百の足
背中に、虫の這うような感覚を覚えた。
無数の足が、今もなお絡みつくようだった。
冷たさだけが、現実だった。
反射的に体を起こし、息を整えながら階下へ向かう。
廊下の板は夜の冷気を吸い、ひどく冷たかった。
下着姿のまま、足の裏から熱が抜けていく。
できるだけ床に触れないよう、大股で足先を動かしながら急いだ。
手すりに触れる指先の冷たさに、思わず肩が小さく震えた。
階下に降りると、リビングに姉の姿が見えた。
正確には姉であったはずの死体である。
見渡すと、ほかにも死体が転がっている。
血は乾きかけていて、鈍く光を返していた。
鼓動が頭まで伝わった。
声を出すことができなかった。
ソファーに女がいた。
足を組み、片手で髪をいじりながら、ゆっくりとこちらを見た。
「起きたんだ。おはよう。」
その声を聞いた瞬間、思い出した。
この女は、俺が自分で家に連れてきた。
「誰にも見つからない夜」を味わいたいなんて、くだらない理由で。
けれど、なぜ姉が――
リビングの隅で倒れている。
そしてその背に、ナイフが刺さっている。
その声は、朝の挨拶のように穏やかで、怒りも焦りもない。
ただ静かに響くだけの平然さが、何より恐ろしく思えた。
俺は何も言えなかった。
目は女を捉えたまま、頭の中ではこれは現実かという問いだけがぐるぐる回っていた。
女は立ち上がらず、まるでこの光景が日常の一部かのように、ゆっくり微笑んだ。
「どうしたの? そんな顔して。」
その笑みが、あまりにも自然で――逆に不気味だった。
たぶんその瞬間、俺は悪魔という言葉を思い出したのだと思う。
気づけば、手が勝手に動いていた。
姉の背に刺さっていたナイフを抜き、女に歩み寄る。
女はわずかに首を傾けた。
その仕草は、まるで「待っていた」とでも言うようだった。
俺は女を押し倒した。
馬乗りになって、何度も何度も刃を突き立てた。
血が跳ねるたびに、息が荒くなり、音もなく夜が崩れていった。
女はふっと笑みを消した瞬間、空気が一瞬だけ止まったような感じがした。
そして、もしかしたら起き上がるのではないかと思い、一分ほど見下ろしていた。
血の乾いた感触を指先で確かめると、そのまま手を洗いに行った。
短い廊下を進み、父の体をまたいで風呂場へ入る。
冷たく伸びた父の足の横を跨ぐと、胸の奥がぎゅっとなったが、
動作は無言で淡々としていた。
蛇口をひねると、水が生々しく流れ、赤が小さく流れて消えた。
水音が止まった瞬間、蛇口の金属面に映る自分の顔が、女のそれに見えた。
不気味に思い、急いで手洗い場から去った。
静寂が戻ったあと、俺はただ立ち尽くしていた。
まな板の上には、不安定な断面のリンゴが置かれていた。
鮮やかすぎる赤が、じわじわと黒くなっているような気がした。
ふと、喉の奥が重くなる。
昨夜の記憶を掴もうとしても、指の間からこぼれていく。
女の笑い声だけが耳の奥に残っている。
俺は、いつから眠っていたのだろう。
指先に、また虫の這うような感触がした。
呼んでくださり、ありがとうございました。
これが夢であるのならどれだけよかったことだろう。




