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不思議学園 短編集

バレンタインア・ラ・カルト

作者: 吾桜紫苑

 舞い上がるように吹く風に、スカートがふわりと広がる。直ぐに手で裾を押さえて、ふうと息をついた。


(やっぱり、スカートって好きじゃないなあ……)


 アイボリーのオフタートルセーターにふんわりとしたカプリブルーの膝上スカート、ロングブーツ。こんな格好、普段は絶対しない。基本的に私はズボン派だ、こんな可愛らしい格好なんて似合わない。

 それでもこんな格好をしているのは、今日は友人との約束だから。琴音と会う時だけは、あえてスカートと決めている。理由は、ちょっとした私達の悪戯心だ。


 約束のカフェに到着。時間は5分前だけど、琴音の事だからもう待っているだろう。


 案の定、ドアを開けると、真っ先に気付いたらしい琴音が片手を上げる。ネイビーのシャツにワインレッドのジャケット、スリムデニムにかっちりしたブーツ。片足を組む仕草さえその辺の男子より余程ハンサムな友人に、笑顔を見せて歩み寄った。


「待った?」

「いいや? 今来た所だよ」


 そんなカップルのような会話を通る声で交わせば、女子達は私へ嫉妬の視線を、男子達は琴音へ恨めしげな視線を向ける。構わず、次の言葉を放った。


「いつも早くに来てるから焦るわよ、琴音」

「そりゃあ、大事な友人を長々と待たせたくはないからね」


 最後の名前を強調する私にさらりとハンサムな事を言い切った琴音に、カフェ中の視線が琴音に集まる。いつもの事とはいえその驚愕の視線に、琴音と2人くすりと笑った。






「こうやって会うのって、琴音の転入直前以来かしら?」

「そうだね。学校で会うから、なんて会わずにいたけれど」

 注文した紅茶が届くまでにそんな会話を交わす。学校でこれ程気楽に話せる事は無い。その事にどれ程不満が募っていたのか、改めて分かった。

「これからは定期的に会おうか」

「うん、私も出来ればそれが良いかな」

 笑って頷き合う。生徒会室では割と気安く話していても、人がいると話せない事は互いの立場上どうしてもある。それを気にせず話せる場は貴重だ。


 しばらく学校での出来事を交えた雑談で盛り上がった後、本題に入る。

「それで、琴音。相談事って何?」


 この逢瀬は、琴音が相談があるとメールしてきた事が切欠だ。普段私の手なんて借りなくても何でもやってのける琴音が、一体何の相談事だろう。

 何か大変な事かなと心配の目を向ければ、何故か琴音は居心地悪そうに身動いだ。


「あ……うん。その、ね……」

 はっきりしない言葉、気恥ずかしそうな表情。そんならしくないものを見せられれば、用件は直ぐに分かった。


「哉也の事で何か悩みがあるの?」

「……っ、なんで分かるの!?」


 裏返った声が少し響く。近くの席の人がこちらを向き、琴音は顔を赤くした。


(可愛いけど……琴音、まだそうなの……?)


 どこから見ても立派な「恋する乙女」である友人に、何とも言えない気分で溜息をつく。



 琴音は先日、とうとう哉也と付き合い始めた。元々琴音はバレンタインで追い詰める、もとい告白するつもりでいたのだけれど、それより先に哉也が告白した。


 ……あのニュースはまさに驚天動地だった。翔でさえからかいの言葉すら出ずに絶句した。一体どういう流れでそうなったのだろう。春影高校ですら七不思議に入る出来事だ。


 ともかく、ようやく腹を括ったらしい哉也と琴音は付き合い始めた。学校中をひっくり返すような騒ぎにはしたくないらしく、生徒会にだけ明かしてこっそりと、だけれど。

 見事恋が実った琴音は、けれど未だに哉也の事となると人が変わるというか、可愛らしく頬を染める。いい加減慣れても良いでしょうにと、密かに呆れている。


 ……別に哉也の事で可愛くなる友人を見ているとちょっと悔しい訳ではない、と思う。



「他の事でそんな態度取らないもの。取ったらその方が心配するわよ」

「うう……咲希の意地悪……」

「そんな上目遣いで見られても」


 そういうものは哉也に向けて欲しい。あれで意外とあざといものには弱い筈だ。演技ではない心からのもの、それも琴音限定、という注釈は必須だけれど。


「それで、バレンタインなら手伝うわよ? 何作るつもりかは知らないけれど」

 気を取り直して聞いてみれば、琴音は慌てたように手を振った。

「うん、それも頼みたい事ではあるんだけどね。何作るかは……無難にチョコかな……」

「ケーキでも良いわよ、いくらでも付き合うわ。今度は早めに取りかかりましょう」

「ありがとう。……それで、ね」


 改めて居心地悪そうな態度を取り始めた琴音に、用件は他のものだと知る。


「何? 喧嘩したとか?」

「……何で最初にそれが出てくるかな」

 直ぐに半眼になった琴音に、軽く首を傾げて見せた。

「惚れ込む前はしょっちゅう言い合い勝負していたくせに何を今更。寧ろあの見事な戦いが見られない方が違和感があるのだけれど」

「……さっきから咲希が何だか意地悪」


 恨めしげに睨まれても、頬が赤くては怖くない。別に悔しくてちょっといじめた訳じゃないのだから、そんな目で見ないで欲しい。


「でも、だとするとどうしたの? デートだって何度かしてるんでしょう? 順調に」


 流石に頭が良いだけあって、2人とも見事にばれずにデートしているし、雰囲気もばっちりだったと尾行した生徒会の会計と書記である真柴先輩と高宮先輩から聞いている。……何と怖いもの知らずな先輩達だと、翔と2人戦慄した事は記憶に新しい。


「琴音……もじもじしてないで言いなさいよ、らしくもない」

「わ……分かってるってば。今日聞きたいのはね、その……」


 しばらく口の中で何事か呟いていたかと思うと、琴音は囁くような声で言った。


「ぃ……って、ど……かな」


「……ごめん、流石に聞こえない」

 耳は良い方だけど、その声量では聞こえない。人気のない静かな場所ならともかく、それなりに話し声の満ちているカフェでは無理だ。


「だから、その……、ぃ……って、どう……かな」


 更に俯いて囁く琴音の声は、蚊が鳴くよう。恥ずかしがっているのはよく分かったので、身を乗り出して耳を貸した。


「ほら、私しか聞こえないから、はっきり言って」

「だ、だからね……」

 言葉を濁した琴音は、私の目を見て観念したらしい。少し息を吸って、それでも腰を浮かせて更に距離を近くし、耳に辛うじて届く声で言った。



「……キスって、その……どうしたらいいかな」



(………………琴音さん?)



 聞こえた。相談事ははっきりした。した、のだけれど。



「……キス、したいの?」

 思わず声が漏れる。驚いていたせいか、結構な声量だった。途端、琴音が大声を出す。



「こ、声が大きいっ!」



 しん、とカフェが静まりかえった。全ての視線が集中するのが分かる。



 ひとまずと、ほぼ無意識に席に戻った。そんな私を見つめたまま、半ば腰を浮かせていた琴音が完全に凍り付く。



「…………」

「…………」



 身を乗り出したままの琴音を、無表情でじっと見返す。みるみるうちに琴音の顔が紅潮した。泣きそうな顔で、幼子のように喚く。



「……もう! 咲希の、馬鹿!!」



 完全に目一杯な様子の友人に、堪えきれずに吹き出した。






「もう……咲希なんか嫌い……」

「ごめん、つい……ふふっ、琴音ったら、凄い慌てるから……っ」


 いつでもクールな態度を崩さず、そのハンサムさで学年中の男女を魅了している友人の狼狽ぶりは、完全に私の感情処理能力を超えていた。吹き出してから結構経つのに、未だに笑いが収まらない。ちょっとお腹が痛い。


「あははっ……ふふ……ふう。ごめんなさい、あんまり琴音が可愛くて、つい」

 ようやく笑いを鎮める事に成功した私は、滲んだ涙を拭いながら謝った。

「いいんだ、咲希に相談した私が馬鹿だったんだ。珍しく声を上げて笑う理由が親友の醜態だなんて、そんな薄情な子知らない」

 ふいと横を向いていじける琴音に、今度は苦笑が漏れる。

「拗ねないでよ。私が悪かったから。ちゃんと相談、乗ります」


 私が相談の姿勢を取り直したのを見て、琴音も腹の虫を治めてくれたようだ。それを横目に琴音の発言を拾い直して、ふむと顎に指を当てる。

「キス、ねえ……小説で読んだ描写を一字一句再現しても良いけど……」

「そんな事頼んでるんじゃないってば」


 小声で慌てふためいた口調という器用な事をした琴音は、けれど失敗を踏まえ、周りには聞こえず私にははっきり聞こえる声量で言い始めた。


「その……ね? したいなあって、気持ちはあるんだけどさ……チャンスはあっても、どう切りだして良いか分かんないと言うか、下手な事言って引かれたらと言うか……」

「哉也の反応が気になって身動きが取れなくなっている、と」


 しどろもどろの説明を簡潔に纏めてみせれば、琴音は自嘲気味の笑顔を浮かべた。


「我ながら情けないというか、まさか私がこんな事で悩むとは思わなかったけどね」

(うん、それにも気付けない程自分を見失っていなくてほっとした)


 流石に思ったままは言えず、宥めるような苦笑を浮かべてみせる。


「普通だと思うわよ。相手の反応が気になって仕方ないのが恋愛ってものでしょう?」

「……うん」

「今の琴音は凄く幸せそうだし、それで良いと思う」

「……そういう事をからかうでも無く言われると、恥ずかしいんだけどな」


 微妙に目を逸らす琴音は、今度は照れている様子。なかなか見せてくれない感情表現を嬉しく思いつつ、肩をすくめた。


「ただ、まあ……取り越し苦労ね。哉也は琴音にキス迫られて固まっちゃう事はあっても、引く事は無いと思うわよ」

「……固まるかな」

「へたれだもの。迫られて固まって何も出来ないなんて真似しても何も驚かない」


 きっぱりと言い切ると、琴音はちょっと身を乗り出してきた。


「哉也はへたれじゃないよ。告白してくれた時、格好良かったし……」

「……お願いだからのろけないでよ、妹の私相手に」


 気まずさに耐えられずそう言うと、琴音は言葉に詰まる。素でのろけてしまった自覚はあるらしい。


「……ご、ごめん」

「いいえ? のろけたい気持ちも分かるわよ、普段隠してるしね」

「うう……」


 頬を赤らめて恥ずかしがる琴音に、さらりと助言をする。


「喜ばない筈は無いから、適当に誘ってみたら? 顔を見つめてキスしてって言うとか」

「そんな事……絶対嫌がられるよ」

「それは無いでしょう。どうしてそう思うのよ」


 恋愛ではへたれる哉也だけれど、お年頃の男の子だ。キスを女の子にねだられて応えない程枯れてはいまい。付き合う覚悟が出来たのなら、寧ろ我慢している可能性も——。


(——成程、それか)


 思考の過程で思い付いた考えに、確認をと琴音への問いを口に上した。

「もしかして哉也、かなり態度固いのかしら? 手を繋ぐのもぎりぎり、みたいな」

「え、何で分かるの?」

(やっぱりね……)

 驚いた顔の琴音に、改めて兄の努力を知った。


 妙に律儀な所のある哉也は、琴音にうっかり手を出す事を警戒しているのだろう。この可愛らしさで堪えているのは、ちょっと褒めても良いかもしれない。今はそれが裏目に出ている訳だけれど。


(これは……止めるべきか、背を押すべきか……)


 多分琴音はまだその辺は子供だ。古い家の跡継ぎとして大事に大事に育てられたお嬢様だから当たり前だけれど。

 それでもキスしたい、という気持ちはあるのだから、少しずつでも大人になっている筈。けど、その先はまだ早いだろう。いろいろと。


(でもなあ……ここでしない方が良い、なんて言うと、変に気持ちが塞ぐか)


 恋愛経験なんて全く無いから言い切れはしないけれど、今の琴音が気持ちを下手に抑えようとすると、態度がぎこちなくなってしまう可能性が高い。

 哉也もあれで琴音の気持ちには敏感だし、下手したら付き合って早々に関係が危機に晒されかねない。恋愛は繊細なもの、それ位は知っている。


(ま、その辺りは純粋な恋する乙女を彼女にしてしまった以上は我慢して貰いましょうか。せいぜい理性を鍛え上げられると良いわ)


 友人を取られた恨みも日頃の恨みも関係なく、ただ上手くいく事を願う友人の思いだ。面白がってなんかいない。


「大丈夫。哉也もあれで照れ屋だし、緊張してるのよ。琴音が嫌がらないかって気にしてるのね。いっそ琴音から甘えた方が、アイツもやりやすいと思うわよ」

「そ……そうかな……?」

「そうそう」

 はっきりと頷いてみせれば、琴音は素直に頷いた。

「うん……、出来るかどうか分からないけど、やってみる」

「頑張って。何度でも挑戦しなさいな」

「……途中で誤魔化しかねないのばれてるなあ……」

「そりゃあ、琴音の事ですから」


 照れたような苦笑ににっこりと笑って見せる。別に、キス出来そうな雰囲気になっては空振りするのを繰り返す哉也の苦悩を楽しみにしている訳ではない。友人が戸惑いながらも距離を縮めようとしているのを応援しているだけだ。



 話が一段落した所で、冷めてしまった紅茶に口を付ける。つられたように、琴音も紅茶を飲んだ。少しだけ訪れた、沈黙。


(うーん、どうしようかなあ……)


 実は私も相談したい事がある。けれど琴音に聞く事でもない気がして、踏み出せない。

 ここは無難な雑談でもしようかな、と思ったその時、一足早く琴音が切り出した。


「……さて、咲希も相談あるんだろ?」

「え?」

 驚いて顔を上げれば、琴音はいつもの調子を取り戻してにこりと笑う。

「見れば分かるよ、親友だもの」

「……お見それしました」


 少し冗談めかして苦笑した。高校が同じになってからどんどん考えがばれるようになっている。余り良くない事でもあるけれど、琴音なら良いかな、とも思う。


「うーん……相談、という程の事でもないのだけど。ちょっと考え事」

「それは咲希が宏に約束しておいて未だ渡していないお菓子だったりするかな?」


 紅茶を飲みつつ曖昧にぼかせば、更にずばりと切り込まれた。図星だったものだから、危うく咽せそうになる。


「し……知ってたのね」

「そりゃあ、私がいない間、宏がきっちり看病していたか確認するのも兼ねて」

(……それはつまりあの日の恥ずかしいあれこれを全て知っているという事でしょうか)

 にっこりと笑う琴音にそう聞く勇気はなく、視線を泳がせた。


 クリスマスイブに風邪を引き込んだ私は、母が家にいない事もあって琴音と「宏」——空瀬先輩の家にお世話になった。それはもう迷惑をかけたし心配もして貰ったので、お礼としてお菓子を作って渡す事になっていた。


 ……それにしてもあの2日間は、熱を出したせいかいろいろと子供じみた言動が多かった。思い返す度に恥ずかしい。気まずすぎて空瀬先輩とはしばらく会うのを避けていた。


 けれど、未だにお菓子を渡せていないのは気まずいからだけではない。それ以上に、何を作って良いのか思い付かないからだ。


「あの時はケーキ作れば良いかな、なんて思ったけれど……決めきれなくて」

「何でも良いと思うけど。宏、意外と甘いもの平気だよ」

「それでも好みあるでしょう。お礼だし、その辺りはきちんとした方が良いかなって」


 何でも食べられても、何でも良いとは思えない。お礼に相応しいものを作りたいけれど、余りぴんと来ない。そう訴えてみれば、急に琴音はとってもいい笑顔になった。


「ふふ、そうだね。咲希も宏からの誕生日プレゼント気に入っているみたいだし、しっかり宏の気に入るお菓子作りたいよね?」

「う……そうじゃないってば……」

 楽しそうな声に、首をすくめる。


 空瀬先輩が誕生日だからと唐突に差し出してきた簪は、色もデザインもとても綺麗だった。植物を模した繊細な装飾に淡色系の小さな華が咲き、所々に緑色の石が輝いている。蔦のつもりなのか同色の小さな石の付いた少し濃い緑が数筋流れて、全体的に淡い色合いを落ち着かせる役割を果たしている。

 好みに合うそれは、髪を上げる時に時折、そして今も使っている。だから、気に入っていると言えばその通りなのだけれど。


「今も使ってるしね」

「今日の服に似合うからってだけよ?」

 簪を使いたくてそれに合う服を選んではいない。そもそもスカートの数が少ない。

 けれど、琴音はとにかく私をからかう流れにしたいようだ。さっきまでの意趣返しだろうか。

「うん、今日のスカート、いかにも咲希が選びそうな色合いだものね。宏も咲希の好みを理解しているというか。宏にそういうセンスがあるなんて、私も知らなかったけど」

「それは偶然だと思うのだけど。私の好みなんて、空瀬先輩が知る訳無いじゃない。……というか、琴音が相談に乗ったと思ってた」


 空瀬先輩が一体何を考えて簪をくれたのかは未だに分からない——熱のせいで気付かなかったけれど、「そうしたいから」は答えになってない——ものの、異性への贈り物、それも装飾品を選ぶのだから、てっきり琴音に相談したと思っていた。


「うん、選んだのは宏1人だよ。どこで買えば良いかは流石に分からなかったらしくて、お店の場所訊かれたから、3つ程教えてあげた」

「3つ?」


 1つで十分だろうにと驚いて見返せば、琴音はとっても楽しそうな表情を浮かべた。紙ナプキンを1つ取って、何やら書き込んで渡してくる。


「うん、この3つ」

「どこ……、て…………」


 その店名を見た途端、一瞬思考が止まった。1つ深呼吸して、何とも言えない気分で友人を見上げる。


「琴音……あのね……」

「何かな? ああ、勿論上から順に行くようにというアドバイスも忘れなかったけど?」

(それはもう悪意と受け取られても仕方が無いわよ、琴音……)



 琴音が書き記した3つのお店のうち、1つは私が貰ったような装飾品が売られている普通のお店だ。けれど、残り2つには琴音のちょっと行きすぎた悪戯心が込められている。


 1つは、やたらキラキラとした派手派手しいお店。ストーンで大きな花を作って指輪にしてしまうようなお店だ。時々ショーウインドウの前を通り過ぎる度に、あんな大きいもの付けてて重くないのかな、と思う。

 もう1つは派手ではないけれど、こう、とっても可愛らしいものばかりを売っているお店だ。メルヘンな雰囲気とでも言えば良いのだろうか。少なくとも私は似合わない。


 琴音の書いた順番は、メルヘンなお店、派手目なお店、最後にまともなお店だった。もし空瀬先輩がそれらのお店をよく知らず、琴音の言う通りに向かったとすれば——


(それは……誰にとっても酷すぎたのではないかしら……)


 空瀬先輩が居心地悪く思ったかは分からないけれど、鉄面皮な空瀬先輩が1人お店に入ったなら、店員さんにとってもお客さんにとっても酷いと思うのは私だけだろうか。


(ま、まあ……店頭で駄目と判断して、直ぐに引き返したわよね、多分……)


 ひとまず心の平穏の為にそう思う事にした私に、琴音は尚も言葉を重ねた。

「どこに掘り出し物があるか分からないからちゃんと見て回るように、とも言ったよ」

「……何を従兄で遊んでるのよ……空瀬先輩も可哀想に」


 わざわざそんな事を言ったのか。正論ではあるけれど、この場合タチが悪いにも程がある。琴音は何か空瀬先輩に恨みでもあるのだろうか。


「私としては宏のセンスチェックも兼ねて、かな。……最初の2つのお店で選んでくるようなら、色々と考えなきゃいけないし、ね」

「? 何か言った?」


 後半の言葉だけ口の中で呟くものだから、全く聞こえなかった。「何でも無い」と言って、琴音はにこりと笑う。


「心配しなくても、何買ったかまではチェックしてないよ。お店の袋見た時点で大外れは無いと分かるから。咲希が気に入るかは宏のセンス次第、そこまでは責任取れないよ」

「…………」


 どこまでも従兄に容赦のないと言うべきか何が言いたいのかと問うべきか、束の間迷って結局沈黙を選んだ私に、琴音は立て板に水と続けた。


「でもまあ、気に入ったみたいだしよかったよね。実際咲希によく似合ってるよ。学校でも付ければ良いのに。校則で禁止されてないだろ」

「……学校では髪は下ろす派なの。いちいち上げるの面倒だし」


 何せ、朝から図体のでかい男どもと組手をやらされているのだ。当然1度帰って汗を流す私は、髪が背中半ばよりも長いお陰で乾かすのにとても時間がかかる。その上髪を結うなんて面倒だ。乾かした直後の髪を上げると妙な癖が付くから嫌だし。

 そう告げると、琴音は呆れた表情で肩をすくめる。


「咲希らしいと言えば咲希らしいけど。宏に付けてるとこ見せたげたら良いのに」

「う……学外では会わないから」


 貰った人に使っている所を見せるのは礼儀だ。分かっているけれど、機会が無い。空瀬先輩との関わりなんて、生徒会でこき使われる時に文芸部との折衝が必要になってしまった場合だけ。関係が1番ましという理由で私か琴音に仕事が回ってくるけれど、あれだけ警戒されていて1番ましというのはどうなのだろう、本当に。


 ……話が逸れてしまった。要するに、空瀬先輩と学外で会う事なんてない。つまり、簪を付けて出会う機会が無い。こればかりは仕方ないと思う。


「ふうん……じゃあ、宏にお菓子持っていく時に簪を付けていこうか」

「う……やっぱり、琴音に渡して貰うというのは……」

「却下」

「よね……」

 きっぱりと言われて、仕方なしに嘆息した。


 そこそこ人気のある空瀬先輩に学校でお菓子を渡す訳にはいかないので、渡すなら琴音経由か直接家に伺うかの2択だ。琴音に断られてしまった以上、行くしかないだろう。


 問題は、私の気分だ。


 クリスマスの後、空瀬先輩とは1度生徒会繋がりで関わった。だから顔を合わせる事への抵抗感はとうに消えているけれど、流石に先輩の家へ赴くのは少し、いやかなり気が進まない。


 しかも、その「学校で関わった件」も、気後れの原因だ。


「まあ、渡すだけだし……っふ……いいか」

(しまった……)


 言葉を結びながら、密かに冷や汗をかく。案の定というか、噛み殺しきれなかった小さな欠伸を琴音は見逃してくれなかった。きゅっと音がする勢いで、琴音の眉が寄る。


「咲ー希ー?」

「ご、ごめん。ちょっと気が抜けただけだってば」

「……ふうん。ちょっと気が抜けたら直ぐ欠伸が出てきちゃうんだ?」


 慌てて誤魔化そうとして、墓穴を掘ってしまった。直ぐに言い訳の言葉を紡ぐ。


「ちょっとだけ昨夜が遅かったの。無茶はしてないから」

「そう? じゃあこの1週間の平均睡眠時間は?」

「ええと、6.753時間」

「誰が4桁まで出せと言ったの、しかもそれ嘘でしょう」

「本当だって……」

(なんで分かるかなあ……)


 実際の計算値に+3時間しただけだ。嘘は得意なのに、どうして気付かれたのだろう。


「早朝稽古のある咲希がそんなに寝られる訳ないよ」

「ええ……それは言いがかり……寝てるわよ、ちゃんと」

「いつもは、だね?」

「……うん」


 誤魔化しはバレバレだった。琴音の言う通り、ここ1週間とある作業の為に睡眠時間を思い切り削っている。ほんの少し眠気が漂っているのは確かだ。


「クリスマスに倒れたのも睡眠不足や疲れが原因だろ。いい加減にしなさい」

「い、いえ……あの時みたいな身体の不調は全く無いし……大丈夫よ」

「咲希の大丈夫は信じちゃ駄目だって学んだ」

「う……」


 視線を泳がせれば、琴音が最強のカードを切った。


「咲希? また無茶して倒れるような事があったら、宏に説教させるよ?」

「それはやめて本当に……!」

 恐ろしい事をさらりと言い切る友人に、思わず手を合わせて頼み込む。



 私が1番苦手なのは、理論立てて自分の間違いを突きつけられる説教。そしてその分野は空瀬先輩の独壇場だ。クリスマスに先輩に諭された時も凹んだけれど、あれは先輩にとっては心配かけるな、というあくまで「諭す」ものだったと、後で思い知らされた。


 年明けにまたも生徒会に引っ張られた私は、少しばかり無茶をした。被害少なく手早く解決する為に、適当な理由を付けて他の人達を遠ざけ単独で行動したのだ。結果的には上手く行ったけれど、誤算だったのは私が危ない目に遭った事。

 誤算、と言うけれど、相手の動き次第では危ない事は分かっていた。けれど全員負傷もありえた以上、1人怪我して他の人が無事ならその方が良い、と判断した。


 けれど、確かに少し甘かったのだろう。


 偶然が重なり相手に私の動きを気付かれたせいで、少しばかり危険な目に遭った。私の意図に気付いた空瀬先輩が動いてくれなければ、状況次第では死んでいたかもしれない。

 全てが終わって私の考えも知られて。琴音は泣くし、生徒会の先輩達には叱られるし、翔や、哉也にさえ小言を貰った。けれどその印象が薄くなる位、空瀬先輩の本気の「説教」は凄かった。時間は1時間とそこそこだけれど、十分すぎた。


 ……あれは本当に思い出したくない。淡々とした口調なのにひたすら迫力があり、謝っても取り合ってくれず、心の底から反省するまで懇々と説かれた。誰かが言っていた「魔王降臨」ってこれか、と密かに納得した程だ。珍しくも本気で落ち込んだ。


 もう気持ちに整理が付いたものの、顔を合わせたら反射的に強張りそうだ。お礼を渡すのにそれもどうかという思いもあり、「何のお菓子が良いか迷っている」という言い訳に逃げている、のかもしれない。



(いや、今はそれは良くて)



 あの空恐ろしい説教はもう2度とされたくない。ここは琴音をまず引き留めないと。


「明日は稽古午前終わりだし、ちゃんと帰って寝るから。ね? だからお願い」

「……まあ、ひとまず信じようか。倒れたら宏の説教ね」

「そこは撤回してくれないのね……」

「咲希はあれ位やらないと駄目って、よく分かったからね」


 厳しい顔して言い切った琴音は、そこでふうと息を吐いた。

「脱線してしまったか。ええと、元の話は咲希のお菓子——」



「——咲希?」



 鈴が鳴る様な、淑やかで綺麗な声。驚きを上品に含ませたその声は、聞き慣れたもの。

 声の方へと顔を上げる。予想通り、そこにいたのは優美で可憐な少女。当然のように隣にいるのは、しなやかな獣を思わせる大人びた少年。少女と同じく驚きを浮かべる彼もまた、見知った顔だ。直ぐに立ち上がる。



「——こんにちは、雪音さん、龍也さん。奇遇ですね」



 そう言って微笑み、私は丁寧に一礼した。






 折角だからと、2人は同席した。琴音は初対面だったのでそれぞれ紹介している間に、2人の注文した紅茶とコーヒーが運ばれてくる。

「道場の外で会うのは初めてね」

「そうですね」


 雪音さんの言葉に頷きつつ相槌を打つと、龍也さんが苦笑する。


「何だか俺、場違いだな……席外そうか?」

「そのような事を仰らないで下さいな、お兄様。折角2人きりで外出しておりますのに」

「え」

「寧ろ今更です。席に座った瞬間から龍也さんに視線が集中していますよ」


 いつものブラコン発言に琴音が引いた声を上げかけたので、フォローも兼ねて思ったままを告げてみると、龍也さんの苦笑が更に深まった。


「本当に咲希は、見かけによらず言うよな」

「不本意ながら翔と哉也と幼い頃から関わってきたので。自己主張しないと良いように使われてしまいます」


 琴音に脇を小突かれた。目を向ければ、驚きと咎めがない交ぜになった目。


(……ああ、そっか)

「2人とも私達の関係は知ってるし、口止めもお願いしてるから大丈夫」

「そういう事なら良いけど」

 そう言って引き下がった琴音に、龍也さんが声をかけた。

「琴音も知っているんだな、2人が兄妹だって」


 「名字は嫌いなので」と有無を言わさぬ笑顔で名前呼びを強制された時には苦笑していた龍也さんだけれど、流石に哉也の素にも直ぐ慣れただけあって、もう適応している。


「咲希に秘密を持たずに済む友人がいて良かったわ」

 そう言って微笑みかけてきた雪音さんが、それにしても、と話を変える。


「咲希は普段そんな服装なのね。少し意外だわ」

「……今日は例外です。いつもは動きやすさ重視でズボンですし」

 気まずさを苦笑で誤魔化しつつ首を振った私に、雪音さんは不満げな顔をした。

「あら、咲希は可愛いのに勿体ないわ。よく似合ってるのに」

「お世辞は良いです。ズボンでいる方が性に合うので、普段はこんな格好しません」


 いろいろ巻き込まれやすい身、動き難いスカートはやはり落ち着かない。これはあくまで琴音とデートだから遊んでいるだけだ。


「お世辞ではないわ。お兄様もそう思いませんか?」

 妹に見上げられた龍也さんは、いつもの妹専用な優しい視線を向けて頷く。

「そうだね、俺もよく似合ってると思うよ。けど、こればかりは個人の好みもあるぞ?」

「それはそうですけれど……」

「ズボンが良いと言うなら、それも良いんじゃないかな。似合わない訳ではないだろう」


 龍也さんが妙に肩入れしてくれるのは、単に私と龍也さんの立場が近いからだ。互いに動きやすさを重視してしまうのは、もう避けようのない性というものだろう。


 雪音さんは白いワンピースに淡いピンクのカーディガン。下手に着ると野暮ったくなるだろうそれを上品に着こなしているのだから、流石。

 ちらりとこちらを見て苦笑する龍也さんは、黒のコーデュロイパンツに深い青のセーター、茶に近いベージュのコート。お洒落ではあるけれど、ベースは動きやすさだろう。生地に余裕があるし、硬い生地のものが無い。


 龍也さんに微苦笑を返し、雪音さんへ視線を戻す。

「スカートだと視線を集めてしまうので。人目が集まるの、好きでは無いのです」

 スカートの時の方が人目を感じる。哉也や翔、琴音のようなスルースキルは持ち合わせていない私としては、視線はない方がありがたい。そんな建前を理由としておいた。

「そう? ……その髪型だってとても素敵なのに。飾りも綺麗だわ」


 納得した上で——「お兄様」効果は絶大だった——残念そうに返してきた雪音さんの言葉に、うっと詰まった。


「いえその、学外では髪を上げる事もあるだけで——」

「で、今咲希はその飾りをくれた宏へのお礼を何にするかで悩んでるんだよね」


 全力で流そうとした私の言葉を、琴音が華麗に堰き止める。案の定驚きに目を見張る2人に、慌てて手を振った。


「お礼は別件です、昨年体調を崩した時にお世話になったので」

「体調……って、クリスマスに稽古休んでいたあれか?」

 龍也さんの言葉に頷いた。朝の稽古も休んだから、2人は知っている。

「丁度母が出張で不在でしたもので、琴音とその従兄の方が暮らしている家にお世話になりまして。看病もしていただいたので、そのお礼に」

「へえ。親切な人だね、その従兄さん」

「…………そうですね」

「…………うん、そうだね」

「え、何? その反応」


 他意なく放たれた龍也さんの言葉に、私と琴音が微妙な反応を返してしまったのは仕方ない事だと思う。空瀬先輩に親切という単語は似合わなさすぎる。


「……いえ、お気になさらず。それで、お菓子を渡す事までは決まっているのですが、何のお菓子にするかを決められずに今に至ります」

 強引に話を戻すと、雪音さんが片手を頬に当てた。

「お菓子、ねえ……沢山あるものね」

「そうなんです。それで尚更迷ってしまって」

「分かるわ。私もお兄様へのバレンタインは毎年頭を悩ませるもの」


 上品に首を傾げる雪音さんのブラコン発言はいつもの事と、私も龍也さんも表情1つ変えない。いや、龍也さんはそれで当然と思っているかもしれない。琴音はやや引き攣った表情だけれど、今度は何も言わずに流した。


「琴音はどう思う? 従兄なのでしょう?」

 雪音さんに尋ねられた琴音が軽く首を傾げる。雪音さんと同じ動作でも、こちらは妙に格好良い。

「うーん、宏の好みって分からないなあ」

「基本何でも食べる代わりに何でも感想変わらなさそうよね」

「私の作るものにはけち付けるよ」

「……それは仕方ないでしょう」

「う」


 琴音が失敗した時の料理は、先輩が何か言いたくなっても仕方がない。


「あら、琴音は料理苦手なの?」

「……鋭意努力中です」

「ふふ、頑張ってね。上手になるものよ」


 知る限り1番の料理上手な雪音さんの言葉に真面目に頷いた琴音が、ふと瞬いた。


「あ、そういえば。宏、クリーム系は甘そうな顔するけど、フルーツ系のスイーツって普通に食べるよ。ハロウィンの時の話だけど」

「へえ……甘いの苦手なのは、男の子としては珍しくないけれど」


 果物が好きというのも珍しい気がする。それにしても誰だろうか、ハロウィンのお菓子に傷みやすいクリームや果物を入れた人。


「じゃあ、フルーツパイなんてどう? タルトも良いわね」

 雪音さんが両手を合わせて出した案に、ふむと考えてみる。

「紅玉は時期終わりましたし、オレンジでしょうか。パイの方が無難ですね」


 余り好き嫌い分かれなさそうだしと頷くと、雪音さんがにこりと笑った。


「咲希、良ければレシピあげましょうか? 明日の稽古の時にでも渡すわよ」

「え……いえ、ネットで調べればいくらでも出てきますし」

 何もそこまでと慌てて手を振れば、雪音さんはあら、と目を瞬く。

「ネットに載っているレシピって、大抵パイシートを使うでしょう?」

「……パイ生地から作るのですか?」

 思わず口元を引き攣らせた私に、雪音さんは大真面目に頷いた。

「お礼の贈り物だもの、手抜きは良くないわ」


(…………面倒くさい)


 口に出したら怒られるだろう事を、心の中でぼやく。手作りか冷凍のパイシートかなんて分かる人はそうそういないのだし、どちらでも良いのに。


「レシピは明日で良いかしら?」

「ええ、お願いします。いつ作るかな……琴音、空瀬先輩の都合訊いてもらって良い?」

 友人に頼めば、何故か意外そうな顔をされた。

「あれ、宏のメアド知らないっけ」

「知る訳ないじゃない、そんなもの」


 一体どういう話の流れで空瀬先輩とメアド交換するというのか。想像も付かないし、交換した所で連絡する事もない。いや、今はある方が便利だったけれど。


「……基本家にいるからいつでも良い気もするけど、訊いておくよ」

 どうしてか呆れた顔の琴音だけれど、ひとまずOKしてくれたので良しとする。

「ありがとう、よろしくね」


 やれやれと息をつく。後は私の気分の問題だ、どうにかしよう。


「雪音さんも龍也さんも、相談に乗って下さってありがとうございました」

 居住まいを正してきちんと頭を下げる。偶然居合わせただけの知人に親身になって相談に乗ってくれる彼等は、実に人が良い。

「俺は特に何も言ってないけどな。ほとんど雪音だ」

「そんな事ありませんわお兄様。咲希も気にしないで。私は楽しかったわよ?」

「楽しかった?」


 見知らぬ人へのお菓子を考える事がどうして、と鸚鵡返しに問い返せば、雪音さんは楽しそうな笑顔で頷いた。


「だって、咲希から殿方への贈り物の相談だもの。楽しいに決まってるじゃない」

「……あはは……」


 殿方という言葉が出てくる辺りこの人もお嬢様だな、なんて現実逃避をしてしまった私は悪くないだろう。


 乾いた笑いで曖昧に誤魔化して、私達は長くなったお茶会をお開きにした。




***




 琴音を介して連絡し——琴音がアドレスを教えようとしたけれど、個人情報だからと引き留めた——、空瀬先輩に会う日はバレンタイン前の日曜となった。

 琴音に『どうせ大量にチョコを貰うのに迷惑じゃない?』と聞いたのだけど、『宏が珍しく欲しがってるんだから平気』と言ってくれたので、取り敢えず良しとした。

 更に琴音もその日都合が良いという事で、空瀬先輩にお菓子を渡しがてら琴音のバレンタイン用ガトーショコラ作りを手伝う事にした。


 連絡を取り合っている間、雪音さんに頂いたレシピに載っていた材料を買い、何度か作ってみた。レシピ通りに作れば確実に美味しいのは分かっていたし、事実その通りだったけれど、やっぱり味の工夫くらいはしたい。

 3回目で合格点のものが焼けた私は、土曜の稽古に持っていった。レシピを貰った時に——空瀬先輩へのお菓子というのは何とか隠した、雪音さんが察しの良い人で助かった——その場にいた連中に強請られたのだ。


(うん……申し出て貰った時に気付かなかった私が迂闊だった)


 渋い思いで頷いた私は、ささやかな仕返しとして琴音に連絡を入れ、試食会へ招待した。勿論、苑雷和尚の許可はしっかり取って。


 待ち合わせをして向かった滝雲寺、既に稽古を始めていた道場へと顔を出した瞬間の哉也の顔は見物だった。平静を装うか私を睨むか葛藤する様子にひとまず溜飲が下がった。


 それでもいつも通りの稽古が終わり——煩悩を振り払うべくか、誰かさんの集中力は見事なものだった——、雪音さんが用意してくれた紅茶と共に試食会を開いた。

 結果雪音さんからもOKを頂けたし、龍也さんや和尚、翔にも「美味しい」と言ってもらえた。哉也は何も言わなかったけれど、けちを付けない事こそがOKの証拠だ。


 琴音の様子から2人の関係が雪音さんと龍也さんにばれ、哉也と琴音が雪音さんにさんざんからかわれるという珍しいやりとりを挟みつつ、試食会は賑やかに過ぎた。




***




 約束の日。パイを焼き上げた私は、さて会いに行くかと身支度しようとして、ふと気付いてしまった。


(…………私服、なのよね)


 簪を付けている所を見せるべく、今日は服装もそれに合わせたものにしなければ。分かっていたつもりだけれど、ちょっと甘かった。


 私服。空瀬先輩に会いに行くのに、私服。今まで制服でしか顔を合わせなかったので、どんな格好をすべきか全く見当が付かない。クローゼットを空けたまま、私は固まった。


(程々にきちんとしていて、けど張り切りすぎていなくて、よね……面倒だなあ)


 いっそ制服にしてしまおうかと思ったけれど、日曜日に制服で彷徨いているとそれだけで人目を引きそう。

 しばらく悩んで、黒のハイネックセーターにグレーのチュニック、簪の緑と同系色のパンツを合わせた。ワンポイントとして胸元までのペンダントを下げておく。

 鏡の前に立ち、簪を使って髪を結い上げる。全身を簡単にチェックして、1つ頷く。


(さて、行くか)


 白のロングコートを上から羽織り、鞄とパイを入れた紙袋を持って、私は家を出た。






 琴音と空瀬先輩の住む家へ到着したのは、約束の時間ぴったりだった。


(クリスマス以来か……うう、やっぱり気まずいな……)


 気分が乗らないまま、そっと息を吐き出す。何と無しに髪に手をやって、ますます気が進まなくなってしまった。

 簪を貰った時、らしくもなく浮かれた自覚はあるので、先輩に付けている所を見せるのは何となく気恥ずかしい。礼儀と分かっていても、妙に照れくさいというか。


 とは言っても、今更後悔した所でどうしようもないのも事実だ。もう1度小さく息を吐いて、インターホンを押す。チャイムの音を数える事5回、低い声が答えた。

『空瀬です』

「こんにちは、香宮です」

『ああ、直ぐに行く』


 インターホンが切れる。気配が近付き、ドアが開いた。


「……こんにちは」

「……ああ」


 ……互いに、学外で出会うとどうして良いのか分からない事がとてもよく分かった瞬間だったと思う。空瀬先輩と私服で顔を合わせるのは、凄まじい違和感だ。

 空瀬先輩は来客、つまり私が来る為か、きっちりとした服装だ。黒のパンツにボーダーカットソー、ダークブルーのジャケット。細身の先輩によく似合っている。 


 ただの挨拶が妙にぎこちない事を気まずく思い、仕切り直す事にした。居住まいを正し、一礼する。


「休日の時間をお邪魔してしまい、すみません」

「いや、頼んだのは俺だ。寧ろ、わざわざ時間を掛けさせてすまない」

「……いえ、あの、お礼なので」

 確かに空瀬先輩がお菓子を要求した訳だけれど、そもそも迷惑をかけたのは私だからと慌てて首を振った。そして、そっと両手に持った紙袋を差し出す。

「その、遅くなりましたが……クリスマスは、大変お世話になりました」


 空瀬先輩は少しの間紙袋を見つめた後、そっと手を伸ばしてきた。妙に丁寧な手つきで取っ手に手をかけ、袋を受け取る。



「……ありがとう」



 …………今、空瀬先輩がお礼を言うなんてとても珍しい場面に遭遇してしまった気がする。

 空瀬先輩の謝罪とお礼は哉也クラスに珍しい、つまり基本あり得ないものだ。意外と謝罪はきちんとするのは分かっていたけれど、お礼は初めて。


 驚愕が顔に出ないよう全神経を集中させている私を余所に、いつもよりかなり低い声で稀少な単語を発した空瀬先輩は、支えていたドアを開けた。

「入れ」

「はい、お邪魔します」

 琴音との約束を知っているのだろうと、軽く一礼して家に上がる。

 靴を脱いで揃える。コートかけが目に入ったのでコートを脱ぐと、すっと取り上げられ、ハンガーに掛けられた。

「……ありがとうございます」

「……いや」

 見上げる形でお礼を言うと、空瀬先輩は一瞬目を逸らした。らしくもない仕草にまたも驚かされつつ、先輩の背中を追ってリビングへと向かう。


 予想に反して、琴音はリビングにいなかった。


「琴音は部屋ですか?」

 空瀬先輩に尋ねてみるも、先輩は首を横に振る。

「少し遅れると伝言を預かった」

「……そうですか」


 琴音が約束に遅れるなんて珍しい。不思議に思ったけれど、続く言葉に納得した。


「昨日急に香宮から連絡が入ったそうだ」

「へえ……」

 サプライズデートのようだ。何か哉也から琴音に話でもあるのだろうか。


(哉也の為のケーキ作りを哉也に邪魔されるのって、なんだかとても面白くないけれど)


 何とも言えない気分で相槌を打ち、勧められるままにソファに腰掛ける。

「コーヒーで良いか?」

「いえ、お構いなく——」

「遠慮は必要ない。気が進まないのなら出さないが」

「……では、コーヒーをお願いします」


 形ばかりの遠慮はこの先輩には必要無かった。実際来客に何も出さない事は普通ないのだしと、素直にお願いする。

 空瀬先輩は頷いて、キッチンへと姿を消した。少しして香ばしい香りが鼻を擽り、先輩がお盆を手に戻って来る。2つのカップが湯気を上らせ、小洒落た皿にはパイが2つに切り分けられて乗せられている。


(……ええと?)

「……空瀬先輩、良いのですか、それ?」

 思わず首を傾げて聞いてしまう。声にも戸惑いが出てしまった、少し反省。


 けれど無理もないと思う。パイは大きめに焼いたけれど、明日のバレンタインも考えて1人で食べきれる量にしてある。二分すれば流石に少し小さい。第一、パイを作った私が食べる意味が分からない。

 せめて表情だけはあまり変えないように礼儀正しく視線を上げれば、声に動じる事なくテーブルにコーヒーと皿を置いた先輩は、淡々と答える。


「1人で食べても仕方がないだろう」

「……はあ」


 別に1人で食べようとパイはパイじゃなかろうか、という疑問は、空瀬先輩が1人黙々とパイを食べる様子を想像する事で霧散した。成程、物凄く似合わない。


(琴音でも良いような気がするけれど、まあ同席しているのだし、良いか)

 そう結論づけて頷き、先程焼き上げたばかりのパイに手を伸ばした。


 フォークで一口切り分けて口へ運ぶ。きちんと焼き上がっていたのでほっとした。

 さて気に入って貰えただろうか、と視線を上げると、丁度こちらに目を向けたらしい空瀬先輩と目が合う。何だか妙な表情に見えて、どきりとした。


「ええと……お口に合いませんか?」

 恐る恐る尋ねてみると、空瀬先輩は瞬き1つでその不思議な表情を消し、首を振る。

「いや、美味い。香宮は菓子作りが上手いな」

 その言葉に胸を撫で下ろし、微笑を浮かべて見せた。

「ありがとうございます。でも、それ程ではないですよ」


 今回の成功は、ひとえに雪音さんのレシピのお陰だ。レシピを見れば作れる程度の腕な上に雪音さんという料理上手を知っているので、上手いと言われるのは少し抵抗がある。


「いや、ハロウィンの時の菓子も美味かった」

「……そうですか? お口に合ったのなら何よりです」


 空瀬先輩の好評価に少し驚きつつも、素直に受け止めておく。自分好みに仕上げただけだけれど、先輩の好みにも合ったという事だろう。

 ……ハロウィンのクッキーは量産優先の手抜きだったので、少し申し訳ないけれど。


「琴音が食べられるものを作れるようになったのも、香宮の指導の成果だろう」

「ああ……、まあ、琴音も熱心に頑張っていますから」


 琴音も空瀬先輩に容赦ないけれど、空瀬先輩も琴音の事では少しばかり毒舌だ。苦笑気味に友人をフォローし、ふと気になって聞いてみる。


「あの……、空瀬先輩は、琴音達の事はどう思っているのですか?」


 空瀬先輩は、哉也と相性が悪い。哉也の様に嫌っている訳ではないけれど、自分の従妹が付き合っているとなるとあまり気分は良くないのではなかろうか。


 空瀬先輩の答えは、非常に揺るぎなくかつ先輩らしいものだった。


「どうとも。俺には関係のない事だ」

「……ええ、そうですね」


 空瀬先輩は他人に期待しない。裏を返せば興味が無い。それでも哉也へ向けるものは無関心とは少し違うけれど、従妹の彼氏だからと言って何か変わる訳では無い、という事か。


(この人の動じなさは、時に助かるし時に困るなあ……)


 雪音さんや龍也さんの様に応援とまでは行かずとも、関心くらいは持って欲しいのだけれど、身勝手な意見であるのも分かっている。それ以上は何も言わなかった。



 その後、初めて先輩と議論を交わした。今までに彼特有の思考回路を垣間見て興味を持っていたけれど、大抵状況が状況——生徒会関連のトラブル中だったり、哉也とのバトルが勃発しかねなかったり——である為に本格的に聞く機会は無かった。先輩の突飛な意見が導き出される流れにとても興味があったので、この機にと意見を交わした。

 結果、私が期待した以上に空瀬先輩は頭の回転が速く、理論も筋が通っていて隙がない。反論めいた事をぶつけても動じずに自分なりの答えを返してくれる。少しでも意見を否定されたら怒り出す人に時折疲れさせられる私としては、とてもありがたかった。

 他者の意見を聞く事は、視野を広げる事にも繋がる。視界が変わる瞬間独特の心地良さを味わいつつ、会話は驚く程盛り上がった。



 議論が一段落し、空瀬先輩が空になったコーヒーカップとお皿を持っていった。お代わりを持って来てくれたので、今度はミルクを入れて頂く。


(……そして何故隣に座りました、空瀬先輩?)

 直接はしにくい問いかけは、そっと心の中で落とすに止めた。


 先程まで正面のソファに腰を下ろしていた空瀬先輩は、何故か戻ってくると隣に座った。特に距離が近い訳ではないし嫌ではないけれど、何故隣なのか不思議だ。


 そこでふと思いだしたのは学校で耳にした会話。2人でテーブルを囲む時、隣と正面どちらが良いかは人によって違うそうだ。正面から顔を見るのが気まずい人は隣、人の気配が近いのが気まずい人は正面、だった筈。でも食事の時は狭いから正面しかないよね、とクラスメイトの朱音が笑っていたのが耳に残っている。


(空瀬先輩は隣派かな……何か違和感)


 人と話す時は目を合わせる派の空瀬先輩は正面を好む気がしていたので、少し意外だ。私的には、先輩と目を合わせていると見透かされるような気持ちになるので助かるけれど。



 ぼんやりとそんな事を思いながらコーヒーを飲んでいると、ふと空瀬先輩が私の方に向き直った。視線を向けると、手が簪へと伸びてくる。


(あー……気付いたか)


 目標達成にほっとしつつも、気まずい。そんな心の葛藤はしまい込んで、儀礼的な笑みを浮かべた。

「学校では下ろしていますが、外出する時は時折使わせて頂いています」

「よく似合っている」

「……ありがとうございます」


 むず痒い感覚を辛うじて押さえ込み、微笑んでみせる。空瀬先輩も琴音の従兄だけあって、この辺りは育ちの良さを見せてくる。


「……器用に結う」


 空瀬先輩の手が、簪から髪に移った。髪型を崩さないよう、そっと編み込みをなぞる。


「髪を弄るのは結構好きなので」

 今日は、幾筋か編み込みをしてから全体を緩く編み上げて巻き、ふんわりと仕上げてみた。ストレートヘアでもそこまで重くならない便利な髪型だ。

 そう言えば、空瀬先輩もこの簪をくれた時、結構きれいに巻き上げてくれた。とてもとても意外な一面だったけれど、あれは誰に教わったのだろうか。


「空瀬先輩はどこで結い方を?」

「母が髪の長い人で、よく結っていた。見よう見まねだ」

「……器用ですね」


 見よう見まねで女の子の髪の毛を結い上げるなんて、ちょっとした技術だと思う。


「香宮の方が器用だろう」

「慣れです」


 生まれてからずっと長髪と付き合っていれば、髪を結い上げる位は出来るようになる。


「そういうものか」

 お母様が結っていらっしゃったからだろう、私の返しに空瀬先輩も納得したらしい。1つ頷いて手を引いた。そろそろちょっと気恥ずかしかったので、ほっとする。


(それにしても、琴音、遅いなあ……)


 先輩と向き合ったまま何気なく視線を動かした先の壁時計を信じるなら、約束の時間からもう1時間はオーバしている。何かあったのだろうか。

 まあ、何があっても哉也がどうにかするだろうから、心配はしていないけれど。


(心配すべきは、未だ成功していないというキスよねえ……)


 聞く限り、琴音のトライアンドエラーはもう何度か繰り返されているものの、まだ成功していないらしい。哉也もそろそろ琴音の意図には気付いているだろうに、応えてやらないとはなんてへたれな。


(そもそも、キス1つでそこまで苦労するもの?)


 恋愛経験がない私が言う資格はないかもしれないけれど、小説を読む限りキスはそこまで高い壁ではない。どこの恋人だって気楽にしているだろうし、そう難しくない筈だ。それをここまでの難関にしてしまうあの2人は凄いというか、何をしているのかというか。


 大体、キスするのはそんなに難しいだろうか。あっさり出来そうな気がするけれど。



 相手の目をじっと見つめて、静かに手を伸ばして。顔なり首筋なり、恥ずかしいなら肩にでも手をかけて、ゆっくりと顔を近づけていけば、自然、相手と顔が近付いて——



(…………顔?)



 自分の発想に物凄く引っかかるものを感じて、思考を止めて瞬く。近付く顔とは、誰の事か。



 思考の彼方に放り投げていた意識を現実に引き戻してみれば、直ぐ目の前にあるのは空瀬先輩の顔。気のせいでなければ、目を見開いて硬直している。いや、無理もないか。



「…………大変失礼致しました」



 状況を理解し、私はゆっくりと空瀬先輩から離れた。ご丁寧に頬に触れてしまっていた手もそっと離せば、先輩は瞑目して大きく息を吐き出す。珍しい。


「……いや。何があった?」

「考えたままに体が動いてしまいました」

「…………」


 流石に「どうすれば琴音が哉也にキス出来るか考えていたら、無意識に目の前にいた空瀬先輩を実験台にしていました」とは言えず、色々と端折って暈かした説明で済ませたのだけど、先輩はまた押し黙ってしまった。意味不明な説明である事は自覚している。


(やらかしたなあ……)


 どうも私は考え事をすると外の情報が一切入ってこなくなってしまう。「考え事をするのは時と場合と周囲の状況を考えろ」と言われて気を付けていたのに、よりにもよってとんでもないミスをしてしまった。



 深く反省しつつ何と無しに先輩に伸ばしていた手を開閉していると、空瀬先輩はおもむろにその手を捕らえた。壊れ物を扱うような慎重さで、そっと掬い上げるように。



「……空瀬先輩?」

 どうしたのかと声をかけるも、返事は無い。もう一方の手が袖に触れ、ゆっくりと捲り上げた時点で意図は分かったけれど。


(その件はもう時効という事にして頂けないでしょうか、十二分に反省したのでお願いですから勘弁して下さい……)

 否応なしに先日の説教を思い出し、思わず首をすくめる。


 視線の先、左腕に刻まれた1本の傷跡。先日無茶して死にかけた件のお土産だ。怪我1つで済んだ訳だし、そのうち傷跡も消えるそうだし、全く気にしていない。


 けれど、空瀬先輩は妙に神妙な様子で傷跡をなぞった。その様子が何だか気まずくて、口を開く。


「あの、先輩……自業自得なのは分かっているので——」

「もう少し早ければ、怪我も防げた」

「は……?」


 勘弁して下さい、と続けようとした言葉は、先輩の苦い声に遮られた。意味が分からず、しばし動きを止める。



「俺がもう少し早く気付いていれば、怪我させなかった」


「…………」


「……すまなかった」



 悔恨とすら取れる声でそう言う先輩に、返す言葉を失った。



 もし、なら。何の意味もない仮定だし、考えるだけ無駄な事。反省ならともかく、あの時こう動いていれば、なんて後悔はする意味がない。

 普段なら、そんな事考える必要は無いと、そう告げる。琴音が気付けなかったと落ち込んだ時も、そう言った。



 ……なのに、どうしてだろう。



 静かな謝罪に込められた重さに、返事を口に出来なかったのは。



「……空瀬、先輩」



 何か言わなければと思考ばかりが空回りする中、唇が自然と言葉を作る。傷から視線を上げた先輩の静かな瞳と向かい合い、私は口を開いて——



「ただいま! 咲希、遅くなってごめん!」



 玄関から聞こえた声と慌ただしい物音に、私は弾かれたように離れた。



 ほっとするやら惜しむやら複雑な気分を紛らわすように立ち上がった私は、リビングに飛び込んできた友人を笑顔で出迎える。

「仕方ないわよ、哉也からの呼び出しだものね。楽しめた?」

「ぅ……咲希、開口一番からかうのはどうかと思う」


 途端気まずげになった友人の初々しい反応に和みつつ、鞄からエプロンを取り出した。


「さて、早速始めますか。材料はあるのでしょう?」

「勿論。ちょっと待ってて、手洗って上着置いてくる……宏! 器具出しといて!」

「……何故俺が」

 反論を聞きもせずに階段を駆け上がって行った琴音に苦々しく呟く空瀬先輩に苦笑しつつ、軽く頭を下げる。

「すみません、どこに何があるのか分からないので、お願いしていいですか?」

「香宮が謝る必要は無い」

 溜息混じりにそう返し、空瀬先輩がソファから立ち上がった。そのまま2人でキッチンへ向かい、先輩に場所を聞きつつ必要な物を揃えて琴音を待つ。


 琴音が降りてくるのを待って、私達2人はガトーショコラ作りに専念した。そろそろ琴音のミスする所も分かってきた私は上手く琴音を誘導し、見事2度目で合格点のものを焼く事に成功した。折角だからともう1度トライさせ、作り方に慣れさせた所で完成。好意に甘えて私の分のバレンタインを作らせて貰いつつ、琴音に夕食を作らせ——作っている間それなりに迷惑をかけた空瀬先輩へのお詫びだ——料理教室は終了となった。


 そして何故か、私は夕食を共にする事となった。琴音に押し切られる形で席に着いた私は、再び先輩と討論を交わした。呆れながらも参戦した琴音を交えたそれは酷く刺激的で勉強になったけれど、楽しかったのはそれだけではなくて。


 琴音と空瀬先輩の毒舌のやりとりとか、哉也との逢瀬を追求しては空瀬先輩の無関心な態度も交えて琴音をからかった事とか、生徒会の面々の内外の印象の違いに笑った事とか。


 そんな、出逢いからはとても想像が付かない、和やかで活気のあるやりとりが。鉄面皮の割に感情豊かな空瀬先輩と細やかな感性を持つ琴音の紡ぎ出す、独特の空気が。不思議と肌に馴染んで、居心地が良くて。



 ——いつの間にか取り繕わない笑顔で笑っていた事にも気付かない程、その日の夕食は本当に楽しかった。




***




 次の日、バレンタイン当日。


(うーわー…………)


 たった今目の前で繰り広げられた喜劇に興奮気味な周囲に反して、私は内心盛大に引き攣った笑いを浮かべていた。


「いやー……派手にやらかしたね……」

「自棄でしょうけれどね……」

 やや距離を置いた後方に立つ翔の、乾いた笑いを乗せた言葉に、一応周りを気にして振り返る事なく答える。そんな事をしなくても、興奮しきったギャラリーは気付きもしないと思うけれど。


(哉也の告白の意図は予想通りだったけれど……この展開は当事者達にとっても予想外だっただろうなあ……)



 バレンタイン前に哉也が告白したのは、今日の為だった。



 いくら哉也でも流石に琴音の気持ちには気付いていたし、自分の気持ちも自覚していた。その状態で他の女子からチョコを貰う様な不誠実さもなければ、バレンタインを切欠に琴音に押し切られる形で付き合う様な格好悪い真似をする気もなかったらしい。

 だから、バレンタイン前に自分から告白して、堂々とチョコを拒否してしまおう。ただ長く騒ぎになるのも嫌だからぎりぎりまで隠す。そんなある意味とても哉也らしい、大胆な判断だったのだ。


(昨日の呼び出しは事前に琴音に説明する為、って所かな。うん、妥当ね)


 この作戦の欠点は、2人が自分達のカリスマ性を甘く見ていた、という点に尽きる。


 要するに、この2人の付き合いを認めない、信じない、という声が上がりまくったのだ。哉也のファンは激しく嫉妬し、琴音のファンは認めまいとしていた。お姉様は渡さない! という言葉は聞こえなかった事にした。多分琴音もだろう。

 カミングアウト後も哉也は延々と説明し続けていたようだし、噂を聞きつけた人達に琴音も問い詰められていた。私も事実だと保証したけれど、焼け石に水。


 不運は続き、同じタイミングで教室移動だった2人はかち合わせ、纏めて生徒達に囲まれた。数は力とはよく言ったもので、誰かが勢いで、無茶苦茶な要求を突きつけたのだ。



 ——付き合っているのだったら、キスして見せろ、と。



 当然2人は断った。そんな真似をする必要が無いだろう、何の罰ゲームだ、と。哉也の猫の皮は全く崩れていなかったけれど、この時点で随分苛立っているのは見てとれた。気持ちは分かる。

 けれど群衆は好き勝手に言い募り、ついには聞くに堪えない野次やコールが飛ぶまでになった。……心の底に燻っていた嫉妬が吹き上がる、そんな感じだった。

 当然、悪意に晒された経験がほぼ無い2人は追い詰められて言葉を失い。更にはハンサムな性格に反してこういう所は繊細な琴音が泣きそうになった所で、哉也がキレた。



 ——人を見世物にして、そんなに楽しい? 良いよ、ここまで来たらその悪ふざけに付き合おう。



 猫の皮の上からで許される限りの冷ややかな声でそう言い放つなり、哉也は人通りの多い階段前で堂々とキスをかましたのだった。

 哉也が一瞬見せた怒気と迷い無い行動に、観衆は冷水を浴びせられたかの様に静まり、次の瞬間歓声を上げた。

 そんな彼等に一瞬本気で冷たい視線を向けた哉也は、真っ赤になって絶句している琴音の手を取って、脇目もふらず階段を上って去った。向かう先は屋上だろうか。


(まあ……謝るわよね……)


 常識的に考えて、あんな真似をさせられてはかなわない。哉也もそれが分かっていたから最初は断っていたのに、許可なく強引にキスして見せたのだ。謝罪の1つや2つは必要だろう。授業なんて二の次だ、多分。


「下手に引き摺らないと良いけどな……」

「……ええ」

 翔の言葉に、頷く。一歩間違えればトラウマになりかねない出来事だった。恋愛初心者達に良くもあんな真似をさせてくれたものだ。どうしてくれよう。



「——大丈夫だろう、香宮なら」



 思考が物騒な方向に向かいかけた所で、不意に冷静な声が耳に届く。思わず顔を上げると、視線が空瀬先輩とかち合った。



「咲希? そろそろ行かないと……」

 今までのやりとりは全く耳に入らなかったらしい朱音の言葉に、はっと振り返る。

「そうね、行きましょうか」

 朱音と亜希子の後に続いて教室移動を再開する。何気なく振り返った時には、空瀬先輩はもう姿を消していた。




***




 放課後。何となく疲れた私は、堅いつぼみもまだ小さい桜並木の下へと足を伸ばした。人気のない並木道独特の静けさと閑散とした雰囲気に、ほっと息を吐き出す。


 意図せず耳に入る、興奮するクラスメイトや部活仲間達の無神経な言葉の数々とか、2人を無意識に貶める発言とか。そういうものを受け流しているだけで、妙に疲れた。


(なんだかなあ……2人の付き合いを、何であんなに言うかな)


 話題になりやすい2人組だ、とは思う。2人とも優秀だし、綺麗だし、人気者だから。ただ無邪気に騒いでいるだけならば良いのだけれど、人の心は複雑で。

 ……憧れや人気は、少しの事で妬み嫉みに変わる。あまりにも完璧で、あまりにも幸せそうだと、何かと邪魔したくなってしまう人の方が多い。



 ——そして、そんな気持ちが全く理解出来ない、訳では無くて。



(はあ……結局は、自己嫌悪よね……)

 琴音が傷付いていると分かっていても尚、彼等の気持ちが理解、いや、共感出来てしまう事への自己嫌悪が、何よりも神経をすり減らした。



 並木道の1番奥、一際大きな桜の木の前へ辿り着く直前で、私は足を止めた。桜の木の真下に先客がいたのだ。少し意外で、軽く息を吸い込む。



「——こんばんは、空瀬先輩」



 既に辺りはかなり暗い。夜闇に溶け込むように佇んでいた空瀬先輩は、私の挨拶に1つ頷いた。僅かにその眉が寄る。


「……平気なのか」


 質問の意図が分からず、首を傾げた。それを見た空瀬先輩の眉が、また少し寄る。


「つい最近危険な目に遭っているのに、ここにいて平気なのか」

「……いえ、自業自得ですし……」

 質問の意図が分かった私は、曖昧に言葉を暈かした。


 この場所は、先日私が怪我した場所だ。先輩の問いは死にかけた場所にいて平気なのか、と言う意味だったのだ。

 怪我はどこででもする。第一自分のミスで怪我したのだから、自省はしても他の感情なんて持ちようが無い。


「……そうか」

 小さく頷いて、空瀬先輩は桜の根元から歩いてくる。靴裏と砂が擦れ合う小さな音さえ耳に届くこの場所に、空瀬先輩の声がはっきりと空気を震わせた。



「——琴音と香宮も、同じだろう」



「え?」

 見上げた先、先輩は私の瞳を真っ直ぐ見据えて、静かに言葉を紡いでいく。

「あの2人も、自分の選択の結果を引き摺るような真似はしない。今日の出来事も今ある口さがない声も、きちんと受け止めて向き合うだろう」

「…………」

「それに、あの2人は他者の声や視線に萎縮しない。特に香宮は、強い。逃げる事はないだろうし、悪意も撥ね除けるだろう」

「……空瀬先輩のように、ですか」

 何と言って良いか分からずそう相槌を打つと、空瀬先輩は軽く頷く。

「香宮も、だろう。俺達と香宮の強さは、別物だが」


 そう返す先輩の声や瞳に、含みはない。ただそう思っているだけと分かるその様に、肯定を思わせる微笑で誤魔化した。


(本当に……そうだったら、いいのにね……)


「……そうですね。哉也と琴音なら、何があっても大丈夫でしょう」


 何にも屈さず己を徹す哉也、優しく真っ直ぐな琴音。この2人がきちんと心を通わせている限り、大抵の事は何とかするだろう。そう思えて、少し心が軽くなった。


(うん、大丈夫)


 2人だけでは厳しくても、龍也さんも雪音さんも2人を応援すると言ってくれた。そして空瀬先輩も、必要ならば手を貸してくれるだろう。翔は言わずもがな。



 ——こんなに強い人達が琴音達の味方なのだから、大丈夫。



 そう思えば、今日1日味わった不愉快な思いも、すっと流れて消えていった。ほっと息を吐きだしたその時、空瀬先輩に腕を掴まれる。


 その時、ようやく気付いた。空瀬先輩は鞄は持っているけれど、チョコを入れるような袋を持っていない。ハロウィンの時を考えれば、大きな袋を持っていて然るべきなのに。冬とは言えまさか部室に置いてきた訳ではないだろうし、どうしたのだろう。

 内心首を傾げるも、目下の問題はいきなり腕を取られた事だ。戸惑いつつ顔を上げると、空瀬先輩は妙に強張った顔をしている。


「……どうしました?」


 困惑を乗せた私の声に、空瀬先輩は我に返ったように見えた。1つ大きく深呼吸して、手を離してくれる。


「……いや、すまない。…………何でもない」

「……そうですか」


 よく分からない言葉に中途半端な相槌を打つ。けれど取り敢えずは問題無いかと判断して、ささやかな好奇心を満たしてみる事にした。



「空瀬先輩、チョコはどうしたのですか? 先輩が0とは思えませんが……」



 池上先輩と同じく捨てる事にしたのだろうか、なんて少し先輩に対して不名誉かもしれない事を考えつつ尋ねてみれば、予想に反して沈黙が返ってきた。

(……え、何その反応)

 先輩の事だ、それが例えどんな答えであろうと即答で返ってくると思ったからこそ、聞いたのに。


 ……沈黙と、どこか居心地の悪い眼差しなんて、予想も期待もしていなかった。


(困ったなあ……)


 答え難い事を聞いて会話を途切れさせるつもりはなかったし、こんな真顔で見つめられるような事を言ったつもりもない。チョコの処理について軽い気持ちで訊いただけだ。

 まあ多分、何かが先輩の気に障ったのだろう。時々私はこの失敗をしてしまう。


「……ええと、すみません。無理に答えていただかなくても——」

 気まずさに耐えきれず、無理矢理話題を終わらせてしまおうとした私の言葉を遮り、空瀬先輩は低い声を発した。



「——貰う意味が、ない。欲しいと思わない。そう言って、全て断った」



「……え」

 まさかの全面拒絶を敢行したらしい。ぎょっとして先輩の顔を見返すも、どこまでもいつも通りの鉄面皮だった。冗談ではないみたいだ。


(それはまた、何というか……)


 色々と混乱を引き起こしそうな発言だ。今は哉也と琴音のカップル成立で盛り上がっているからそうでもないけれど、じわじわと波紋を広げそうな行動である。

 池上先輩ですら一応は受け取るようなのに。一体何が先輩をそんな暴挙に駆り立てたのだろうか。


 その時、ふっと哉也を思い出す。アイツが今日チョコを断った理由は——


「もしかして……誰か、心に定めた人がいるのですか?」


 この空瀬先輩と恋愛の組み合わせは凄まじい違和感を覚えるものの、先輩も一応年頃の男子高校生。誰かに惚れた所でおかしくない、のだろう、多分きっとおそらく。


 ちょっと苦しいなあと思いつつ見上げてみれば、空瀬先輩は1度ゆっくりと瞬いた。何となく肯定のように思えたので、更に驚く。


(貴戸先輩あたり、かな……うーん、何だか羨ましいような)


 付き合ってはいないだろう。それなら琴音が気付かない筈がない。つまり相手に想いを告げる前にも関わらず筋を通した、という事だ。そこまで異性に想われるのは女として幸せな事で、ずっと空瀬先輩への想いを心に抱いている貴戸先輩としては嬉しい事だろう。



 ……何となく、少し羨ましい、気がする。何が、と聞かれると、困るのだけれど。



 曖昧な感情を処理しきれないまま、私は笑みを浮かべて見せた。

「私は誰にも言いませんので、安心して下さい」

「……別に、隠す気はないが。それに……これは、俺の自己満足だ」

「……? 琴音が納得していた事を考えれば、哉也の行動も自己満足ではありませんし。貴戸先輩も喜ぶでしょうから、空瀬先輩の行動も自己満足ではないと思います」


 哉也の行動もそれなりに評価しているだろうに、何故自己満足という言葉が出てくるのか。困惑しつつそう返せば、珍しく空瀬先輩がはっきりと顔を顰める。


「何故貴戸が出てくる」

「あ、すみません。勝手な想像です」


 勘ぐられた事を不快に思われたと悟り、謝った。空瀬先輩が溜息を漏らす。


「……貴戸の感情は、気付いているが。応える気はない」


 漏らされた本音に、返答に窮した。そんな事を知らされてどうすれば良いのか。可哀想と詰るのもまるきりおかしいし、本人に言ってあげてはと言うのもどうかと思う。


「……そうですか」


 結局そんな相槌に逃げ込んだ私に、空瀬先輩は僅かに瞳を揺らした。少し待っても何も言わないので、私は一礼する。

「すみません、この後用事ですので、そろそろ失礼します」


 何となく踏み込みすぎてしまった感があるので、返事も待たずに踵を返した。ここは撤退がベストだ、あまり他人と深く関わるのは柄じゃない。


 そのまま歩き出そうとした私の背中に、空瀬先輩が声をかけてきた。



「香宮。琴音から伝言だ。また夕食を共にしたいと」



 振り返ると、空瀬先輩はいつもの先輩に戻っていた。今更な伝言とその内容に戸惑い、中途半端に振り返って言葉を返す。


「いえ、あの……琴音の料理指導なら、いつでも喜んでしますが……食事まで御一緒するのは、空瀬先輩に迷惑では?」

「いや」


 今度こそ即答だった。きっぱりとした返事に思わず少し目を見張ってしまうも、先輩は動じずに続ける。



「香宮が夕食に同席しても、迷惑とは思わない。先週末の食事、俺は……楽しかった」


「…………」



 意図せず一致した主観に、言葉に詰まる。


 私も、日曜は楽しかった。琴音と、空瀬先輩と、私と。議論も雑談も、素直に楽しめた。琴音が楽しんでいたのは表情で分かったけれど、空瀬先輩までそうとは思わなかった。



(……少し、嬉しい、かな)



 不愉快に思われなかった事も、迷惑じゃないと言ってもらえた事も。例えそれが琴音の使い走りじみたものの為だとしても——実際、ここで迷惑だと言って琴音の誘いを台無しにする真似はすまい——、楽しかったという言葉は、嬉しいと思った。



「……私も、楽しかった、です」



 だからだろう、こんな言葉が口から飛び出てしまったのは。



「機会があれば、また……お邪魔させて、頂きます」



 体ごと向き直り、頷いてしまったのは。



「ああ。……いつでも、待っている」



 そんな図々しさに不愉快な表情1つ見せずにそう言ってくれた先輩に、自然と笑みがこぼれる。

「ありがとうございます。……では」

「ああ」



 今度こそ返ってきた返事にまた笑みを返して、私は桜から離れた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 短編投稿、お疲れ様です(^^) 楽しく読ませていただきました。 恋愛する女の子らしい葛藤がよく伝わりました。思わずキュンとしますねー(笑) ラストの空瀬先輩、切ない感じがまたいいですね…
2014/02/14 22:58 退会済み
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