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 死んでいた。高校2年生の夏休み。


 ただ、恐怖を感じていることしか出来なかった。

 九年前、暑い夏の夜、妻が夜逃げした。


 私は妻のことを何でもわかっているつもりで本当はなにもわかっていなかった。だから、妻が夜逃げをした理由がわからない。予想することしかできない。そのとき、妻に不倫相手ができて、そいつと一生を添い遂げたいと思ったのかもしれない。子供は産みたくなかったのかもしれない。僕が悪かったのかもしれない。と思った。仕事にかこつけて、家に帰るのはほとんど毎日、夜10時過ぎだったから。


 でも、夜逃げをしたと言っても、おかしなところはいくつもあった。

 妻の所持品は一夜で全て消え去っていたが、私との関係を断ちたいのなら、離婚届を置いてから出ていくべきだし、結婚指輪、婚約指輪を置いて出ていくべきだったが、妻との社会的繋がりだけは残されていた。

 だから、妻は私たち2人のもとへ帰ってくるかもしれないと、いつまでも心の片隅で期待していたのかもしれない。


 それからずっと娘と二人暮らし。

 当時娘は8歳、娘に、なんでママはいなくなったと思う。なんて聞かなかったし、その質問も聞かせたくない、答えさせたくなかった。


 妻が夜逃げをして数日後、娘は熱を出した。無理もない。妻はいなくなって、今まで妻がやってくれていた料理、洗濯、掃除は全て私がやることになった。慣れない、今までやったことのないものにてんてこ舞いになって、私は物に当たってしまい、娘をひどく怯えさせたことを覚えている。

 私は妻と結婚するまで実家暮らしで、家事は母や、家に来てくれるヘルパーさんがやってくれていた。そして両親が事故で亡くなり、同時期に妻と同棲するという話をしていたので実家を出て、家事は妻がやってくれていた。

 娘はまだ幼く、掃除はできても料理、洗濯は任せることはできないと思い、私は家事をするために、早く出社して、早く帰ってくることにした。


 その生活に慣れるのに、2,3ヶ月はかかった。その期間に娘は何度も体調を崩し、辛い思いをさせた。

 夜寝ている時、寝言ではお母さん。とずっと呟いていて、申し訳ない気持ちに苛まれていた。


 妻からは連絡も何もなかった。

 妻の電話番号は電話帳に記録されたままだったが、電話は掛けなかった。いや、掛ける勇気がなかった。


 涼しくなってきて、妻がいない家の状態にやっと慣れきってきた時、妻が居ない娘と二人だけの寂しさを紛らわそうと娘に遊園地に行こうと誘った。その遊園地は娘が幼稚園を後少しで卒園するとき、お祝いとして家族三人で行ったきり。娘は拍子抜けしたような、とにかく驚いたような顔をしたが、久しぶりの、何ヶ月ぶりかのとびきりの笑顔で、行こう。楽しみだなぁ。と言ってくれた。

 そして遊園地の遊具に一通り乗り終わって、木陰のベンチで休んでいた時、娘がポツポツと話し始めてくれた。


「じつはね、私ね、ママがおうち出ていっちゃうこと、わかってたんだ。ママに、おうちを出てしばらく旅行しようと思うけど、いっしょに行く?ってきかれたの。でもね、私ね、かえってくるんだったら、私はおうちでまってるよっていったの。」


 私はなぜ娘がこの話をしてきたのかと思って、妻と一緒に家を出て行けば良かったと思い始めたのかと思い、知らず知らずのうちに身構えていた。


「ママと一緒に、旅行に行きたかった?今からだったら、追いつけると思うよ。」


 私は妻が娘のことが邪魔になったのではないと確信し、聞いた。


「ううん。いっしょに行きたかったんじゃないの。ママね、私が行かない。っていったら、パパが、ママがいなくなってさびしがるとおもうからずっといっしょにいてあげてね。っていってたの。それとね、あのね。」


「うん。」


 娘が口ごもる。


「…あのね。ママが、いなくなったからって、私とパパのこと、わすれるわけじゃないよって、ここからいなくなっても、おぼえてるよって、いってたの…」


 娘は今にも泣きそうだ。そんな娘の腰を抱いて、引き寄せる。

 娘は幼いながらもその妻の言葉でここで別れたらもうずっと会えないと悟ったのだろう。賢い子だ。

 私は娘にどんな言葉をかけてやるべきかは分からなかったが、ママはお前があまりにも賢い子に育ってしまったから、そのことに驚いて、もっと教える事を探しに長い旅行に行ってしまったのかもしれないね。と言った。娘は本格的に泣き出してしまった。

 そのまましばらく園内の様子をぼうっと眺めていたが、いつの間に泣き止んでいた娘が、これからパパが寂しくならないように、ずっと一緒にいるね。と言ってきた。私はどっちが親かわからないなと困って笑った。

 そして私は、妻のことをなにもわかっていなかったことを大変、後悔した。


 それを境に娘は料理を手伝ってくれるようになり、洗濯機の回し方、干し方、畳み方を覚え、そして半年もすれば私よりも料理ができるようになっていた。始めて娘が夕飯を全て作ってくれた時、夜中に感動で泣いてしまった。

 娘自身が料理を作っているからか、娘は好き嫌いをしなかった。逆に、私の方に合わせてもらっていて、そのことに気づいた時、少し大人げないような、恥ずかしい気持ちになった。


 そんな娘にも、嫌なことができたらしく、小学校高学年、中学生になる頃には、私と一緒に出かけたくないようだった。気持ちは分からなくもない。私も小学校高学年ごろになると、親と一緒に買い物に行くのが恥ずかしくなり、友達と遊ぶようになった。だが、娘はどうやら私のそれとは違うようで、父・親・と・、父・親・だ・け・と買い物をするのが嫌なようだった。だから私はスーパーには娘がメモをしてくれた紙を持ち一人で行き、大型ショッピングモールには娘に洋服など日用品、嗜好品、好きな物を買うようにと大きいお金を持たせ、別行動をした。

 そして、高校生になった時、無駄遣いをする事はないだろうとクレジットカードを持たせた。


 娘に生理が来てしまった時は、大変驚いた。妻も生理は辛いと言っていたが女性のことなので深く聞くことはしなかった。だから何もわからず走ってドラックストアに行き、生理用品だとわかる物を片っ端から買ってきて、父さんは何もわからないから、一応ナプキンは買ってきたけど、他に欲しいものがあったら自分で買うようにして、お金は渡すから。と言っといた。あまりにもたくさん生理用品を買ってきたので、こんなにいらないよ。と言われたが、でもありがとう。と言ってもらえて、一安心した。

 後から聞いた話で、初経を迎えた日はお赤飯を炊くと言われたがもう2年は経っていたので、今更やるのもと思い、聞かなかったことにした。


 娘の学校生活で困ったことは一つだけあった。それは学校行事だ。授業参観、運動会、それらは親が来るのは当たり前で、大体は母親が来ている。父親が来ている家庭は母親も一緒だし、父親だけというのはなかなか目立った。娘は来て欲しそうな、来て欲しくなさそうな雰囲気で、毎度恐る恐る私に、来る?と聞いてきた。その度に私は、娘が気まずくならないんだったら。と言っていた。

 小学校の運動会はお昼に母親が三段弁当とお菓子を持ってきていて、家族みんなでお弁当を食べた後、生徒同士でお菓子を交換するというのが定番だった。人気のない体育館の前で二人で久しぶりに私が作るお弁当を食べ、交換用のお菓子を渡す。

 すると娘は運動会が終わった後、交換したお菓子の中で1番良さそうなお菓子を必ずくれた。渡される時にはいつも、お弁当作ってくれてありがとうと言ってくれた。みんなの家族のお弁当はキャラクター弁当。いわゆるキャラ弁で、私が作ったお弁当は大体茶色弁当だったのに。

 中学に上がると、授業参観、運動会などはそれぞれ1回ずつ、チラッと見ただけだった。


 娘はとても優秀らしく、三者面談でも成績がずば抜けて良いと先生には毎回褒めてもらっていた。その度に、私は娘にスーパーでケーキを買ってやった。

 小学校から高校まで年に2回、娘にケーキを渡して、娘はそのケーキを両手で受け取って、ありがとう。と照れ隠しで微笑んでくれた時は疲れが全て吹き飛んだ。


 高校生に上がる頃、父さんと二人暮らしは嫌だろうし、学校近くのマンションにでも一人暮らしするか。と聞いてみた。でも、お父さんの夕ご飯は誰が作ることになるの。私はここにいるよ。と言ってくれた。

 ろくにかまいもしなかったのに、なんてできた娘だろうと泣きそうになった。その返事は冷たくなってしまったが、すごく嬉しかった。


 娘の高校選びはさほど苦労しなかった。娘の偏差値は60前半くらいで、高校もそのくらいのところに通うと言い、最寄駅から電車で30分、駅から学校まで歩いて15分くらいの進学高に通うと言った。少し遠いんじゃないかと思い、そのことについて話したら、行きはお父さんと電車に乗って行くから遠くない。大丈夫。と言った。確かに、学校と私の勤めている会社の方向は一緒で、乗る電車の時間帯も被るようなので女子高生になって痴漢されるとかそういう事件が防げるからいいと思ったが、それよりも娘から私はどんなふうに見えているのかと、そんなに頼りなく見えているのかとガッカリした。

 そして、高校は友人と一緒に行くものだろうと話したら、同じ高校に行く友達がいなかったんだよね。と言われた。これは後から気づいたことだが、娘は私と同じタイミングで学校に行くとだいぶ早い時間帯らしい。娘はなぜ私と一緒の時間帯で学校に行くと言い出したのかは謎だが、理由は聞かなかった。

 ただ、昔言ってくれた、私が寂しくならないようにずっと一緒にいる。という約束を、今でも忘れず覚えていてくれてるんだと思った。


 高校に入学しても、娘は特に何も変わらなかった。強いていえば、高校に入って小、中学校の友人と離れてしまい、同級生とほとんど遊ばなくなってしまったことだった。高校に入ったら気の会う友人が少しでも見つかるかと思ったが、どうやらそのような人はいなかったらしい。同郷の友人とたまに遊びに出かけていたので、そういうこともある。大学で良い人がいるだろう。と特に気にしていなたった。

 そしてもう一つ、一緒に電車に乗っている時、スマホを見ては少し表情が曇っていたことが多々あった。


 娘は歳を重ねるにつれ、自室にこもっている時間は多くなっていたが、子供とはそうやって親の手元から離れていくものかと思い、特に気にしていなかった。勉強も、家のこともやるべきことは全てしてくれていて、逆に私は娘に任せすぎなのではないかと思うところがあったため、何かやっている様子で家事ができなさそうな時には私がやっておいた。


 娘が亡くなる前日もおかしなところは何もなかった。いつも通り6時半過ぎには家に帰り、娘が作ってくれた夕食を食べ、私がお風呂掃除をして、風呂を沸かした。待っている途中に、アイスが無くなってきたから、明日仕事帰りに買ってくるよ。何がいい。と聞いた。娘はバニラアイスに餡子が包まれているものがお気に入りで、いつもと変わらずそれを買ってきてと言われた。




♢♢♢




 雷が鳴り響き、ゴロゴロと耳がうるさい。

 娘は雷は平気だったよなと記憶を辿る。こんなに鳴り響いていると恐怖感を覚えそうだった。


 天気がこれからもっと酷くなりそうだからと、上司が早めに仕事を切り上げて帰るようにと言ってきて、私は素直に帰宅することにする。


 電車を降り、気持ち早歩きで自宅へ向かう。

 今の時間帯は娘が夕食を作り始めている時間帯だ。


 自宅の鍵を開け、玄関のドアを開ける。部屋中に、うっすら、鉄のような、血液のような香りが漂っていた。


 ただいま。と、声をかけてみた。いつも言ってくれる、おかえり。という返事がない。


 靴を脱ぐと同時に娘のローファーがあるのを確認する。娘はこの家に帰ってきている。


 雷がけたたましく鳴り響いてる中、嫌な予感が朝からしていたと、全身から脂汗が出てきていた。

 

 駆け足でリビングの方へ行く。娘はいなかった。


 娘の自室の方へ行き、ドアをノックする。返事がないため、そっと部屋の扉を開けてみたが、娘は部屋にはいなかった。


 もう一回リビングへ戻り、キッチンの方を見ているが、いない。


 私の自室へいるかと思われたが、娘は私の断りもなしに部屋に入ることも、そもそも私の部屋に入る用もないので、確認はしない。

 後はトイレと浴室だけだった。


 トイレの鍵は掛かっていないため、誰もいないことがわかるが、念のため中にいるのか確認しておくが、いなかった。


 とすると、残されたのは風呂場、脱衣所と浴室だけだった。

 今の所、廊下が1番血液の香りが濃い。


 脱衣所の扉を開けてみる。すると、より一層濃い血液の香りが充満していた。

 もう一つ、脱衣所から浴室に続くドアをそっと開けてみる。


 すると、血液のより一層重たい思わず吐きそうになるまでの香りが押し寄せてくる。

 その瞬間、私と娘以外の家中の扉が開けっぱなしにされていた為、私と娘の部屋以外の家中がその香りになったのがわかった。




 娘は浴槽の水にカッターで深く切った傷口のある手首を浸し、息耐えていた。


 私はそのひどく血の気が失せたような、真っ白な娘を見た時、何も考えられず、一年とも、10年とも思えるような時間、立ち尽くしていた。


 はっと私が我に帰った時、救急車を呼ぼうとズボンのポケットから携帯電話を取り出す。


 119の番号を押し、発話ボタンを押そうとした時、家の呼び鈴がなる。

 私は携帯電話をギュッと力強く握ったまま、玄関扉を開けた。

 相手は隣の部屋のおばさんで、娘より3歳年上の男と女の子供がいる。


「ちょっとどうしたの?いつもより少し早く帰ってきたと思ったらどたどた部屋の中走り回って、その音が止んだと思ったら急に叫び声が聞こえるんだもの。うるさいわよ。どうかしたの?」


 私はその言葉を聞いて娘がどんな無惨な姿になっているのかも知らずにと気持ちが昂り、「何でもないです。関係ないことなので」と言おうとしたが、なかなか声が思うように出ないので、私が無限と思えるような時間を立ち尽くしていた時、ずっと叫び続けていたのだと理解した。


 少し咳き込んで、声が出そうなのを確認すると、一応心配してくれたおばさんに、「娘が大変で。」とだけ言って、ドアを閉めた。


 そうして脱衣所の前の扉まで行き、119と打っておいた携帯電話の発話ボタンを押した。



 どきどきと自分の心臓がいつもとは比べ物にならないくらいに早く脈打っている。


 私の今まで娘のために、娘ただ一人のために生きてきたこれまでの時間が、今にも崩れかけそうで、全て消えてしまいそうで、娘がこの世界に少し前まで生きていた。存在していたということが、なくなりそうで、ただただ、恐怖に怯えていた。


 そして、今年の夏では1番強かった夕立に襲われた。




♢♢♢




 娘が死んだ状態で見つかった日を含めて三日間、私はぼうっと心のどこかで、娘のことを考えていた。


 救急隊が来た時、死後硬直をしていてすぐに死亡確認され、警察に引き継がれた。その時に警察からは自殺と他殺両方の可能性があるとされ、事情聴取で夜更けまで拘束された。

 そして、自宅近くのビジネスホテルを取り2時間だけ寝た。


 起きたら頭は思いのほかスッキリしていて、こんなに冷静でいられるほど私は冷たい人間だったのかと自己嫌悪に陥った。


 そして私は昨日の出来事を反芻する。

 自殺と考えるにしては、物語でよくあるような遺書がなかった。

 他殺と考えるにしては、抵抗した跡がない。

 どちらに考えるとしても、おかしなところはいくらでもあった。なにしろ、私の知る限りでは娘が死ななければならないという理由がなかった。


 私は妻に電話して、娘が死んだと、伝えようと思い、携帯電話を手に取る。すると、警察の方から、事情聴取があるから署に来てくれと連絡があった。


 刑事から娘の交友関係、前日から、最後に話した時の様子、違和感に感じたことをもう一度訊かれ、そして、なぜ9年前から妻と別居しているということを警察に話さなかったのか訊かれた。私は、突然妻に夜逃げをされて、でも、なぜ社会的関係は繋がったままなのかわからなかったから。と答えた。私はその刑事に、娘の交友関係もよく知りもせず、娘の違和感にも気付かず、妻に夜逃げされた理由もわからない、情けない男だと思われただろう。だがそんなことはどうでもよかった。情けない事は事実だし、全てを知って絶望する勇気もない男だったから。

 ただ、妻は人生のパートナーとして、妻のことをなにも知らなかったことを後悔したが、娘のことをなにも知らなかったこと、それはやむを得ないと思っている。

 確かに私は妻と違ってあの子と九年間一緒にいたのだから、娘のおかしな行動、表情についての訳は聞けなくはないが、男と女で性別が違うのだから、同姓には相談できても異性には相談できないことなどごまんとあるだろう。私は娘の悩み事を無理やり聞き出して無理やり相談に乗ってやると言うようなことはしたくもないし、それで娘に嫌われてしまうことはあってはならなかった。それでもし、私から離れて暮らしたいなどと、娘の口から聞くことになるのは避けたかった。

 知ることに対して臆病だった。臆病になりすぎていたのかもしれないが、私は妻が突然いなくなった悲しみの傷は、治ったように見えて、その傷を見てみぬふりをしていただけだったのだ。だからまた私から娘という大事な存在を失ってしまうのは耐え難いものだった。


 私は事情聴取を終えた時、刑事に妻に娘が亡くなったと連絡を取ろうとしていることを伝えた。

 そして私は刑事から、妻と娘は連絡を取り合っていたのかと訊かれたが、私の知る限りその様子はなかったが、しようと思えばいつでもすぐできるということを伝えた。


 ビジネスホテルに戻ろうとしたが、私は気を散らそうとして歩いて最寄駅に向かう。そして歩きながら妻に電話を掛けた。


「…もしもし?」


 9年ぶりに聞いた妻の声は前と何も変わっていなく、変わってしまったのは私の周りだけだったのかと錯覚しそうになった。

 私が何も答えないから、妻が口を開く。


「どうしたの?いきなり電話してきて。」


 私は今になって娘が亡くなったことを妻にいうことが憚られた。だが、公的に関係を持っている以上、娘が亡くなったことはいずれ知ることになるだろう。今伝えなければ、どうしてあの時教えてくれなかったんだと妻を怒らせる。


「娘が、亡くなったんだ。」


「…は?」


 予想通りの反応だ。妻は今、何の冗談を言っているのかとイラついている。


「今は警察が自殺か他殺かどうか捜査している。」


「何の冗談?つまらないわよ、それ。」


 妻は私と同じく、娘がこの世からいなくなってしまうことを信じたくないようだった。


「まだ同じアパートに住んでいるから、そこまできてくれると嬉しい。三日後には、娘の葬儀をしたいんだ。」


「…そう。聞きたいことはたくさんあるけど、まずはそっちに行くわ。直接話したほうが早いでしょう。」


「ああ、わかった。アパートの駐車場で待ってるよ。」


 電話越しに、妻が外出の準備をしているのがわかる。


「1時間もすればそっちに着くわ。」


 プッ…


 妻と久しぶりに話して、私は本当に妻が娘のことを忘れようとして離れたのではないと、やっと信じられた。

 特に思うことは何もなかったけど、娘と2人過ごした時間は無駄なものではなかったのだ。私はそのことに安心した。


 そのまま最寄駅まで歩き、Uターンしてアパートに向かった。

 署から最寄駅まで歩いて30分かかり、最寄りから自宅まで15分かかる。少しゆっくり歩けば、ちょうど妻と落ち合えるだろう。




 アパートの駐車場に着いた時、もうすでに妻が駐車場にいた。

 スズキのKeiに乗っていて、私を見つけると睨んでいるのか、鋭い目つきで私を見てきた。


 車に駆け寄り、助手席に乗り込む。


「随分早かったね。スピード出すと危ないよ。」


「変わらないわね。ずっと。」


「そうだね。みんな、ずっと変わっていなかったのかもしれないね。」


「それで?なんで娘が死んでしまうようなことになったのよ。」


 妻は足を組みなおし、前だけを見ていた。


「わからないんだ。遺書もないし、部屋で争った形跡もない。でも娘が事件事故に関わるとは思えないんだ。そんな様子もなかったし。」


「そう。あなたを…、まあいいわ。あなたがそう言うのならそうなんでしょうね。」


「私が気づいてやれなかったから、娘が死ぬようなことになったとは思わないのか。」


 私はどきどきして聞いた。


「そうね。思ったわ。だけど一瞬。」


 妻はこちらを見た。


「あなた、ずっと勘違いをしているようだけど、私のこと1番わかっている人って、あなたなのよ。そして、娘のこと1番わかっている人って、きっと、あなたよ。」


「それはないだろう。」


 妻は前に向き直った。


「あるわ。そんなあなたが、娘が死んだ理由が分からないって言うのなら、きっと、この世の誰にも分からないわよ。」


 私は妻のその言葉を聞いて半信半疑だったが、妻が言うのだったらそうなんだろうと聞き流すことにした。


「それじゃあ。家の中に入らせてもらえるかしら?」


 妻は車を出て、アパートの階段を登っていく。私も後についていった。

 中にいた刑事さんに、妻です。と知らせる。2人は挨拶をして、刑事さんは妻に一つ、聞いてきた。


「家を出てから、娘さんと会った事はありますか?」


「いいえ、九年間一度もありません。中に入っても良いですか。」


「ええ、どうぞ。中のものには触れないでください。」


 妻は、わかりましたと言いながら、ずかずかと室内へ入っていく。


「遺体は署の方で預かってあります。現時点では自殺の可能性が高いとみて捜査をすすめていて、明日にはご遺体の返還が許可できるかと。」


「そうですか…」


 その時、妻は顔だけ私の方を向き、顔色を伺ったような気がした。そして、浴室、リビング、私と娘の部屋を順番に見た後、さっさと家から出ていってしまい、私は警察の方達にお願いしますと声をかけ、アパートの駐車場の方へ向かった。


 妻はため息をついている。


「本当に、何も変わっていないわね。」


 妻は部屋の中を見て、そう言ったのだろう。9年前とは家具の配置も、ほとんど変えていなかった。


「あなた、刑事さんの言葉を聞いて、娘が自殺したって納得していないでしょう。」


「ああ。」


 娘は自殺ではない。誰かに殺されたんだ。

 私もありえないことを思っているとは思うが、何となくそのような気がした。根拠はない。


「今、どこのホテルに泊まっているの?そこに泊まるわ。」


「アパートに1番近いビジネスホテルだよ。一緒に泊まるの?」


「ええ。今あなたを1人にしたら、そのまま逝っちゃいそうだわ。すごいくたびれてるわよ。」


 娘にも同じようなことを言われたような気がしたなと、私はどんなに頼りなく見えているのかと少し落ち込んだ。

 妻が車の運転席に座ろうとしたので、追いかけて声をかける。


「私が運転するよ。」


「あら。あなた、運転できたっけ?」


 そう聞かれるついでに、上から下まで見られた。


「できるよ。ペーパーだけど。」


「そう、久々なんじゃない?心配だわ。」


 そう言いながらも、妻は助手席の方へ行き、車に乗り込んだ。

 エンジンをかけ、ホテルの方に出発する。




「あら。おはよう。」


「おはよう。」


 昨日は本当に私と部屋を一緒にしようとして驚いた。

 部屋に着くと、私に早く寝るようにと睡眠サプリを渡された。よく眠れないのかと聞くと、色々あるのよ、私よりあなたが寝なさい。とはぐらかされた。


 妻が聞いてきた。


「今日はどうするの?」


「もう捜査が終わると思うんだ。連絡を受けたら、葬式の準備をしようと思って。担任の先生に、娘が仲良くしてた友人も聞きたいんだ。」


「そうなのね。準備は私がするわ。お金も全て出させてちょうだい。」


「わかった。」


 私は最後まで娘の面倒をみてやりたかったが妻の方が、いなかった分面倒をみてやりたい気持ちが強いのかと思い、葬儀の希望のかたちだけ言って、後は全て任せることにした。




♢♢♢




 これから娘の葬式だ。これで、娘の父として、娘にしてやれる事はほとんど無くなってしまう。


 死んでいる娘を見た瞬間は恐怖感しか覚えなかったが、今はもう、娘がこの世から完全に消え去ってしまうという感情に、片がついている。娘との思い出は、この私の記憶の中に、ずっと生きている。


 式場の駐車場で物思いにふけっていると妻が後ろから近づいてきた。


「なにぼけっとしてるの。はやく行くよ。」


 そう言うと妻は建物の中へと入っていく。


 私は目を瞑り、一つ深呼吸をする。また目をひらいて、建物の中へと入っていった。

 どこかで雨が降っているのか、涼しく湿った風がそよそよと吹く、夏の夕方だった。

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