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4.5 幕間 ~煩悩川 1/2

 香子を見送った次の日はお休みということになった。静に別件の用があるからだと言っていたが、左江子が大泣きをしたから…というのも少しはありそうだ。気を使わせてしまったかもしれない。


 幸い、職員棟へ戻る帰り道にたまたま会った銀色美女が左江子の顔を見て大慌てで氷嚢を用意してくれたため、朝起きて目がパンパンに腫れるようなことは無かった。静はカモミールティーのティーバッグとラベンダーのサシェを部屋まで持ってきてくれた。

 それほどまでに左江子の顔が酷かったのか、皆が驚くほど優しいのか…左江子は後者だと思いたかった。


 とはいえ、左江子は十王町へ来たばかり。この町どころかこの十王庁の中のことすら分からない。静は不在だしさてどうしたものか?と思っていると、ノックの音がした。


「あ、はい」


 デスクに座ってぼんやりと外を眺めていた左江子は慌てて立ち上がるとドアを開けた。立っていたのは銀色の美女。長官の部屋へ迎え入れ、左江子に氷嚢を渡してくれたその人だった。


「こんにちは、左江子さん。目はそれほど腫れなかったみたいですね」


 すっと細い指が伸びてきて左江子の目元に微かに触れ、そうしてほっとしたように微笑んだ。今日も銀の目の下の泣きぼくろが麗しい。


「すいません…大変お見苦しいところをお見せしました」


 いたたまれなくて左江子が肩を竦めると、「初めてのときは皆ショックを受けるものですから」と慰めてくれた。そういえばと氷嚢を返そうとすると、また必要になるかもしれないから持っていていいと言われた。左江子としてはできれば大泣きするのはもう避けたいところなのだが。


「今日は静が出かけているので手持無沙汰かと思って。良かったら少し出かけませんか?」

「行きます!」


 左江子が二つ返事で了承すると、その勢いに美女が笑った。


「よろしくお願いします。えっと…」

「ああ、ゆかりです。漢字の紫と書いてゆかり」

「あ、すいません、紫さん。よろしくお願いします」


 何も持たなくていいですよと言われ、左江子は腕時計だけつけてトレンチコートを羽織り部屋を出た。


 ロビーへ降りると、今日も色とりどりの職員たちが思い思いに過ごしているのが目に入る。兎の耳がある人、背中に羽のある人、頭に角のある人、背にたてがみのようなふさふさが付いている人など。

 肌の色も、髪の色も、ひとりとして同じ人はいないのではないかと思えるほど皆とても個性豊かだった。


「…とても、彩り豊かですよね」


 どう言っていいものか悩み、左江子はそう表現してみた。ぱっと左江子の方を見て目を瞠り、何度も瞬きをしてから紫が破顔した。


「なるほど良いですね、その表現。とても良い」


 彩り豊かか、と呟く笑いを含んだ少し低めの声が耳に心地よい。「左江子さんの言葉は優しいですね」とそれこそ優しい目で紫が笑った。

 今日の紫は蘇芳色の色無地の着物に艶のある白っぽい帯を合わせ、帯締めと帯紐は紫紺で統一している。しゅっと背の高い紫の銀の色彩に良く似合っていた。


「十王町の人たちは、みんな自分の好きな姿でいるんですよ」


 紫が目を細めると周囲をゆっくりと見回し、そして左江子に目を戻した。


「好きな姿、ですか?」

「そう、好きな姿」


 こっちへ、と紫が手を引いてくれる。職員棟の外へ出るようだ。


「基本は元の姿のままですが、色彩やちょっとした特徴は自分の好きに…というか、自分の意識に引かれるんです。たとえば私は容姿はそのままで色彩だけ変わっています」


 そう言って体をかがめると、紫は自分の顔を指さしながらひょいと背の低い左江子の顔を覗き込んだ。「泣きぼくろも変わっていませんよ」といたずらっぽく笑う。


「その銀色は、紫さんの意識に引かれて変わったってことですか?」

「そうそう、その通りです」


 体を元に戻すと前を向き、そして「こっち」とまた手を取ってくれる。職員棟から執務棟へ向かう庭園のような道の途中、建物の間を抜けるように脇へそれる小道があった。目的地はこの小道の奥のようだ。

 手を引かれるままに歩いていくと小道の先は小さな森のようになっており、鳥の声と小川のせせらぎが聞こえる。このまま歩くとちょうど職員棟や執務棟の裏側に出るらしい。

 チチチチチ…と囀りながら赤い鳥が飛んでいき、ふと、香子を思い出した。


「何も覚えていなくとも、姿は変わるのでしょうか?」


 ぼんやりと赤い鳥が消えて行った方向を見つめる左江子に、紫は誰を思っているのかに気が付いたようだった。


「元々の基礎になる姿は変わらないですし、服装などの趣味嗜好も反映されます。それはきっと自分の根にある部分だから、記憶を失っても変わらないでしょうね」


 それではあのふわふわと柔らかく愛らしい印象の姿は、香子そのものだったということだろう。


「あんなに若くして亡くなって…記憶を失ってしまうなんて、よほどのことがあったんでしょうか…」


 『生きていた』ということが分からないと、香子は言っていた。それは裏を返せば、『生きている』と実感できるような生き方をしてこなかった、とも取れる。つきりと、左江子の胸が痛んだ。

 沈んだように俯いてしまった左江子を見て、紫がおどけたように言った。


「それは分かりませんよ?」

「え?」

「香子ちゃんはあの通り幼げな少女の姿でしたが…さっきも言った通り、ここではみんな自分の好きな姿でいるんです。つまり、香子ちゃんも自分の好きな姿だったってこと」


 唇に人差し指を当てると、紫がにやりと笑った。


「実は左江子さんよりずーっと年上で亡くなったのだとしても、見ただけではわからないってことです」

「そういうものですか…?」


 話をした感じでも香子はとても幼げで可愛らしかった。左江子を『大人の女性』と呼んだのもそうだが、とてもではないが年上の女性には思えなかった。紫が「んー」と視線を上に向けて何かを考えている。


「ここにいると、徐々に本質に近づくんです。人は本質の上に色々な経験を乗せて自分を作るわけですが、その経験の部分が剥がれて長くここに在れば在るほど…そう、『自分らしく』なるんです」

「それが、外見にも表れると?」

「あ、そこはまた別です」


 なるほど。どうも複雑なのだなということだけが左江子にも分かった。


「大人になると色々なしがらみに縛られて、色々と我慢しちゃうようになるでしょう?その我慢が剥がれていくというか…」


 そう言われてみれば、左江子はここに来てからまだ数日だが、生前よりもずいぶん涙もろい気がする。感情の振り幅もずいぶんと大きい。元々涙腺は弱い方だが飲み込む術も覚えており表情に出ないことも多かったのだが…。

 ふと、自分が大泣きしたことをまた思い出した。あれが自分が本質に近づいたゆえに起きたことならば、なるほど氷嚢は今後も必要になるかもしれない。


「ここです」


 紫にぐいと手を引かれてはっとなる。ずいぶんと考え込みながら歩いていたらしい。目の前には赤く塗られた左江子の肩ほどの高さの柵があり、その向こうには五メートルほどの河原、更に向こうに幅二十メートルほどの川が流れていた。職員棟側から執務棟側へ流れているようだ。


「これはね、煩悩川です」

「ぼ、んのう…ですか…?」


 何とも言えない名前に左江子は思わずじっと川を眺めた。ごくごく普通の、いや、むしろきれいな水の流れる穏やかな川に見えるのだが…。


「そう、煩悩。みんな嫌なことがあったり辛いことがあったりするとこの川に叫ぶんですよ。浮気すんなバカヤロー!とか、失恋しちゃったうわーん!とか」


 紫が声真似をしつつ叫ぶ真似をして見せてくれた。どうも主に恋愛ごとらしい。古今東西、やはり最も煩悩が溜まるのは恋や愛についてということだろうか。そしてふと気づく。ここの人たちは普通に恋愛もするのだなと、左江子は不思議な気持ちになった。


「というわけで、左江子さんも良かったら叫んでみませんか?」


 紫が顔の横に人差し指を立ててにっこりと笑った。


「きっと、すっきりすると思いますよ。胸に抱えたままで過ごすより」


 なぜ紫が今日わざわざ自分の部屋まで来てこの場にいざなってくれたのか、左江子はやっと分かった。左江子の心に引っかかってしまっただろう昨日の出来事を少しでも昇華できるようにと連れてきてくれたのか。

 紫を見上げると、「ね?」と眉を下げて微笑んだ。やはり十王庁の職員は皆、優しいのかもしれない。それもそうか、と左江子は思う。償い人や迷い人、分からぬままにこの地にたどり着く見知らぬものを導く人たちなのだから。

 左江子は紫にひとつ頷くと、川へ向き直った。


 左江子の心に引っかかっていること。胸に抱えてしまっていること…。

 まず頭に浮かぶのは香子の笑った顔。揺れる赤いリボン。流れた一筋の涙と金色の粒。香子が消えて行った、空の流れ。

 上を向けば今日も青い空を二分するようにあのクリーム色の流れがゆらゆらと揺れながら流れている。あの優しい光の中に今、香子はいるのだろう。最期に見たのは本当に幸せそうな笑顔だった。だからきっと、大丈夫だ。


 それから思い出したのは息子の顔、義娘の顔、孫たちの顔。今は亡き祖父や祖母、父や母の顔。先に逝ったため父母を置いて逝かずに済んだのは良かったが、息子家族の親戚が少なくなってしまった。せめてもう少し助けてやりたかったが、病気の左江子では足手まといになりこそすれ何の助けにもなれていなかった。健康であったなら…と思わないではないが、それでも、彼らなら大丈夫だと思える。

 左江子のような母が育てたにしては息子は贔屓目を抜いても良くできた息子だったし、義娘もよくぞ出会ってくれた!と喝采を送りたいほどに良い女性だ。

 あの二人ならきっと孫たちを立派に育て上げ、また自分たちも子にも孫に囲まれて生きるだろう。山も谷もあったとしてもしっかりと乗り越えて行けるはずだ。


 ああ、と左江子は思う。自分は割と心残りが無いのだ。だからこそ迷い人ではなく償い人としてここに居るのだろう。自らの犯した罪は自らのもの。償うのは当然であり左江子に異存はない。

 決してうまく生きることはできなかったけれど、それでも『良い人生だった』と迷わず言えることが、左江子はやはり幸せだと思う。


 考えて、考えて、そうしてひとつだけ思いついた。左江子は大きく息を吸い込んで、目をぎゅっと閉じて叫んだ。


「香子さん!静さん!紫さん!カフェテリアのおじさま!!みんな、みんな、ありがとおおおおおお!!!!」


 左江子は思い切り叫んだ。口の横に両手をメガホンのように添えて、力の限りだ。ここで出会った人たちへ。共に生きたあちらの人たちへ。

 みんな、みんな、ありがとう。左江子はとても幸せだったから。

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