて来ているなんてよくあったことだ。
夜寝苦しさを感じたと思ったら、家に居る筈もない知らない子供が上に乗っていて目があったこともあった。
彼等がこの世のものではないのは明白だった。
病院がそれらの巣窟であることは考えないでも分かった事だった。
そうして、私があんまり嫌がるものだから家まで医者の先生を母親が呼んでしまった。
先生は私が体が衰弱している事を指摘して、過去の病歴から入院を勧めた。
それから、私はあっという間にたった一週間後に病院に入院が決まった。
私が嫌だと言ったが、先生は怖い思いはしないよと言ったけれど、
彼の肩には血塗れの女の人がべったりと張り付いていたのだ。
そんな所に行くぐらいなら死んだ方がましだった。
その時、私に天啓のようなひらめきが襲った。
あのうつくしく聡明な彼女とは学校を卒業をしたら会えなくなってしまう。
私はそれが怖くて怖くて仕方がなかったけれど、ずっと一緒に居る方法が一つだけあったのだ。
結婚を申し込む男性の様にどきどきしながら、夜が暮れると彼女の元に向かった。
親友は月の様にほのかに光を放って滑らかな髪を揺らしながら、こちらを振り向いた。
切れ長の目に紅い唇が青みすら感じる雪の様な肌に映えていて、何て美しいんだろうと思った。
私は彼女にずっと傍に居させて欲しいと頼んだ。
親友は優しげに微笑んで頷いた。
嬉しくてたまらずに蜂蜜よりも甘く私の時間を止めてと囁いた。
うつくしい彼女は私に馬乗りになっていた。
仰向けに寝転んでいるから綺麗な夜空が見えて、しかしそれも親友の背景に過ぎなかった。
彼女の繊細で酷く冷たい指が体を迷うようにゆっくりと這っている。
そうして、段々と時間を掛けて上に登って行った。
首に辿り着くとそこで一度立ち止まり、
私と親友が目があった。
彼女は濁りのない澄み切った目をしていて、その事に深い満足感を感じた。
永遠にも感じたその一瞬は、私が頷いた事によって幕を下ろした。
氷の様に冷たい手がゆっくりと力が入るのを感じる。
酸欠に目眩を感じながらも視界に入った親友の顔は薄く微笑んでいた。
ああ、やっと本当に彼女の真冬の様な寂しさを埋められるのだ。
幸福感に包まれて、私は思考はそこで息途絶えた。