あなたに届け、この言葉
病院が長引いて帰宅ラッシュの時間に重なってしまった。さて、こんな日は席が空いているだろうか。やがて電車がくることを告げる予告音がホームに鳴り響き、滑り込むように電車がホームに入ってくる。乗客が降りたら一斉に乗り込んでいく。
老齢の五十嵐大蔵は杖をつきながら、混雑したホームをゆっくりと亀のような足取りで歩みを進めた。自分だけ時間がゆっくり流れているような感覚になる。
電車の中は席は埋まっていたが、わりと空いていた。しかしこの駅で満員電車となってしまうようだ。大蔵は奥へ奥へと追いやられ、優先席の前で立ち止まった。
椅子は優先席も含めて全て埋まっていた。手前の席では足を大きく広げる若いサラリーマンと思しき男性。スマホを触って周りを見ていない。大蔵が近づいても気づかなかった。
……いや、気づいていないふりをしているだけだ。スマホを見てはちらりと大蔵の足元を見てくる。ここは優先席、本来は年寄りに譲ってほしいものだが……そんなことを顔にも態度にも出しては厄介なことに巻き込まれる。経験がそういっている。
人から善意を求めるのは望ましいことではない。
吊革と杖でバランスを保つ。
と、スマホから顔をあげ男性は首を回した。その拍子に大蔵の目を確かに見た。睨みつけた。
「ち、なんだよ。何が言いたいんだよ爺さん」
爺さん。その言葉は確かに自分に向けられている。
「え? いや、なにも」
「さっきからここを譲れってジロジロと」
「そんなつもりは」
大蔵は若い男性を前にたじろぐ。思っていたといえば嘘になるが、この男性が座りたい気持ちもわからなくはない。
「譲ればいいんだろ? 譲れば。はーあ!」
ゆっくりのんびり立ち上がって、いやそうな顔で席を譲った。
「仕事もしねーで座らせてもらえるなんてまじ老害かよ」
──老害かよ。
そして男性は声を小さくして言った。
「どうせなんもできねーくせに」
──なんもできねーくせに。
「ちょっとあんた、何言ってるの? お爺さんに謝りなさい!」
話を聞いていたのか隣にいた中年の女性が声を荒げた。
「はあ? 何も言ってねーし、むしろ優先席譲っただけだし」
「言ったわよ! この耳で聞いた! 謝りなさい!」
車内がざわつく。多くの視線がこちらに注がれる。なにがあった? 面倒臭いことが起こったみたいだ、人々の目に様々なの色が映る。
「ま、まあまあ」
間を割って入って止めたのは大蔵本人だった。
「お兄さん、席を譲ってくれてありがとう。奥さんもお気遣いありがとう。でも、言われたことは……」
大蔵は乾いた顔に皺を寄せた。
何もできないことは。
「事実ですから」
電車で通う距離にある、通院中の病院。その帰りに、駅の本屋に立ち寄るのが癖だ。
そして、単行本と文庫本のコーナーに行っては本の背表紙を追うのも癖になっている。
とくに買う目的があるのではない。あるものが棚に並んでいないかを確かめているのだった……。しかし自分の探すものはなかった。書店は古くて人気のないものはすぐに店頭に置かなくなるから、仕方ないか。
やっぱりここに『自分の本』はない。
五十嵐大蔵は、作家だった。
昔から大蔵にとって作品を書くことは、息を吸うのと同じことだった。そしてまだ若い頃、ついにはあの有名な芥川賞をとって人気作家にまで躍り出た。しかし人気は一時のもので、時代の流れに追いつくことができず、売上は下り坂となった。華々しい功績を飾ったその作品さえも今は書店で見かけない。
作家だけで食べていくことはできず、食い扶持をもとうと会社に就職したものの、経験なしの中途はなかなか採用されなかった。運良く拾ってくれた会社で働きながら細々と作品を書いていたが、定年となり退職後、脳卒中となって倒れてしまった。発見が遅れたせいで運悪く後遺症として手足に不自由が生まれ、ペンを持つと小刻みに震えるなどの障害が残り、作品が書けなくなった。
このころにはパソコンで書くことが主流となっており、パソコンで書くという手段もあったが、作品の発想も思い浮かばなくなったため、作家として活動するには引き時だと悟った。今はまだ動けるが、病気を患い余命宣告までされている。
もう本屋には用はない。帰ろう。
単行本コーナーから出口への最短ルートである資格・転職コーナーへ歩いていくところだった。
ふと、立ち読みしている青年に目が止まった。
まだ二十代前半だろう。汚れのないスーツをぴっちりと着て靴も時計も綺麗だ。幼な顔が残っているところから見ると、社会人一年目といったところだろうか。
ああ、若いとは希望がある。それに比べて自分は……。この人はどんな未来を描き、どんな人生を歩むのだろう。そんなことを想像しながら、思わず目に入った。
読んでいる本は……『転職の仕方』。
転職か。これからの自分と向き合っているのだろう。これからのこの青年の未来は長い。希望に満ち溢れている。
しかしなぜだろう。
なぜあの青年は濁った瞳をしているのだろう。
大蔵の観察眼は気になった。
青年の前の平台には他にも本が載っている。大蔵は心の中でタイトルを読んだ。
『上司との付き合い方』
『自己肯定感を上げるには』
もしかしてこの青年は、上司との関係につまずきを感じていてそれで……。
「あの」
青年がこっちを見ていた。
大蔵ははっとした。自分のやっていたことに後悔し、体中が熱くなる。自分は人の悩みを本から詮索していたのだ。
「いや、すまない」
思わず、こぼれる言葉。
すると、青年は持っていた本を平台に置き去りにすると、買おうとしていた本をレジに持っていくこともないまま、走り去っていった。何事かと周りの客や店員が青年を見つめる。ただ一人、青年を追いかけようと大蔵は不自由な体を走らせた。
追いかけなければならない気がした。もしかしたら青年の触れてはならないことに触れたかもしれない。なら、謝らなければならない気がした。
転職、上司との関係、自己肯定感。
あの青年に何があったかはわからない。
どれも、解決の難しい、多くの人が悩む問題だ。
大蔵は先を急いだ。
結局青年は見つからない。本屋で見かけただけの青年を、自分は好奇心のあまり何気なしに傷つけたかもしれない。申し訳ない。大蔵の足はトボトボといつもより遅い。
……近くで自転車の音がするような……。
チリンチリン!
「あっぶないわね! 聞こえてないの?」
買い物帰りの主婦が大蔵のすぐ横を颯爽と抜けていく。
大蔵はギリギリまで聞こえなかった。いつものことだ。歳をとるにつれて耳も悪くなっていったのだ。
いつの間にか橋に差し掛かっていた。橋を渡り川を越え、家に帰ろう。その時だった。
「き、君!」
思わず大蔵は叫んでいた。
見ると橋の上で青年がじっと川を見つめている。川の水とは反対に、その目は濁っている。
確かにさっき本屋で見かけた青年だった。
大蔵の呼びかけでハッと驚いた顔をした青年は……。
次の瞬間、橋の欄干に手をかけた。
そのまま足を持ち上げ……。
「君! 待ちなさい!」
杖を投げ出した。バランスの崩れた足が前へ前へと進む。周りに誰もいない、青年と大蔵だけの空間で、この人を助けるのは自分しかいない。
「何をしてるんだ!」
まず足を引きずり下ろした。相手は抵抗する力もなく柵から離される。すると、青年は駆られるようにまた柵へと向かっていった。大蔵が羽交締めにしても前へ前へ、川の真下へといこうとする。
「なんで僕を止めようとするんですか! あなたには関係ないでしょう!」
ここでこの人を離してはいけない。絶対に。
大蔵の腕に力が入る。
「見知らぬ爺さんに僕の何がわかるっていうんですか!」
その声は叫んでいるようにも、泣いているようにも、聞こえる。
「何もできない僕を止めないでください!」
「何もできない……?」
一瞬大蔵の力が弱まった。
こんな若くて、手も足も自由で、未来があって、望めばなんでもできる青年が、『何もできない』だと?
力が弱まると、這い出るように青年は川に向かっていった。心を決めて飛び降りようと足をかける。すると、今までに青年が感じたことのないような強い力で両肩を引っ張られた。
「何をいう! 君は手も足も自由で余命宣告もされてないじゃないか!」
青年は大蔵の目をじっと見つめた。見つめざるを得なかったのかもしれない。大蔵が青年の目を決して離さなかったのだった。
お互いに荒い息遣いが収まるまで時間がかかった。声が出せるようになって始めて、青年がつぶやいた。
「ごめんなさい……大変なお身体なのに、ごめんなさい」
コトリと、2つのティーカップがテーブルに置かれた。コーヒーのほろ苦い香りが鼻腔に届き、温かな湯気が立ち上る。
青年はコーヒーが好きだろうか。大蔵がホットコーヒーを頼むと深く考えもせず「同じものを」と注文した。大蔵はブラックコーヒーを啜った。苦味と酸味が口の中に広がる。
「さっきよりは落ちついたかな?」
ブラックコーヒーに目を落としながら、青年は顔を赤らめたままだ。
「はい……」
飲み物でもご馳走するよ。大蔵はそう言って青年をカフェに招き入れた。そこは朝早くから夜遅くまでやっている行きつけのカフェだ。青年も一息つけば気持ちが収まるだろう。そして何か言ってくれるだろう。……若くて未来ある命を絶とうと考えた理由を。
「あの……」
青年はコーヒーにつかんばかりに頭を下げた。
「さっきはすみませんでした! 爺さんなんて失礼な呼び方をして! あの、なんとお呼びすれば」
青年の謝罪はそこなのか。そんなことを謝るのか。
「名乗るほどでもない、なんとでも呼んでくれ」
「なら、お、お爺さん……」
まるで自分の本当の祖父を呼ぶかのような親しみを込めた口ぶりだ。
「僕こそ自己紹介が遅れました。白石颯太といいます」
若くて爽やかで、いい名前だ。まるで小説の登場人物につけるような名前だ。大蔵は密かに思う。
「ご家族はさぞ綺麗な名前をつけなさったんだね」
「え?」
「いや、いいお名前ですね」
白石颯太は言葉に詰まってしまったようだった。もしかしたらさっき自死しようとした原因に、家庭環境がなにか関わっているかもしれない。それは触れてはいけない。すかさず話を切り替えた。
「私こそさっきはごめんな。君の事情も知らないで、余命宣告だの、手足が不自由だの、自分のことばかり喋ってしまって。今度は君の話を聞かせてほしいんだ」
「いえ、僕こそすみませんでした。手足が不自由で余命宣告されてるなんて、それに比べたら僕はましかもしれません」
颯太はティーカップを両手で持ち、手を温める。音を立てずに一口飲む。
「比べる必要なんてなにもない」
「先にこれを言うべきでした。あなたは私を助けてくれたんですよね。ありがとうございました」
颯太は礼をすると、自信なさげに顔を上げた。
「でも思うんです。本当に助けられてよかったのか……って」
「どういうことだい?」すかさず大蔵は聞いた。
すると言葉が一つ一つ飛び出すように、ポツリポツリとつぶやいた。
「……ぼく、なにも、できないんです」
「なにもできない?」
「はい。なにをやっても失敗ばかり、仕事の要領は悪くてミスばかり、周りからも孤立するし、ギリギリのところで取った車の免許は、すぐに事故を起こして親からも白い目で見られるし」
その言い方は、確かな事実を述べるようだった。
「何にもできないんです、僕。本当に、できないことだらけなんです」
ダメダメなんです、僕は。颯太は言葉と共に俯いてしまった。
「私も……」
はあと自分自身にため息ついた。
「私も今となっては何もできないよ。今の自分にできることなんてほとんどない。できるようになる時間もない」
颯太は言い返す言葉に詰まったのか時間の針だけが動いた。ブラックコーヒーを一口飲む。そして砂糖を手に取った。颯太が砂糖を入れかき混ぜたところで、大蔵は聞いてみた。
「君に夢はないのかい?」
「夢……ですか?」
すると、何を思ったのか、笑みを浮かべた。
「叶わないと思うんですが、僕には夢があったんです」
颯太は鞄の中に手を入れた。まだ新しい、就職活動に使っていたような鞄だ。
そこから取り出されたものは、綺麗な鞄に似合わないものだった。
大蔵はそれを見て、思わず目を見開いた。
颯太が片手で持っていたのは古い文庫本。表紙は色褪せて年季が入ってよれている。何度も読んだ跡があり汚れもついていた。そのタイトルと、作者名を見て、息をするのも忘れた。
『五十嵐 大蔵』
本には確かにそう書いてあった。
タイトルを見ても、確かに自分が書いた小説だ。
「お爺さん?」
何度も颯太が呼びかけている。はっと我に返った。
「僕、この本の作者が好きなんです」
颯太はあることに気がつく。
「……なんでそんなに驚いた顔されているんですか? え、まさか」
気づいてしまったか? 自分が、好きな本の作者である五十嵐大蔵であるということを。
「この本を知っているんですか?」
心の中でほっと息をついた。嘘のような嘘をつく。
「ああ、昔読んだことがあってね」
「いい本ですもんね!」
「それにしても、その本はかなり古いものだが」
「名作に古いもの新しいもないですよ!」
『名作』と、颯太は嬉しそうに語った。
「もともと父が好きで、僕が本棚で見つけてはまったんです。読んでみたらこの作家のどの作品も感動しちゃって」
本に向かってにこりと微笑む。
「……すごいですよね。こんなふうに誰かを感動させられたらいいなって思うんです。それが、僕の夢です」
誰かを感動させる。
それが、僕の夢。
そう言った颯太には先ほどの暗い影はなく、明るい調子で話している。コーヒーを飲みながら、楽しそうに颯太は本のページをペラペラと捲る。はっと気がついて鞄にしまった。
「つい読んで、すみません……」と顔を赤らめた。
大蔵はわずかに残るコーヒーのカップを回した。
「白石さん」
その声は落ち着いている。落ちつかせようとしている。
「もう一度会えないかな」
きょとんとした顔を見せる颯太。何でだろうと、その目が言っている。確かにそうだ。今にすればいいものを。
しかし今はまだだめなのだ、少し時間が必要なのだ。
間を空けてから、はっきりした調子で颯太は答えた。
「いいですよ」
一週間後、以前会った橋で待ち合わせ。颯太は待ち合わせの時間より早く来たものの、大蔵はもっと早く来ていたようで川面をじっと眺めていた。夕陽に照らされてキラキラと輝いている。
「お早いですね」
「白石さんこそ、時間より早いじゃないか」
耳を赤くする。そしてぼそりと言った。
「いえ、その……早くお会いしたかったものですから」
その言葉に大蔵は思わず笑みが溢れた。
「僕もだよ。早くこれを渡したかった」
颯太は大蔵が持っているものを見た。封のしていない茶封筒だった。サイズはA4くらいだろうか。
「これを君に」
大蔵は颯太にそれを差し出した。
「あの……これは?」
大蔵はオレンジ色に染まった夕陽を眺めた。
「実は、私は小説を書くのが趣味でね。これは私が書いたんだ。読書が好きなようだし一度読んでみてもらえないかな?」
「お爺さんが……書いた? すごいですね!」
「今はこのくらいの短さしか書けないがな」
颯太は、落ちかけようとしている夕陽を灯りにしながら、茶封筒の中身を取り出した。中には十枚程度の原稿用紙。大蔵直筆の筆跡が走っていた。手の震えが文字にも伝わって少し読みにくい。しかしじっとよく見れば読めたので颯太は早速読み始めた。
大蔵が颯太に見せた小説のタイトル。それは。
『あなたにしかできないこと』
ペンネームは書かれていなかった。
夕陽を見つめる大蔵と、その横で原稿用紙に目を走らせる颯太。
と、颯太は「えっ」と言葉を漏らした。自分が好きな作家と文章が似ていることに気がついてしまっただろうか。颯太の読むスピードが上がった。勢いよくページが捲られていく。
「お爺さんの文章は、まるで五十嵐先生みたいですね」
颯太が大蔵の横顔を見たが、大蔵は夕陽だけを見続けた。反応のない大蔵に、颯太はまた原稿用紙に目を落とす。
ペラペラと捲る音が静かな二人の間に響く。
颯太の読む小説は最終ページに入った。そして──
それまでの展開を受けて書かれた最終ページはたった数行しかない。それを颯太はたしかに読んだ。
……と、鼻を啜る音が聞こえた。耳を赤くし、しゃくりあげ始めた。目を瞬かせる。溢れないようにスーツの袖で何度も擦る。人前で涙を流すなんていくら信頼した人といえど迷惑をかける、そう言わんばかりに必死で堪えていた。
大蔵はそんな颯太の様子を見て、小説の最後に書いた一行を見て、満足げににっこりと、笑った。
読み終わってからも、颯太は何も言葉を発さなかった。発せなかった。ただ、大蔵の横顔を見て、何か言いたそうに見つめていた。泣き出したいのを歯を食いしばって必死で堪えている。大蔵の視界に、心臓をぐっと押さえている颯太の手が見えた。
「どうかな、久しぶりに小説を書いたんだが」
「あの……」
声にならない声が出る。
「すごく」
苦しそうなくらい。
「すごくすごく良かったです! 胸にじーんときました。こんな感動は久しぶりです。まるで、五十嵐先生の小説を読んだ時みたいです! お爺さんはすごい作家ですね!」
颯太の目はキラキラと、淀みなく、夕日の川面のように煌めいていた。
「そう言って喜んでもらえて嬉しいよ。なら私の役割は終わりだ」
大蔵は颯太に向き直った。
「その小説は白石さんにあげるよ」
「え、いいんですか?」
「私にはこのくらいしかできないからな」
大蔵は家がある方へ一歩歩み出すと、とあることを思い出して振り返った。
「そうだ、まだ続きがあるから、読んでくれないか?」
「続き?」
確かに小説には『了』の字があったが、まだ読んでいない原稿用紙が一枚残っていた。
急いで目を走らせる。
それは小説ではなく、手紙のようだった。
『白石颯太さんへ
私の物語を読んで、私のことを『この人みたいに感動させてみたい』と言ってくれてありがとう。誰かを感動させる。それが、僕の夢と君は言ったね。君こそ、僕を感動させ、奮い立たせてくれた。
この物語が君を勇気づけたら嬉しい。
私にしかできないことは物語を書くことくらいだからね。
五十嵐大蔵より』
手紙の最後に書かれたペンネームが目に飛び込んでくる。
え!? まさかそんなはずは! 声に出ない。
視線を戻すと、大蔵はもういない。橋を渡り、家路へと向かっていた。
「もしかして、あなたは、五十嵐先生だったんですか!?」
大蔵はもうその場を去っていた。振り向くことはなかった。ただ、手を上げて振るだけ。颯太は呆然としたまま、立ち尽くした。
何もできない颯太は、手の震えだけを感じていた。興奮なのか、よくわからない。熱くなったと思ったら、寒さを覚える。身体に力が入らなくなり、その場で座り込んだ。そして思った。もらった小説を、もう一度読もう。『あなたにしかできないこと』を何度も読もう。
ページを捲る、始まりも途中も素晴らしい。そして最終ページ、最後の一行をもう一度読みたい。そんな衝動に駆られる。この小説で、一番胸を貫いてきた言葉だ。この言葉を心に刻む。
『あなたにしかできないことは、あなたがあなたとして存在していること』
大粒の涙が溢れてきた。目がまた熱くなる。胸に何かが込み上げてくる。思い出す。一週間前、必死で助けてくれたのも、話を聞いてくれたのも、この小説をくれたのも。このメッセージを自分に伝えたかったんだ。『小説』という彼なりの手段を使って。
颯太はいつの間にか泣いていた。人目も憚らずに、声を上げて、熱い涙を流し続けた。
しばらく経った頃。
「五十嵐先生」
大蔵自身はもう遠くに行って、いない。もう見えなくなった大蔵に向かって話しかける。
「今の自分にできることはほとんどないとか言っていたけれど……」
最後の涙を拭う。
「あなたにしかできないことはいっぱいあるじゃありませんか」
口に出して言ってみて、はっと颯太は気がついた。
「……それは僕にもあるのかもしれない……僕が僕として存在している限り」
きっと、何かはあるかもしれない。
颯太は小説を抱き寄せ、立ち上がった。
お読みいただきありがとうございます♪
あなたにも届きますように……。
表紙絵は、末長敬司様に作っていただきました^_^




