4.5 幕間 ~煩悩川 2/2
「ぶはっ」
隣で噴出す声がした。振り向くと、紫が片手で顔を覆い柵にもたれてお腹を押さえて震えていた。白い帯が汚れないだろうか?左江子は明後日の心配をした。
「左江子ちゃん、それは煩悩じゃないよ…」
目を片手で隠してくつくつと喉の奥で笑う紫に、左江子は困ったようにへにゃりと眉を下げた。
「そうは言っても、今一番気になってるのがこれなんです…」
左江子に心残りがあるとすれば、それはきちんとお礼が言えなかったことだ。普段から礼を伝えるようにはしていたが、とても足りないほどに伝えたい感謝があったのだ。
特に義娘には血も繋がっていないのにどれほど救われてきたか分からない。礼を言うと「止めてくださいお義母さん!元気になるのが一番です!!」と言って泣きそうな顔をするため、笑って義娘の厚意と好意を受け取ることくらいしかできなった。息子の幼馴染でもある義娘に、昔のようにもっと沢山抱きしめて、あなたが大切だと、感謝していると伝えればよかった。
そうしてそれは、きっと左江子が香子にしたいと思ったのと同じことだ。ほんの数刻の関りだったが、今思えば、左江子は香子が消えてしまう前に抱きしめて頭を撫でてやりたかったのだ。
「うんうん、そっかそっかぁ」
楽しそうに笑いながら紫が首を縦に振る。銀色の妖艶な美女かと思っていたら、実は中々の笑い上戸の明るいお姉さんだったようだ。
ひとしきり笑い、はーっと大きく息を吐くと、紫が言った。
「少しはすっきりした?」
小首をかしげて微笑む紫に「はい」と笑んで答えると、紫も「そっか」と笑みを深くした。
「それじゃぁ、すっきり叫んだところでカフェテリアの『おじさま』の珈琲でも飲みに行く?」
もたれていた柵から離れると、紫は「うーん!」と伸びをして言った。左江子としては願ったり叶ったりだ。それなりに歩いた上に本気で叫んだため、少々喉に違和感がある。
「はい、ぜひ」
「よし、じゃあ行きますかぁ」
紫がまた手を引いてくれる。その動きがとてもスムーズで、なるほどこれが案内役の人たちの手腕か…と左江子は感心した。自分もあと二人、相談員として頑張て導かねばならない。
紫も静も、もちろんカフェテリアの紳士も、実に人間として素敵だと左江子は思う。さりげない気づかいも、優しい笑みも、決して重くならないように差し伸べられるその手がどれほど温かいのか、紫たちは分かっているのだろうか。
「紫さんは素敵ですね。若ければ惚れそうです」
「そう?それは光栄」
いたずらっぽく笑う紫に手を引かれながら小道を歩く。チチチチチ…とまた赤い鳥が視界を横切った。
「そういえば、体の年齢も自分の好きな…というか、意識にある形になるんですよね?」
ふとした疑問を左江子は口にした。
「そう。特に体の年齢は、その人が一番動きやすかったり、好ましかったりする辺りに固定されることが多いかなぁ」
私もちょっと若作りだよ、と紫がくすくすと笑う。ちょっとの若作りとはどれくらいなのだろう。非常に気にはなるが、女性に年齢を聞くのは野暮なので左江子はその点に関しては沈黙した。
「そういえば、左江子ちゃんは亡くなった時とあまり変わらないよね?」
紫も気が付いたようだ。そう、左江子は若返りもせずしっかりと六十代の左江子なのだ。
「償い人は変わらない、とかあるんでしょうか…?」
「いや、そんなことは無いはずだよ。みんなこの地に立った時点でそれなりに変わるはず」
「ああ、一応、病気が進行する前の健康な状態にはなってるみたいです。年齢はほとんど遡ってないですが」
病気の症状が無いだけでも御の字なのだが、決して『動きやすい』年齢でも、『最も好ましい』年齢でもないと左江子は思う。立ったり座ったりするときにたまに膝と腰が痛むのは何とかしたい。切実に。
「ふーん…『償い』が強すぎるのかな…?」
紫が何事かを呟いたが、ざーっと強く吹いた風にかき消されて左江子には良く聞こえなかった。
「え?何か仰いましたか?」
「ううん、大したことは言ってないから、大丈夫」
気が付けば職員棟と執務棟を繋ぐ道まで戻っていた。カフェテリアまではもうすぐだ。左江子がちらりと腕時計を見るとちょうど十四時半を過ぎたところ。ティータイムにはばっちりだ。
「さて、今日の珈琲は何だろうね?」
紫が左江子を振り返り、ふふふと笑った。
「紫さんも珈琲がお好きなんですか?」
静も香子も。左江子がここに来てから共にお茶を飲んだ人はふたりだけとはいえ紅茶の方を好んでいた。もしかしたら、香子はチャレンジしたら珈琲も一緒に楽しんでくれたかもしれないけれど。
「うん、好き。ここに来るまでは飲んだことが無かったんだけどね。今は毎日飲まないと落ち着かないかなぁ」
「一緒ですね。私も一日一杯は飲まないと、なんだか落ち着かないです」
わいわいと珈琲について話しているとあっさりと執務棟にたどりついた。今日も扉の前に警備員ふたりが左右に分かれて立っている。左江子ははっと気が付いた。
「あ、職員証持ってません」
静にはひとりで行動するときは持っていろと言われていた。一応紫が一緒なのでひとりでは無いのだが…どうなのだろう。左江子が目を泳がせていると、「ああ」と紫が言った。
「問題ないよ、私が一緒だから」
そう言って紫は警備員さんに「お疲れ様です」と薄く笑んで声をかけた。警備員さんたちは「お疲れ様です」と答えてちらりと左江子に目をやり、特に何も言わずに扉を開けてくれた。左江子も「お疲れ様です」と言って中へ入った。
「ほらね、大丈夫」
紫はにっこり笑うと受付をちらりと見て、ひらひらと手を振った。赤毛猫耳のお嬢さんもひらひらと手を振る。
「まゆちゃんとはもう話した?」
「まゆさん、ですか?」
「そう、受付の三毛猫ちゃん。まだかな?」
「あ、ここに来た日に番号札をいただきましたが…」
あれは会話とは言わない気がする。ただ受付さんに案内をしていただいただけだ。あとは会釈と手を振っただけなので、全くもって会話は成立していない。
じゃあ行こうか、と紫さんが受付へと促してくれる。左江子たちが近づいていくのに気付いて、『まゆ』さんがにこっと八重歯を見せて笑った。
「まゆちゃん、こんにちは。臨時相談員の左江子さんですよ」
ぽんっと紫が背を叩いてくれる。はっとして、左江子は慌てて挨拶をした。
「遠山左江子です。先日はご案内いただきありがとうございました。ご挨拶が遅れてすいません」
ぺこりと頭を下げると視界の端で三毛の尻尾がゆらゆら
と揺れているのが見えた。
「真弓です、受付です!!こちらこそよろしくね、左江子ちゃん!」
人懐こく笑ってくれた真弓に左江子もほっとして笑った。それにしても、この年になってこうも『ちゃん』づけで呼ばれることになるとは思ってもみなかった。きっと真弓も見た目と違ってそれなりの年齢だったのだろう。決して言及はしないが。
「紫、お休み?」
「そ、有休」
紫と真弓が小さな声で雑談をしている。砕けた様子だが、時折人が近づくと紫がぴたりと口をつぐむのが気になった。
ぎーっと、玄関が開く音がして振り向くと、出先から戻ったのだろう静が入ってきたところだった。
「静さん」
「あら、遠山さん」
静がふわりと品よく微笑み、今日もしずしずと美しく歩いてくる。今日の着物は白藍に流水の地紋が入っている色無地。紺の帯を締め、帯締めと帯紐はちょうど着物と帯の中間の色だ。帯留めには楕円のカボションカットの水色の石がはまっている。実に涼やかだ。
「静、お疲れ様。今日のお使いは終わりですか?」
紫が艶やかに微笑んで静に手を振ると、「ええ、ただいま戻りました」と静が受付前まで歩いてきた。静が真弓に微笑みかけると、真弓も「静ちゃんおかえり!」と八重歯を見せてにっこりと笑った。
「紫。今日はお休みでは無かったの?」
「休みだよ、左江子ちゃんとデートしてきた」
「あらまぁ」
静が左江子を振り返るとぱちぱちと瞬きをした。デートと言うのかどうかは分からないが、ふたりで煩悩川まで出かけたことは確かなのでうんうんと頷いておいた。
「そうでしたか。実は急なお使いだったので誰にも遠山さんのことをお願いできなくて…。まだこちらにいらして数日なのにおひとりにしてしまって…心配していたのです。ありがとう紫、助かりました」
ほっとしたように静が微笑み、紫に軽く頭を下げた。紫も「気にしないで」というようにパタパタと手を振るった。
「すごく楽しかったから。むしろこっちがありがとうだよ」
煩悩川での心の叫びを思い出したのか、紫がくっと口元にこぶしを当てて笑いを耐えた。そんなにおかしかっただろうか?紫はずいぶんと笑い上戸のようだと左江子は思った。静が「それなら良かったです」と優しく笑った。
「静は今から報告?」
「いいえ、今日はこのまま上がって報告は明日の朝の予定です」
「じゃあちょうど良かった。静もカフェテリアへ行かない?今からちょうどお茶をしに行くんだけど」
紫がくいっと視線で二階を示すと、静もちらりと二階を見た。
「良いですね、ぜひご一緒させてください」
遠山さんもよろしいですか?と聞いてくれる静に、「もちろんです」と大きく頷いて言った。くくっと後ろで紫が笑った気配がする。そんな紫を見て静が何とも言えない顔をした。
「それにしても。珍しいですね、紫。あなたが私たち以外に素のままで接しているなんて」
そうなのだろうか。不思議に思って紫を振り向くと、紫が嫣然と笑った。紫は煩悩川へ行ってからとても砕けた様子で話してくれていた。左江子は素直にそういう人なのだろうと思っていたのだが。
そういえば、紫は人が近づくと黙っていたし、少し離れたところに居た静には丁寧に話していた。笑顔も違っていた気がする。
「そうだね、左江子ちゃんの前で作っている自分がちょっと馬鹿らしくなった、かな」
「あらまぁ、それはとても良いことですね」
静が本当に嬉しそうにふふふと笑った。紫も一緒になって笑っている。ふたりが笑っているのなら、それはきっととても良いことなのだろうと左江子は思った。
その後三人でカフェテリアに行き珈琲をいただきつつ話していると、交代の時間になった真弓が合流した。女性が四人、揃えば様々な話に花が咲く。
左江子のお茶飲み友達が増えた素敵な一日だった。