アタシと死にかけの……
ぴちょん、ぴちょん……水が跳ねる音がする。
「…………」
アタシは土壁に背を預けたまま、薄目を開けて音の発信源を見た。
シンクにうず高く皿が積まれている。危うげなバランス。未来という虚空に飛び出しかけた皿は、ピサの斜塔によく似ていた。似ていないのはこの状況になんの学術的価値もないという点だけだ。
宙に半ば浮いた皿から落ちる水滴――これを〝動〟とするなら、隣に妖しく鎮座する〝静〟もまたあった。
夏場。エアコンなし。作ってから三か月経過したカレー鍋である。作るときは勢いでやれたものの、田舎仕様のどでかい鍋で作ったカレーを食べきることはできなかった。
そのうち、見るのが嫌になった。
そうして、見ないふりをしている内に、カレーは食物の気配から禍々しい何かへと変わっていた。
数日間、薄く開けたままの窓から、細い風が吹き込む。
居間に置かれた紙幣がかさかさと震えている。家賃だ。お金はあるのに、どうしても隣の大家に渡しにいく元気がない。
――なにか、アタシにも、分からないけれど。
時々こうして動けなくなってしまう。
水もしばらく飲んでいないから、唇も渇ききっていた。
ひび割れ、薄く避けた唇から、ほんの少し血の味がする。でもそれも、少しずつ味が薄まっているような気がした。
命というものが擦れた時。
風によってはためく儚い音を最初に聞きつけるのは、虫らしい。
丸い小さな虫が、アタシの顔をよじ登っている。自分より何百倍も大きい、小山のようなアタシを登り、登り、そして瞳の前で止まった。
虫には小さな咢がついていた。それはほんのささやかな動きを繰り返している。
アタシは気づく。
――その虫は、アタシが死ぬのを待っているのだ。
あるいは、自分を吹き飛ばす力もなくなるのを、待っているのだ。
そしてアタシの柔らかな水晶体にささやかな歯を入れ、食い千切ってやろうと待っているのだ。
アタシの肌が泡立つ。
肌から千本の針が出たように、周囲のことに急に敏感になる。無数の埃、虫、風。
死に落ちるアタシに対して、世界はあまりにも――五月蠅かった。
そして、ああ、ああ……
――あと、なんにちか、このままでいれば。
たぶん死んでしまうのだろう――そう思った瞬間だった。
スパァン!
と玄関の引き戸が勢いよく開け放たれた。
久しぶりの陽光に目が眩む。大家さんかな。そう思って玄関を見ていると、少しずつ見え始めたシルエットが――売れないバンドマンのソレだと分かり始める。
「おぅおひさ! やっぱり死んどんなぁ! 元気ィ!?」
誰であろう、ロキ君だった。
ロキ君は大層できた化けカラスなので、いつも何かを見過ごしたようなタイミングで現れる。
でも、今日ばかりは本当に嬉しい。
彼の黒い長髪も、黒いコートも、性質の悪い悪魔のようないでたちが今日ばかりは、私を救う神様のように思われた。
彼は土間でロングブーツを脱ぐと、
「ほんまはもう少し早く来る気やってんけど、ほらあれやん、可愛い子には旅させろって言うやん? あんま早く来ても過保護かなぁてクッサ! この鍋クッサ!? は? なんなんこのカレー……カビの楽園と化してるやん!」
「……ぅ……2か月前……の……」
「そらカレーは寝かした方が美味い言うけども、二か月は寝かしたというより殺しとるんよ。永眠よ」
「……食べても……ぃぃよ……」
ロキ君は関西出身ではない。コテコテの関西トークを繰り広げるが、たまに詰めが甘いことがある。
それが今である。
「殺す気かァ?」
甘い、甘いよロキ君。
「――永眠と絡めて天丼のギャグとして完成させてほしか……った」
アタシがそう言いながら浅く目を瞑るのと、
「寝とけ」
ロキ君がタオルをアタシの顔に投げつけるのは同時だった。
☆☆☆
ロキ君はたいそう出来る化けカラスなので、時間と仕事の管理が抜群に上手い。
調理器具を手早く洗うとすぐに料理をはじめ、煮込む間に皿洗いを終え、換気し、ゴミをまとめ、大家さんと談笑しているうちに――手羽もとの煮つけができていた。
見計らったかのようにご飯も炊ける。
アタシの顔には、遺体にかける打覆いのように、四角く白い布が乗ったまま。
――アタシはたまに魂が抜けてしまって動けなくなる。
そうするといつも見透かしたように、お母さんか、ロキ君がやってきて面倒を見てくれる。
ありがたくて、安心して、少しだけ心に穴が空く。
誰かがアタシを助けてくれる度にハート型の生地を金型で抜くように、穴が空く。その穴からはアタシの心が薄ぺっらなものだということを酷薄に告げる――……
「飯食ってないときの考えなんて、カスッカスやで」
テーブルの上に料理の皿が置かれていく小気味の良い音が聞こえる。
「ロキ君」
ありがとう、なのか。
大丈夫、なのか。
なんと言ったらよいか分からず口ごもる。そしてしばらくの後、
「今日のご飯は、なに?」
アタシはお礼の代わりにそんなことを聞いた。
同時に、アタシはアタシを嫌悪する。
――どうして素直にお礼が言えないんだろう。
――何に恰好をつけているんだろう。
――消えたい。消えたい。
応えは返らない。
不思議に思って顔にかけられていたタオルをずらすと、ロキ君の姿はとうになかった。
ロキ君はたいそう出来る化けカラスなので、時間と仕事の管理が抜群に上手い。
彼はたぶん、アタシに気を使わせないために、音もなく去っていったのだ。
アタシは布団から出ると、ちゃぶ台まで這っていった。
ちゃぶ台の上に〝ほな、また!〟と書置き。アタシは軽く手を合わせて、みそ汁に口をつける。ほんのりと鰹節の香りがする。暖かいけど、熱くはない。
こういう時間の使い方をするカラスだった。
アタシが口ごもってありがとうと言えないのを見透かしたように、春の日差しのような温かさだけを残して去ってしまった。
――アタシは……、
|ほかほかと暖かな湯気を立てている手羽元をジップロップに詰める《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》。
冷蔵庫にいれるか冷凍庫に入れるかほんの少し悩んで、すっからかんの冷凍庫に入れた。
「ロキ君がアタシのためつくってくれた」
本当にうれしい。
料理って相手への想いが凝結したものだと思う。だから料理には愛情が必要なんて言うんでしょう?
こんな大事なもの、食べられないよ。
アタシは、相手がどうせ出ないと分かりつつ――ロキ君に電話した。
そして案の定繋がった留守番電話に、今更ながらに言う。
「ロキ君、ありがとう、ありがとう」
アタシはそれから何百回とありがとうを繰り返した。




