『刹那の灰』【掌編・サスペンス】
『刹那の灰』作:山田文公社
魚屋に火を放つ、ごうごうと燃え上がる様子を笑いながら見ていた。小気味よく木材が爆ぜる音がする。これが聞きたいがために火を放ったのだ。赤く燃えさかる炎が肌を焼く、燃えさかる家を見ながらむせび泣く店主。もうじきガスに引火する。轟音が焼け朽ちる建物を吹き飛ばす。
魚屋の家族が互いの肩を抱き合いながら泣いている。押し込められた嗜虐心が満たされていく。もっと泣け、もっと苦しめ。その一つ、どの瞬間すら見逃すつもりはない。その苦しみこそが生の苦しみなのだ。もっと泣け、もっと叫べ。全てが燃え終わる瞬間まで魚屋の家族を眺めていた。
その日はとても枕を高くして眠れる事ができた。
夢を見た。それはまだ幼い頃の夢だった。初めて落ち葉を集めて火を放った時の夢だった。小さな煙を上げながら燃え上がる炎に魅せられた私は、その日の内に近所の放置された犬小屋に火を放った。燃え上がる炎を眺め、焼け落ちる匂いが鼻腔の奥を突き上げてる。それが異常な快感を誘う。犬小屋の近くの犬が半狂乱で吠え喚いている。鎖が短くて小屋から離れられないから、犬の肌を炎が焼いている。後日犬小屋の主人の犬を悼む姿と、燃えた小屋の哀れさに心が躍った。
目が覚めると、いつもと同じ時間であった。スーツに着替えて電車に乗り込み仕事へと向かう。通勤途中に魚屋が見える。黒く焦げた焼け跡がなんとも興奮を誘った。就業時間にはかなりの余裕があるので、沸き立つ欲望を抑えるためにトイレに向かい個室へと入る。昨日の光景を思い出しながら、興奮を頂点へと導いた。汚れたティッシュをトイレに流して、私はいつも通り出勤した。少しずれた眼鏡を直し、会社へと向かった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
会社の受付嬢は恐らく私に気があるのだろう、時折色目のようなものを感じる。私の好みでは無いのだが、さぞ良く燃えあがりそうな脂がのっているのを見て、すこし心が満たされた。しかし痕跡を残すような真似はしない。彼女が孤児で身よりも無く知人も居ないのであれば、存分に燃やしてやるのだが、そう言う訳にもいかない。
いつの間にか、ずれた眼鏡を直しながらエレベーターが来るのを待った。
デスクに着くと、ロースト強めのエスプレッソの入ったコップが置かれていた。
「おはようございます主任」
「おはよう、今日はレノバーズのハイローストのエスプレッソだね」
「はい、主任はハイローストがお好きだと聞いたので、探して選んでみました」
「結構、助かるよ」
「はい、ありがとうございます」
真っ黒なカップから匂いたつ焦げた香りが体の芯に響いた。肺いっぱいに吸い込む香りにしばらく酔いしれた。ずれた眼鏡を直しながら、カップのコーヒーを飲み干してから業務に取りかかった。
仕事が終わり帰宅する途中に黒くて髪の長い長身の女を見た。私は彼女の跡をつけた。そして人通りの少ない土手で彼女を土手から突き落として、転がり落ちた所で髪の毛を掴んで、橋脚の下まで引きずった。抵抗し騒いでいるが、痛みに耐えられないのか無抵抗に近かった。そして体を折り曲げている彼女に、燃料をかけてから火を放った。狂乱しながら声をあげ暴れ始めた。想像した通りまるで生きたろうそくのように暴れた。火を放たれた人間は、まず全身の痛みと炎で狂乱状態になる。そして炎はやがて肺を生きたまま焼き始め、その痛みは呼吸するたびに、まるで肺の中にガラス片が入ったようになる。しばらくすると皮膚の脂が沸騰しはじめる。本来なら苦痛で意識を失うのだが、焼かている場合刺激により気絶できない。全身の脂が燃えて沸き立ち、肺が燃え酸欠状態になり、全身痛みに襲われながら、窒息して死ぬのだ。
やがて彼女は倒れて消し炭となった。辺りには脂の焦げた匂いが漂っていた。私は全身に行き渡るように、その匂いを肺いっぱいに吸い込んで、その場を跡にした。
さすがに人を燃やした跡はしばらくおとなしくしなくてはならない。町全体をシュミュレーション出来るゲームで通行人に火炎瓶を投げつけて燃やして楽しんだ。
そして気がつくと眠りについていた。気がつくと部屋の電気が消えていた。消した覚えはないのだが、部屋の照明もテレビの電源も消えていた。外が妙に明るい事に気づく。見ると階下から火の手が上がっていた
私は慌てて服を着替えて外に出ようとしたのだが、玄関が開かなかった。携帯を取り出し警察にかけたのだが、携帯は使える様子はなかった。他の窓から外を覗くと、町のあちらこちらから火の手が上がっていた。慌てて引き出しを開け捨て、いつか買った品を探す。
幾つかの引き出しを開け終わった時、目的の物を見つけた。ラジオについたハンドルを回して、スイッチを入れた。ニュースが流れ始めると、予想通り、大規模な地震がおきたそうだ。
つまり地震が起きた為に出火し、電気は消え、恐らくは建物がゆがみ出られなくなったのだ。隣のマンションからなら脱出できるはずなので、装備を調えてからベランダへと向かおうとしていた。荷物は多少かさばる事になったが、必要最低現の物を持参した。
ベランダの細い場所に足をかけて隣のマンションに移るために進んだ。もう少しで隣のべらんだに手が届きそうなところを、足を滑らして落ちた。体が落下していくなか、急にどこかに捕まった。よく見るとリュックの余った紐が落ちるのを止めてくれた。
ベランダの石壁に手をかけてベランダの中へと入ると、ベランダの向こうは燃え広がっていた。
そして私がベランダに入った瞬間にガラスが飛び散るように割れて、私の全身に突き刺さった。眼球に猛烈な痛みを感じて何も見えなくなった。暗闇のなか全身が痛んだ。そして恐る恐る手を眼の場所へと触れないように近づけると、眼のまわりに大量の突起がはえていた。そして高温で物が燃える匂いと、全身を炙るような炎がベランダへと漏れ出てくる。吸い込む空気は熱を帯びて乾ききっていた。全身から汗が噴き出してくる。
助けを求めようと肺に空気を入れた瞬間、全身が焼かれた。炎が飛び出してきたのだろう、呼吸が突然できなくなった。肺が焼かれたのだ。もう呼吸は叶わない。肺は酸素を求めて動く度に、形容しがたい激痛に襲われた。
全身が燃えていくのが分かった。服の焦げる匂いから、全身の皮が燃えていく匂いまで、もう匂える鼻が燃えてしまった。
最後に燃えるのが自分だとは、予想していなかった。何もかもが燃えていく。炎に焼かれていく。
そして最後に、燃え尽くし終わった、ただ残るのは灰だった。消し炭の山にフレームの焦げた眼鏡が落ちていた。
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