千年無量 大願成就…昇(72文字)
花子は、初めての男の子の出産を控え、幸福の絶頂にいた。
しかし、その幸せは、夫・太郎の母、フクヨによって一瞬で崩れ去った。
フクヨが最近傾倒しているのは、テレビの情報番組でお馴染みの超有名占い師「ミセス・エンゼル」。
彼女の主張はこうだ。
「名前の長さが、命の長さであり、福の量である」
ある日、フクヨが誇らしげに持ってきた『命名の紙』を見た花子は、椅子から転げ落ちそうになった。
「花子!この子の名前よ! ミセス・エンゼル様が孫の『未来永劫の幸福と長寿と財産』を願って、特別につけてくださったの! 絶対に一文字も削ってはダメよ!」
命名の紙には、黒々と墨で、常軌を逸した文字の羅列が書かれていた。
命名:
千歳無量 大願成就 満願成就 天衣無縫 不老不死 永遠長久
一富士二鷹三茄子 四つ葉五穀 六瓢息災 七福招来 八方美人
九重花車 百花繚乱 千客万来 満月 昇
「……おかあさま。これ、何文字あるんですか? というか、最後の『昇』だけが名前で、あとは全部、意味ですか?」
「違うわ!これが全部名前よ!72文字! このすべての福徳を背負って、この子は昇っていくの! フフフ!」
「冗談じゃないわ! この子がいじめられたらどうするの!? 私は絶対に認めない!」
花子とフクヨは激しく口論になったが、太郎は母親の顔色を見るばかりで、いつものように目を逸らすだけだった。
産後の療養で花子が入院している間に、フクヨは太郎を急かした。
「早く届を出しなさい! 花子さんなんて放っておけばいいの! あの女の運命より、孫の運命が大事よ!」
押し切られた太郎は、フクヨとともに市役所の戸籍窓口へ向かった。
「す、すみません。出生届を…」
戸籍係のベテラン職員・田中は、枠外にまで文字がはみ出している届出を見て、思わず目を疑った。
「あの…お客様。申し訳ありませんが、このお名前は受理できません」
田中は冷静に告げた。
「戸籍法には名前の文字数に関する明確な制限はありませんが、社会生活上支障をきたすほど長大な名前は、戸籍事務の適正な執行を妨げるとして拒否されるのが通例です。
また、この72文字という長さは、全国の行政システムで管理が不可能です。」
「システムの貧弱さが、この子の幸福を阻むと言うの!?」
フクヨは顔を真っ赤にしてテーブルを叩いた。
「名前をどうつけるかは親の権利よ!? 最高の福徳を背負わせたいという思いを、役所が阻む権利があるの!? 税金泥棒!!」
周りの市民が振り返り、騒ぎを収めようとする田中。しかし、上司の返答は同じだった。
その日、フクヨは太郎を連れ、『出生届不受理処分に対する審査請求』の準備に入った。
訴えは瞬く間に全国ニュースとなった。
「七十二文字ネーム騒動」
「名前の自由はどこまで許されるのか」「親権と社会通念の衝突」として、連日ワイドショーが取り上げた。
フクヨは取材に堂々と応じた。
「この名前は、ミセス・エンゼル様が孫に授けてくださった福徳そのもの!
日本の戸籍が、この子の輝かしい未来を拒んでいるのよ!」
世論の大半は「長すぎる」「子供がかわいそう」だったが、一部に「親の命名権を尊重すべき」との声もあり、フクヨは自分が『戦う英雄』であるかのように錯覚していった。
一方で太郎は、
「母さんが正しいなら……それでいいけど」
と、妻の気持ちから逃げ続けた。
花子は絶望した。
問題は名前そのものよりも、
母親の支配に屈し、妻と子の未来を守れない夫の姿勢だった。
「……勝手に子の運命を決めて。もう、無理です。あなたたち家族とはやっていけません」
花子は息子を抱きしめ、太郎に告げた。
「離婚します」
太郎は抵抗したが、フクヨが「そんな勝手な女は出て行け!」と言い放ち、結局太郎は母の側についた。花子は一人出て行った。
そして『出生届不受理処分に対する審査請求』の裁判の結果は、市側の勝利だった。
判決はこう断じた。
「本件の名前は、子の社会生活を著しく困難にし、命名権の濫用にあたる」
しかし、フクヨの暴走は止まらない。
「戸籍で負けたっていいわ! でも、私が孫をフルネームで呼ぶのは自由よ!」
保育園では、担任に詰め寄った。
「必ず!千歳無量 大願成就 …… 満月 昇くん、と呼んでください!」
もちろん園は拒否したが、フクヨは毎日乗り込み、園児にまで長大ネームで呼ぶよう強要した。
子供たちは困惑し、太郎は職場で『72文字親父』と噂され、
昇は次第に孤立していった。
しかしフクヨは、
「これも福徳を背負う者の試練よ!」
と強弁した。
ある日、太郎が実家を訪れると、フクヨはテレビにかじりついていた。
画面にはミセス・エンゼルの特番。
「見て太郎!きっと昇の福徳が増す秘儀が…!」
しかし流れてきたのは、予想外のニュースだった。
「速報です。人気占い師『ミセス・エンゼル』こと岸田正子容疑者(55)が詐欺および脱税の疑いで逮捕されました」
フクヨは持っていた茶を落とし、震えた。
ニュースは続く。
「長い名前は目立って宣伝になる、と供述しており、福徳とは一切関係がないと認めています。命名に使われていた言葉は“縁起の良い単語の適当な羅列”であり、深い意味はありませんでした」
警察が押収した命名書の山が映し出され、その一番上にはこうあった。
『命名:千歳無量 大願成就 …… 満月 昇(見本)』
それは、フクヨが花子に見せたものと、完全に同一だった。
大量にコピーされた「見本」。
それが『特別な命名』の正体だった。
フクヨは膝から崩れ落ちた。
太郎は、テレビをじっと見つめながら悟った。
子供の幸福を願ったはずの名付けが、
その未来永劫の幸福と長寿と財産を奪い去った。
残ったのは、
詐欺師の作り出した、家族崩壊という名の『見本』だけだった。




