愛が重すぎる令息VS束縛が強すぎる令嬢
アルフォンス・リードは先月26になったばかりの、リード侯爵家の嫡男である。昨今では高位貴族と言えど内情は火の車なことも珍しくないが、リード侯爵家に関してはその心配はない。肥沃な領地に大穀倉地帯を備え、王国の食糧庫と名高い。
侯爵夫妻は跡取りの教育に余念がなく、アルフォンスは文武に秀で、しかも驕ることもない理想的な紳士に育った。領地経営について意見を求められれば父侯爵が舌を巻くほどの英明さを見せ、剣を持たせれば地に膝をつくことはなく、馬に乗ればどんな暴れ馬でもたちまち乗りこなしてみせた。
その上眉目秀麗である。すらりとした長身で色の薄いブロンドと柔らかいペールブルーの瞳を持っている。どんな時でも鷹揚に微笑んで取り乱さない。社交界ではあらゆる淑女が熱い視線を向けた。
気難し屋で有名な太后が孫である王太子に向かって「お前がリード侯爵子息の半分でも気が利いていたらねえ」と嘆いたのは有名な話である。
その、本来であれば引く手数多の優良物件であるアルフォンス・リードの元に、25回目となる婚約辞退の申し出が届いたのは今朝のことであった。
リード侯爵は激怒していた。
理由は簡単、息子の縁談がまたしてもまとまらなかったためである。先方の伯爵家からは非常に丁寧な美辞麗句が散りばめられた親書が届いた。物凄く婉曲な表現ではあるが、貴族と言えどこんなにも婉曲な言い回しがあるのかと感嘆しそうにはなるが、兎に角「お断りします」という内容であった。
しおらしい表情で立っている息子を睥睨する。我が子ながら黙って立っている分には文句の付け所が無かった。だが、そんな見た目にはもう騙されるつもりはない。一度深く息を吐き、数秒。続いて大きく息を吸い、呼吸を止めて数秒。よし。この怒りは正当なものである。全力で声を張り上げた。
「いい加減にしろ! お前はこの侯爵家の血筋を絶やすつもりなのか! 一体何度目だ、ええ!? 何回破談にされたら気が済むんだ!!!」
窓がびりびりと震えるほどの声量だったが、アルフォンスには余り堪えていないようである。静かに首を傾げた。
「父上、あまりお怒りになると良くないとお医者様が仰っていましたよ」
「怒りたくて怒っていると思うのか!?」
「と仰いましても、私としても何故お断りされてしまうのか……」
しゅんと眉尻を下げている表情は幼い頃のままである。が、今日という今日は絆されないぞと侯爵は口をへの字に結んだ。腕も組む。
「自分の何がいけなかったのか解らないのか」
「私は順調だと思っていました。先日も、お茶会への送迎をいたしましたし」
「それだ、それ」
「はい?」
侯爵は机の上に広げたオブラートの塊、もとい伯爵家からの親書を指でトントンと叩いてみせた。
「まさに、その時の振る舞いが許容できなかったと書いてある……ような気がする」
オブラートが厚すぎた。
「振る舞いという程のことはしておりません。彼女を我が家の馬車で迎えに行って、お茶会主催のエスト子爵家に送り届け、それからお茶会後に伯爵家までお送りしただけです。未婚の令嬢との適切な距離は保っておりましたし、送り迎えしただけで女性同士のお茶会に割り込んだりもいたしませんでした」
それだけ聞くと、いささか過保護ではあるが特に問題はないように聞こえる。罠だ。
侯爵は一呼吸おいて、掘り下げた。
「エスト子爵家では大層話が盛り上がり、参加者は皆午後のお茶の時間からはみ出す程長居したそうだな」
「言われてみれば、帰宅は夜になっていましたね」
「お前はその間、どうしていた?」
「いつお茶会が終わっても良いように、待機しておりました」
「……どこで?」
「馬車の中ですが」
「お茶が終わるまでの数時間、ただじっと馬車の中に座って待っていたのか?」
「その通りです」
「使用人から声をかけられなかったか」
「ええ、応接室を準備したと言われました。ですが、馬車から出たらお茶会が終わった後、彼女を待たせてしまうかもしれないので断ったんです」
子爵家の使用人達は恐らく生きた心地がしなかったのではないか。侯爵家の嫡男が、馬車の中で数時間待機。伯爵令嬢だってさぞや肝を冷やしただろう。
「そういう所だ馬鹿者! 常識で考えろ! 何時間も侯爵家の嫡男を馬車に閉じ込めて気にしない伯爵令嬢がどこにいる!!」
「ですが、私は彼女を待つのも嬉しいことだと、何も苦ではないときちんとお伝えしました!」
「ですがもかかしもない!! お前の愛情表現は兎に角重いのだ! 一輪の花に絶え間なく樽で水を注ぎ続けるのと変わらん、根腐れするに決まっている! こんな風にな!!!」
怒りに任せて侯爵が親書をアルフォンスに投げつけた。
「もう一度だけ、何とか婚約者候補を見繕ってくる。だが、良いな。今度という今度は逃げられるわけにはいかん。絶対に勝手な真似はするな。いきなり別邸の改装をしたり温室を贈ったり馬車で5時間もお茶会が終わるのを待ったりするな!」
納得したわけではなかったが、実際25回目のお断りはアルフォンス自身もショックであったのは事実だ。だから、侯爵の言葉に素直に頷いた。何よりこれ以上父の頭に血が上ったら本当に倒れてしまうかもしれない、とも思ったので。親孝行でもあるのだった。
ヴィオレッタ・ルノーは半年前に18になった、ルノー侯爵家の長女である。ルノー侯爵家と言えば領内に複数の銀鉱山を抱えることで有名な、王国内でも一、二を争う裕福な家だ。
有り余る富を存分に使って磨き上げられた令嬢は、月もかくやと言わんばかりの美しさであった。金を紡いだとしか思えぬ豊かで見事なブロンドと、ルビーのごとく赤く神秘的な瞳は見る者を惹きつける。
何より、その見た目に劣らない一流の教育を受けた才媛でもある。三か国語を自在に操り、ダンスを踊れば蝶のよう、歌えばカナリアが恥じて黙る程。気働きがあり、下位の令嬢どころか使用人にまで親切で気立てが良い。
女嫌いで有名な王弟が、一時期熱烈に求婚していたのは社交界の誰もが知るところである。
その、求婚者が引きも切らずに列をなすヴィオレッタ・ルノーの元に、17回目となる婚約辞退の申し出が届いたのは今朝のことであった。
ルノー侯爵夫人は激怒していた。
理由は簡単、娘の縁談がまたしてもまとまらなかったためである。先方の公爵家からは随分と素っ気ない内容の親書が届いた。いくらこちらの爵位が低いからとは言え余りにも無礼ではないか。だが問題はそんなことではない。扇を何度か開いて、閉じて、瞼も閉じて、深呼吸する。一秒、二秒。そうよね、これは怒っても無理ないわよね、と確認してからカッと目を開いた。
しゃなりと品よく立っている娘に向かって思いっきり声を張り上げる。
「いい加減になさい! 一体何度縁談を断られたら気が済むの! このまま一生嫁がずにいるつもり!?」
侯爵夫人の声は良く通る。屋敷中に響き渡る大声にも怯まず、ヴィオレッタは小首を傾げた。その姿は親の欲目を差し引いても、余りにも可憐だった。
「お母様、そんな大声を上げたら喉を傷めてしまいますわ」
「一体誰のせいよ!」
「だって、何故断られてしまうか私には全く解らないんですもの……」
「本当に解らないの!?」
侯爵夫人から見れば原因は明らかなので解らない筈がないだろう、という気持ちになってしまうが、しかしヴィオレッタは決して愚かな娘ではない。自覚があれば言われなくてもその行動を直すに違いない。
こういうことは他人から指摘されても中々納得できないものだ。自分で気が付くしか。侯爵夫人は一度怒りを飲み込んで、ヴィオレッタの「気付き」を促すことにした。
「殿方というのはね、追いかけすぎると離れていくものなの」
「はあ」
「つまりね、多少手紙の返事が遅いとか、自分の書いたのより枚数が少ないとかで文句を言ったり、日に何度も押しかけて会いに行ったりとかすべきではないのよ」
母親の言葉に、ヴィオレッタは唇を尖らせた。納得できないからだ。
「ですが、いずれは夫婦になるのですからお互いのことを良く知った方が良いでしょう? 婚約者同士なら手紙や贈り物のやり取りも、実際に会いに行くのも普通のことですわ」
「程度の問題があるでしょう!」
侯爵夫人が悲鳴のような声を上げた。
「毎日毎日毎日毎日3通も4通も! 便箋びっしり20枚の手紙をしたためるのは普通ではないのよ! いえ、あれは手紙と言って良いの? 伝記小説と呼ぶべきかしら。とにかく、それを一回書きあがるごとに自分自身で届けにいって、返事をもらうまで帰らないなんて常軌を逸しているわ!」
「だって、お手紙の方が素直な気持ちを出せますもの。より深くお互いを知れますでしょう?」
「嫌という程知ったでしょうよ、貴女が入浴の時に右足から湯船に入るなんてお母様でも知らなかったわ!!」
「彼は左足から入るそうなの」
「それが何だっていうのよ!!!! 兎に角、普通はそんなにべったり婚約者だけに時間を使えないのよ、常識で考えなさい!」
ヴィオレッタは怒りのあまり真っ赤な顔で叫ぶ母親を見て、しょんぼりと俯いた。普通ではない、異常だと言われても、そうは思えない。お互いに心を明かして誠実に付き合えば、政略でも愛と信頼で結ばれた素敵な夫婦になれると信じているのである。
「お前の要求はね。砂漠のど真ん中で相手の飲み水を湯船に入れろと言ってるようなものよ。一体どこの世界に生きていくための最低限の水まで他人に捧げる男がいるって言うの」
そこまで言われては異を唱えることも出来ず、ヴィオレッタはますます萎れて黙り込んだ。
ようやく怒りのピークを越えた侯爵夫人は呼吸を整えた。いい加減喉も痛い。
「もう一度だけ、何とかお相手を探してみせるわ。良いこと? 今度こそ絶対に、絶対に、絶、対、に! 過度な要求をするのはおやめなさい。今回駄目だったらもうお母様もお父様もお前を結婚させるのは諦めます」
過度な要求など一度もした記憶はないのだが、ともかくヴィオレッタは頷くしかなかった。貴族の令嬢という立場である以上、結婚に関しては親の意向を無視することはできない。それに、これ以上叫んだりしたら母の喉が破れる可能性がある。ヴィオレッタもまた、孝行娘であった。
こうしてお互いに後がない令息アルフォンス・リードとヴィオレッタ・ルノーは顔合わせの日を迎えた。
外から見える条件だけで言うなら、二人共かなり良い。引く手数多であることは間違いない。それなのに未だに婚約者がいない、というのは異例のことである。アルフォンスもヴィオレッタも、家や本人の評判からすればとっくの昔に結婚していてもおかしくないのだ。それなのに、婚約者すらいない。おかしい。
何か外部に出せない問題でもあるのかと考えるのが普通だ。例えば平民の恋人がいるとか。外面が異様に良いだけでとんでもない人格破綻者だとか。だがどれだけ念入りに調べてもそういう痕跡はなかった。
過去に婚約を結び、破談となった相手に聞き取りをしてもなんだか煮え切らない。勿論こういう話は誰彼構わず喧伝する類のことではないから口が重いこと自体は何もおかしくないのだが。
それでも何とか聞き出したところによると、それぞれ「思いの深さが釣り合わず、当家の娘・息子では折り合わなかったので」ということであった。
これは寧ろ朗報である。リード侯爵、ルノー侯爵共に元婚約者たちのこの言葉によって話を進める決心がついた。
しかしながら、この話が流れればもう本当に後はない。家格の合う目ぼしい未婚の令嬢、令息は既に婚約者がいる。未だに相手がいないのは明らかに素行に問題がある者くらいだ。いくら何でも結婚できさえすれば不誠実な愚か者でも構わないなんてことはない。だから、ラストチャンスなのだ。
親たちは何度も念を押した。兎に角軽く。あっさりと、自分では「素っ気ない」と思う位のお付き合いに徹しなさいと。同行する侍従と侍女にもしっかり言い含めた。もしおかしな言動をしそうになったらどうにかして話を逸らせ、と。
そんなわけで顔合わせの場となったリード家のガゼボは、輝く太陽と吹き抜ける涼風に見合わぬ緊張感に満ちていた。両親は応接室で歓談中。アルフォンスとヴィオレッタはまだよそ行きの表情で向かい合っている。
使用人がお茶の用意を整えて下がると、先ずアルフォンスが口を開いた。
「夜会では何度かお会いしましたが、こうしてゆっくりとお話しするのは初めてですね」
「はい。あのような場ではどうしても、ご挨拶のみになってしまいますわ」
二人とも社交の場に出れば人に囲まれる。仲の良い友人とだけじっくり時間をかけてお喋りしたり、あるいは交友関係を広げるために雑談をして回るようなことはとても出来ない。
「本日は良い機会ですね」
アルフォンスが微笑むと、ヴィオレッタもまた笑みを返した。
「それにしても、アルフォンス様にまだ婚約者がいらっしゃらないとは思いませんでした」
「ヴィオレッタ様こそ、既に決まったお話があるものとばかり思っていましたよ」
「お話だけは、良くいただくのですけど」
「ええ、私も、話だけは随分いただいたんですが」
「自分では上手くいっているつもりだったのに、何故かご縁が無くて」
「解ります。こういうのは、どちらかが悪いというわけではないんですよね」
元婚約者やその候補たちを悪く言うような性質ではない。そのため何となくぼんやりとした「何故かまとまらなかった」という表現になる。背後に控えている侍従と侍女は表情を崩さないが、ほんの少し瞼が下がっていた。「何でも何も、原因は明かだろう」という気持ちを飲み込んでいるからである。
「ですが、私には幸運でした。こうして貴女と知り合う機会をいただけましたから」
「そんな、私こそ。とても幸運だと思いますわ」
アルフォンスの言葉にほんのりと頬を染めて恥じらうヴィオレッタはどこから見ても清らかな乙女だった。良い雰囲気で、絵になる若い二人。ここまでは順調だ。いつも、ここまでなら物凄く順調なのだ。それはそう。何しろ条件だけで言えばこの二人は同世代の令息、令嬢の中でも抜きんでている。家格は高く、本人達は容姿端麗で人当たりも良い。会話も盛り上がる。好きな食べ物、趣味、最近興味があること。話題は尽きない。
初顔合わせは和やかにお開きとなった。
一部始終を見守っていた侍従と侍女には解っていた。問題はここからだと。
ヴィオレッタを見送ったアルフォンスは興奮気味に父侯爵に語った。
「あんな美しい方は滅多に見ません。しかもとても知的で、どんな話題になっても何でも知っているんですよ、素晴らしいです」
「そうか、気に入ったなら何よりだ」
「そんな言い方は失礼です。ヴィオレッタ様ほどのご令嬢なら、私の方がお気に召していただく必要があります!」
「……まあ、そうだな、こっちはもう後が無いし」
「そうだ、ヴィオレッタ様は赤い薔薇がお好きなんだそうです。東の温室に10種類位赤薔薇の品種を植えましょう。開花時期が被らない方がいいな、それで通年ずっと赤薔薇が見られるようにして」
侯爵がぐ、と眉間にしわを寄せた。
「アルフォンス、やめろ」
1年中薔薇が見られる温室をプレゼントするのに相応しいタイミングは、絶対に初顔合わせの翌日ではない。必死に説得して何とか切り花の花束にスケールダウンさせた。
帰りの馬車に乗ったヴィオレッタは興奮して侯爵夫人に語った。
「夜会では遠くからお見かけするだけだったけど、実際に話してみたらお姿だけじゃなくて本当に物凄く素敵な方だったんです」
「良かった、気に入ったのね」
「そんな言い方は失礼ですわ。きっと物凄くもてる方よ、私は選んでもらう立場なんですから!」
「……まあ、そうかもね。お前はもう嫁き遅れに片足突っ込んでるし」
「そうだわ、アルフォンス様はお手紙がお好きなんですって。男性でそんな方、珍しいでしょう? 私嬉しくって! お互いの好きなこととか、興味深かった出来事とか、気軽にやり取りしましょうねってお約束したんです!」
侯爵夫人がバチ、と扇子を閉じた。
「ヴィオレッタ、おやめなさい」
細かい文字がびっしり綴られた便箋30枚は間違いなく「気軽に」の範疇を逸脱している。ヴィオレッタの書きあげた手紙は、30枚のうち最初と最後の2枚だけが封筒に入れられた。
両親たちの祈りが通じたか、二人の交際はつつがなく続けられた。勿論、使用人まで一丸となった各家人の努力も大変なものである。アルフォンスは思い浮かぶ贈り物のアイデアを話しては止められ、ヴィオレッタは手紙の枚数を削られまくり、度々侍従と侍女はとんでもないタイミングでお茶とお茶菓子の追加をし続けた。
おかげで表面上は大変常識的なお付き合いとなっている。アルフォンスは花束やちょっとしたお菓子を贈りヴィオレッタは日に1通、便箋2枚の手紙を書いた。いや、書いた枚数は実際はその10倍以上だったが。
数度目のデートだった。
ヴィオレッタが好きな恋愛小説が舞台化されたので、一緒に観に行くことになったのだ。
通常であれば舞台の幕が上がる時間に合わせて、夕方頃にアルフォンスがヴィオレッタを迎えに行く流れになるところだろう。が、家人に過度の接触を抑えられ続けた二人にはそれだけでは全く物足りない。折角婚約者と会うのに、舞台を見て解散だなんて勿体なさ過ぎる!
「ですので、もしアルフォンス様がお嫌でなかったら、お昼からご一緒しませんこと? レストランの個室を抑えられますから」
侍女は少し緊張する。実際に顔を合わせた回数を数えると、こんな誘いは些か踏み込み過ぎであるような気もする。だが、完全に非常識というわけでもない。微妙なラインを攻めて来たな。
侍女の心配をよそに、アルフォンスの瞳はきらりと輝いた。
「宜しいのですか? それなら、昼用のドレスと夜の舞台用のドレス両方お贈りできますね」
侍従はまたぶっ飛んだタイミングでお茶を淹れるべきか迷った。ドレス2着は駄目じゃないかという気がする。だが、昼のレストランと夜の劇場ではドレスコードは確かに違う。では婚約者として贈っても問題ないのか? 解らない。
侍従の困惑をよそに、ヴィオレッタは花が綻ぶような笑顔を見せた。
「まあ、嬉しいですわ」
世間一般的にはともかく、本人達には問題ないらしい。侍女と侍従は胸を撫でおろした。
なお、2着はどうなんだと言われたアルフォンスは装飾品は含まれていないのだから譲歩していると主張し、淡い黄色が基調の昼用、ペールブルーに金糸の刺繍が入った夜用を送ることに成功した。
勿論ヴィオレッタはどちらも喜んで受け取り、お礼の手紙なのだからどれだけ長くても失礼には当たらないと主張して普段の倍の4枚を封筒に入れることに成功した。
当日も大変気候に恵まれた。ルノー侯爵家にやって来たアルフォンスが赤薔薇の花束は一抱えほどもある大きさで、どれも見事な大輪を咲かせていた。手渡されたヴィオレッタがにっこりと微笑む。
「まあ、こんなに綺麗な薔薇は初めて見ましたわ」
「はい。先日うちの温室に新しく植えた品種なんです。是非お目にかけたくて」
「温室に? きっととても美しいのでしょうね」
「はい、他にも沢山植え替えたんです。まだ蕾の物も多いので一番良い時期にご招待しますよ」
「ふふ、楽しみにしていますわ。では、ええと……」
ヴィオレッタが傍に控えた使用人に薔薇を渡し、アルフォンスを見上げた。普段と違い、髪は結われておらず、化粧も薄い。
「これから支度をいたしますので、少々お待ちいただけるかしら?」
「ええ、勿論です。貴女に会うのが待ちきれなくて。昼食までには大分ありますから、私のことはお気になさらずゆっくりお支度なさってください」
そう。アルフォンスは朝のうちにルノー侯爵家へ到着した。ヴィオレッタが着替えも何も済まない内に、である。もしそれが許される場であったなら、アルフォンスの侍従は頭を抱えて蹲ったことだろう。アルフォンスがリード侯爵家を出る時、当然侯爵は止めた。
「昼食の約束なのにこんな時間に出る必要はないだろう」
「いえ、先日温室に植えた薔薇が開きましたので、ヴィオレッタ嬢に渡す為の花束にするんですよ」
「む、そうか……」
温室丸ごとではなく、そこに咲いた花で花束を作るのなら常識の範囲内である。元々切り花になっているものをまとめるだけではなくて切って整えるのであればそれなりに時間がかかるだろう。アルフォンスが満足のいくものを作るならなおさらだ。だったら、そんなに早すぎる時間になることもないかもしれない、と侯爵は思ってしまった。傍で聞いていた侍従も。
まさか夜のうちに庭師に「朝一番で薔薇の花束を作っておいてほしい」と依頼していたとは露ほども知らず。そんなわけでアルフォンスはまんまと早朝に屋敷を後にしたわけだ。想定よりはるかに早く馬車の出る音を聞いた侯爵はひっくり返っていた。
というわけで、もうこの時点で侍従の方はこの婚約も終わった、と思っていた。まあ今日のデートはしてもらえるだろう。だが、身支度も何も済んでいない時間に押しかけてしまったのだ、心証は悪いに違いない。いや、まだ何とかなるだろうか。ヴィオレッタは驚きこそすれ嫌がる素振りを見せなかった。薔薇の花束にも喜んでいたと思う。
ヴィオレッタが退室した後、アルフォンスは上機嫌で応接室のソファに座っていた。自分がやらかしたと思っていないのだ。侍従はせめて、そっと胃を押さえた。
一方のヴィオレッタは嫌がるどころか浮かれていた。今までこんな相手は一人もいなかった。皆どんな約束をしてもヴィオレッタの身支度が完璧に整った後でやって来た。「貴女に会うのが待ちきれなくて」なんて、そんな風に言ってもらったことはない。
まだまだ時間はたっぷりある。こうなれば、最高に美しい自分を見てもらいたい。ゆっくり支度をして良いとも言ってくれたのだから問題ない。
「お嬢様、兎に角もういらっしゃっちゃったのはもうしょうがないですから、なるべく早くお支度をしましょう」
「しょうがないってなぁに。ゆっくりで構わないと仰っていたじゃないの。腕によりをかけてちょうだいな」
「嫌ですよ! 何時間待たせるおつもりですか!?」
「そんなにかからないでしょう、3時間くらいかしらね?」
「嫌ー! 絶対無理です、そんな悠長にやってられません!」
「こうしている間にも時間は過ぎるのよ? 先ずはしっかりお肌の保湿をしなけりゃあ」
「はっ、確かに手は動かさないと……、でも急ぎますからね、本当に急ぎますから!」
「はいはい、髪はこの間のお茶会で評判が良かったあの結い方をして欲しいわね」
「無理です!!!!」
やたら急かしてくるメイドを宥めすかして、結局満足いくまで髪型と化粧を整えてもらった。
勿論待たされたアルフォンスが機嫌を悪くすることもない。支度を終えたヴィオレッタが応接室に戻ると、ぱっと立ち上がって満面の笑みを浮かべた。
「いつもお美しいですが、本日は更にお綺麗です。まるで女神か妖精のようだ」
「有難うございます。このドレス、とても着心地が良いですわ」
「良かった。生地が軽くて柔らかいので縫製は少し大変ですが、苦労に見合う価値があります」
「ええ、本当に」
アルフォンスが懐中時計を見た。ヴィオレッタは中々の時間をかけたがそれでもレストランの予約にはまだ時間がある。目の前には複雑に編み込まれた髪と一分の隙もない化粧をされたヴィオレッタ。
「まだ時間がありますが、せっかくこんなに美しく着飾っていただいたのですから、少し散歩をしませんか」
「まあ、素敵! レストランの近くに遊歩道がございますから、丁度良いですわ」
アルフォンスのエスコートで馬車に乗り込み、遊歩道へ。いつも通り話題は尽きることが無い。
他の人間と話していても二人が話を途切れさせることは勿論ない。場を繋ぎ、新たな話題を提供したりあるいは相手の話題を掘り下げたり、そうした会話術は身に着けている。だがそれは社交のための技術であって、「会話が盛り上がっている」というのとは少し違う。話していて楽しい、という感覚はそう頻繁にあるものではないのだ。
特にヴィオレッタは既に深くアルフォンスに心を傾けていた。侯爵夫人に制限されているため1日に送る手紙は1通だけになっていたが、その1通にきちんと返信がもらえる。ヴィオレッタの2枚に対してアルフォンスは3枚返してくれる。
最初だけなら、そうしてくれる人はいた。だが、日が重なるにつれどんな人でも、毎日の返事が2日おきになり、3日おきになり、耐えられなくなったヴィオレッタが家へ押しかけ、返事をもらうまで帰らないという行動に繋がっていたわけである。
まだ頻度と枚数は控えめとは言え、こんなに誠実に対応してくれる人など、他にいないのではないかと想えた。それにアルフォンスは、ヴィオレッタのどんな些細な話もよく覚えている。新しいカフェの焼き菓子が気になると言えば買って贈ってくれるし、顔合わせの時に赤い薔薇が好きだと言ったら毎回こうして花束を贈ってくれる。
今回の舞台だって、ヴィオレッタが好きな小説を覚えていたから誘ってくれたのだ。こんな人は滅多にいない。そう思えば思う程、ヴィオレッタの胸の内にはじりじりと焦燥感が満ちて来る。
もっとたくさん話がしたい、もっと頻繁に会いたい、本当は手紙だってもっとずっと沢山やり取りしたい。だって、そうして繋ぎとめておかないと、こんなに素敵な人はどこかに行ってしまうんじゃないかと思うのだ。自分のことなんかより、もっと重要なことができてその内放っておかれるようになったり、心変わりされたりするんじゃないかと心配になってしまう。
大切に思えば思う程、自分の側に、鍵をかけてしまっておきたくなる。
遊歩道の木漏れ日の中を歩きながら、ヴィオレッタがエスコートしてくれるアルフォンスの腕を少しだけ強く握った。
その時だった。
横の茂みから3つ位の女の子が飛び出してきて、あっ、と思う間もなく盛大に転んだ。咄嗟に周囲を見渡しても、親らしき人の姿は確認できない。突然のことに固まってしまったが、耳をつんざくような泣き声にまずアルフォンスが動いた。女の子を立たせ、怪我がないか確認し、地面について汚れた手を綺麗なハンカチで拭ってやる。
それから、優しく声をかけて慰め始めた。
「怪我は無いようだから、大丈夫だよ。お父様かお母様はどこかな?」
まだ幼いためか、泣くばかりで言葉が出てこない。アルフォンスは困ったように眉尻を下げると、女の子をそっと抱き上げた。
「親を見つけるか、警らの所にでも連れて行かないといけないな」
「アルフォンス様、では私が変わります」
主に幼児を抱かせたままにはできない。侍従が腕をだすが、女の子はアルフォンスの首にしがみ付いてまた激しく泣き始めた。
「おや、困ったね。私が暫く抱いていようか」
泣いて縋りつく子を無理に引きはがすのは気が咎めて、アルフォンスは鷹揚に笑った。それからヴィオレッタを振り返る。
「申し訳ありません。少し親を探して見つからないようなら、警らに預けたいのですが、よろしいでしょうか」
ヴィオレッタはこくりと頷く。泣いている女の子は可哀想だし、一刻も早く親元に返してあげたい。
だがその一方で、じわじわと黒いもやもやが広がっていく。アルフォンスにしがみ付いている小さな手指が、どうしても気になる。私の婚約者なのよ、と叫びたい気持ちで一杯になる。
ただでさえ押さえつけていた感情がまるで燃え盛る炎のように大きくなっていく。
アルフォンスはきょろきょろと周囲を見回しながら歩き、時折女の子に話しかけた。
「どっちから来たか、解るかな?」
「んーん」
「お名前は言える?」
「ベス」
「そうか、ベスって言うんだね」
そう言って笑って、頭を撫でた。ヴィオレッタの目の前が真っ赤に染まる。
「ベスって、エリザベスの愛称だわ」
声が震えていた。侍女が蒼褪め、アルフォンスは振り返って大きく目を見開いた。ヴィオレッタはボロボロと涙をこぼしていた。
「ベスって、愛称だわ! 私はまだビビって呼ばれたこと無いのに!! 私の前で私以外の女を愛称で呼ぶなんてあんまりだわ!!!」
ああ、終わった。
侍女が天を仰いだ。終わった。3歳児に嫉妬するだけでも相当なのに、往来でぼろ泣きして喚き散らす女と結婚したい紳士が果たしているだろうか? いないと思う。つまり、この縁談もご破算だ。
最早止める気力もない。侍女が現状を受け入れられずに立ち尽くしている間も、ヴィオレッタは喚き続けた。
「私はアルフォンス様に抱かれたことも抱きついたこともまだないのに! どうしてその子の方が先にされるの!? 私が一緒にいるのに、何故侍従じゃなくて貴方が真っ先に駆け寄るのよ! 私よりもその子を優先したってこと!!?? 隣にいた、私よりも!? その子を!? それって酷い裏切りだわ!!!」
一息で言いきって、ヴィオレッタが顔を覆って泣き始めた。いや、ずっと泣いてはいたのだが、泣くのに専念し始めた。
突然の大声に晒されて女の子も固まっている。アルフォンスが侍従に渡そうとしても、今度は抵抗しなかった。
子供の泣き声ならまだしも、ヴィオレッタの声は人々の視線を集めた。何事かと人だかりができ始めている。その、衆目も厭わずにアルフォンスがヴィオレッタの前に跪いた。首を垂れる。
「申し訳ありません、ヴィオレッタ様」
こういう場合、人は二種類に分かれる。往来で泣き喚く醜態を晒したことを責めるか、兎に角場を治めるために心にもない謝罪をするかである。だが、アルフォンスの声はそのどちらとも違った。それを、ヴィオレッタは敏感に聞き分ける。
顔を覆っていた両手を外し、涙がいっぱいに溜まった目を、アルフォンスへ向けた。
彼の顔は悲壮感に満ちて真っ青だった。
「ヴィオレッタ様、貴女がお怒りになるのは当然のことです。確かに、私の思考は一瞬貴女ではなく、子供を保護しなければという義務感に奪われていました。私がこの世の何より優先すべきは、貴女なのに」
「アルフォンス、様……」
泣きながら、ヴィオレッタも覚悟していた。きっとまた破談になる。こんなにみっともない姿を曝したのでは愛想を尽かされたに決まっている、と。それなのに、目の前の婚約者はこちらを責めるのでも、おためごかしの謝罪するのでもなく、真摯に許しを乞うている。
「私に、失望なさっていないの?」
「失望だなんて! 私の方こそ、貴女の気持ちを裏切ってしまいました。もうこんな不誠実な男はお嫌になってしまいましたか?」
「いいえ、いいえ、まさか! 淑女らしからぬ私を見て、こんな風に受け入れてくれる方など他に居ませんわ」
「確かに、淑女風ではありませんでしたが、それも私を想って下さるがゆえ、でしょう?」
そうだ。アルフォンスを何とも思っていなければこんなに心乱されることもない。3歳児どころか妙齢の女と抱き合っていたって、好きな相手でなければどうでも良い。ヴィオレッタはまた泣きながら何度も頷いた。そうなの、貴方が好きだから喚いてしまったのよ、と。
アルフォンスは泣くヴィオレッタをしばらく見つめていたが、その内に彼女の手を取って落ち着かせるように握った。
「ヴィオレッタ様、……ビビ、と呼んでも宜しいですか?」
「ええ、勿論です」
「では私のことはどうぞアルと呼んでください」
「はい、……はいっ!」
アルフォンスがヴィオレッタの手を取ったまま立ち上がる。そっと抱きしめた。ヴィオレッタもアルフォンスの背中に手を回す。成り行きを見守っていた野次馬たちの中からパラパラと拍手が聞こえ始めた。
「ビビ、愚かな私を許してくれますか?」
「当然ですわ」
「では、私と結婚してくださるんですね?」
「喜んで!」
わっと大きな拍手が上がり、若い恋人たちに祝福の言葉が降り注いだ。侍女は、信じられない光景に放心している。あそこから持ち直すこと、あるんだ?
「私、本当は日に3回はお手紙を書きたいんです」
「そんなにいただけるなんて、嬉しいです。私もたくさんお返事を書きますよ」
「ほんとに? 便箋30枚使っても宜しいですか?」
「ええ、私も同じ量お返しします」
「嬉しいわ! 絶対ですよ!」
「私も、もっとお顔を拝見したいんです。何も約束が無い日でも、例えば貴女の参加されるお茶会への送り迎えだけでもさせていただきたい」
「よろしいんですか? 私だって毎日お会いしたいです」
「どんなに些細なことでも私に頼って欲しいと思っています。貴女のためなら青い薔薇だって作ってみせます」
「私も、どんな些細なことでも貴方のことは何一つ漏らさずに知りたいのです。どの位置から櫛を入れるのか、眠る時の手足の配置まで、全部」
「何でも聞いてください。包み隠さずお伝えします」
「私も、何かあればすぐにアルにお伝えしますわ」
「ビビの力になれることこそが私の喜びですよ。朝お話した赤薔薇の温室は、何れプレゼントする予定だったんです」
「まあ! 赤薔薇一杯の温室なんて、素敵な贈り物だわ」
「それに、結婚後の夫婦の寝室も実は内装のカタログを20冊ほど取り寄せていて、是非好きなものを選んでほしくて」
「私の好みに合わせて下さるの?」
「当然です。ビビが喜んでくれることが私の幸福ですから」
「じゃあ、今この場で一つ約束して下さる?」
「ええ、仰ってください」
「私が傍にいる時は、金輪際他の女に目移りしては嫌よ」
「はい、お約束します。絶対に」
拍手は徐々に小さくなり、やがて止まった。何か、それでいいのかな? 本人達は幸せそうだけど、何か、問題あるんじゃないかな……? 野次馬たちの表情にはそんな戸惑いが含まれていた。
侍女も、首を傾げた。まあ、お嬢様には似合いのお相手だと思うけれど。なんだか、この二人セットにしておいたら暴走しそうじゃない? などと考えて。
なお、侍従は人だかりの中にベスの親が混ざっていたので事情を説明するのに必死でそれどころではなかった。
リード侯爵とルノー侯爵夫人は激怒していた。
理由は簡単、ある日のデートから帰宅した我が子に一日も早く結婚したいと急かしに急かされ、前代未聞の突貫作業で結婚式の準備に追われることになり満足な睡眠がとれていないからである。
それでもなお待ちきれないとそわそわする息子・娘に常識で考えろ、貴族の結婚を何だと思っているんだ! と怒鳴り散らしたのは言うまでもない。
対戦結果:イーブン




