4.一人目 ~生きるということ 3/3
三人で「いただきます」と手を合わせ、銘々に自由に口に運んでいく。静も香子も幸せそうに口元を綻ばせている。左江子もいただこうとスプーンを取り、ゆるく泡立てた生クリームがたっぷりと添えられたぷるぷるのコーヒーゼリーにスプーンを入ようとして、ふと思った。
「香子さん、味見してみますか?」
すっとコーヒーゼリーを差し出すと、上品にホットケーキを切り分けていた香子が目を丸くした。ぴたりとフォークとナイフが止まる。
「え…よろしいの…?」
「はい、ぜひ。せっかくだから挑戦してみませんか?」
美味しいものは皆で食べる。それが左江子のモットーだ。美味しいからこそ自分ひとりではなく分け合いたい。皆にも美味しいと知って欲しい、笑顔になって欲しい。
そんな気持ちで同僚たちにもよく差し入れをしていたのだが、いつの間にか手土産に何を持っていけばいいか?と相談されるようになっていた。美味しいと、思ってくれていたのだろう。
このコーヒーゼリーは初めて食べるがあの紳士が用意してくれたものだ。絶対に美味しくないわけがない。来店二回目にして左江子には妙な確信があった。
香子は逡巡するように目を泳がせると、「はしたなくしてごめんなさいっ!」と小声で呟き、ミルクティのカップに添えられていた小さなスプーンでクリームとコーヒーゼリーを掬い、そうしてえいやっと口に入れた。ぎゅっと目を閉じて咀嚼を繰り返し、香子はかっ!と目を見開いた。
「苦い…ですけれど、お口の中で蕩けて濃厚なクリームと混ざり合って甘さが広がって…その苦さがとても爽やかに感じて…」
「とても美味しいですわ…!」と香子は感動したように両手を頬に当てた。さすがは紳士だ。やはり素晴らしいコーヒーゼリーを用意してくれたらしい。
「珈琲というのは香りは良いのにただ苦いだけかと思っておりましたけれど、これほどに素敵に生まれ変わりますのね…」
ほぅ、とため息を吐き真剣にコーヒーゼリーを見つめる香子にもうひと口勧めると、「まぁ…ありがとうございます!」と先ほどより多めにすくって口に入れた。もぐもぐと咀嚼する様が愛らしく微笑ましい。
「美味しいって、思えることは、とても幸せなことだと思うんです」
そう言うと、左江子もコーヒーゼリーを掬い口に含む。濃厚な香りが口中に広がり鼻を抜ける。クリームの甘さとほろ苦さが混ざり合って何とも至福の味だ。
「生きてるって、思えるんです」
すでに左江子は死んでいるわけでおかしな話なのだが、左江子は心から思う。病気のせいでどんどんと食が細くなり、薬のせいで徐々に味覚も変わったのか永眠る少し前くらいには食事を美味しいと感じなくなった。
義娘が何とか左江子に食べさせようと左江子が好んでいたものや口当たりの良いものを一生懸命探しては持ってきてくれたが、その心遣いをありがたいと思うことはあっても、やはり美味しいとは思えなくなっていた。
舌が美味しいと感じなくなっても心がその思いやりを美味しいと感じたから、少量でも食べることはできていたが。
その後しばらく三人で黙々とデザートを食べた。クリームがたっぷりと挟まったいちごサンドをクリームをこぼさずに食べきった静はさすがだと左江子は思った。
「生きている…」
バターとメープルシロップたっぷりのホットケーキの最後のひと口を丁寧に咀嚼して飲み込んだ後、香子がぽつりと呟いた。ひと足早く食べ終わり珈琲を堪能していた左江子が香子を見ると、ぱちりと目が合った。逸らすタイミングも掴めずしばらく見つめ合っていると、香子が少し視線を下にやり、それから空の流れを見つめた。今日も青い空の真ん中をきらきらゆらゆらと流れていく。
「わたくしね」
香子がぽつりと言う。
「名前以外のことを、何も覚えていないのです」
何歳で、どこに住んで、何をして、そしていつ、どうやって死んだのか。
「死んだのだ、ということは理解できるのです。ですけど…ごめんなさい、うまく言葉にできないわ…」
香子が俯き、小さく肩を落とした。何かを伝えようとしてくれているのだろう。きゅっと唇をひき結び、眉根にも小さくしわが寄る。香子は胸の前で左のこぶしを右の手できゅっと包み込んだ。
「死んだのだということは分かるのに…生きていた、ということが分からないの」
そう言ってまた空の流れを見る香子の瞳は不安げに揺れ、まるで迷子のように見えた。生きていたということが分からない。それはどういう感覚なのだろう。
うーんと少し考えると、左江子は言った。
「香子さん。コーヒーゼリー、美味しかったですか?」
「え?ええ、美味しかったわ、とても。わたくし、本当に驚いたの」
突然の左江子の問いに香子は少し狼狽え、そうして頷いた。空のコーヒーゼリーのグラスをちらりと見ると左江子を見てもう一度頷く。
「では香子さんは、生きているんだと、私は思います」
「…死んでいるのに?」
黒目がちな目をまんまるにして香子が首をかしげる。香子も左江子もあちら側で死を迎え、肉体を手放した。それは間違いなく死だ。
「私たちは死んでいます。でも…美味しいと思えたのなら…。やっぱり私たちは生きているんだとも、思います」
左江子も自分で言っていることが支離滅裂だと思う。語尾がどんどん小さくなっていく。六十も越えて言いたいこともうまく伝えられないとは、なんとも情けないではないか。
静をちらりと見ると、左江子の視線に気づき微笑みを浮かべたまま、何も言わずにゆっくりとひとつ瞬きをした。
「生きている…私は、生きている…?」
香子が窓に手を当てて空の流れを見た。ぼんやりときらきらと揺れる流れを見ながら「生きている…」と何度も繰り返している。そうしてしばらく空を見つめた後、囁くように言った。
「そう、わたくしは、生きていたのね」
香子の瞳から、ふいに涙が一筋流れた。その時。
「き、香子さん!?」
香子の体がきらきらと光っていた。老眼で目がかすんだかと思い左江子は目をこすったが、やはり香子はきらきらとクリーム色に光っていた。
「コーヒーゼリー、とっても美味しかった…。わたくし、また食べたいわ―――あなたと」
香子が左江子を振り向き微笑んだ。淡い金にも見える輝きがどんどん強くなっていく。ふわふわと金の粒が香子の体から発せられるにつれ、香子が薄くなっていく。
「食べましょう、一緒に!何回でも、何十回でも!もっと一緒に、沢山挑戦しましょう!!」
何が起こっているのか分からなかった。けれど、左江子は伝えなければと、それだけを思って叫んだ。
「ええ、きっとよ」
そう言って幸せそうに笑うと、香子は淡く解けて完全に光の粒になり消えた。光の粒は窓ガラスをすり抜けてゆっくりと空へと昇っていく。
「香子さん…!!」
がたりと音を立てて立ち上がり、左江子は香子が座っていた方へ急ぐ。窓に手をつくも、ばんっと音が鳴るだけで当然左江子はすり抜けなかった。
香子の最後のひと粒が、ゆっくりとガラスをすり抜けて行く。そして、香子がいたはずのそこには、綺麗に食べられた空のホットケーキのお皿と、カップに半分ほど残ったミルクティが残された。
「静さん…」
手を窓ガラスに当てたまま混乱した頭で静を振り返ると、静は少し切なそうに微笑み「お疲れさまでした」と言った。
「どういう…?」
外を見るも、もう香子の欠片だった光の粒は見えなくなっていた。左江子はまた静を振り返った。
「納得、したのだと思います」
迷い人を流れに乗せるためには迷い人の『心残りを消す』か、『納得』させるか、『満足』させるか。この三つの方法のどれかだと静は言っていた。香子は今の短い会話の中で、何かに満足したのだろうか?
「いったい何に…?」
そもそも、何が心残りだったのかもわからないのに―――。
「わかりません」
静が目を閉じ、そしてゆっくりと首を横に振った。誰もいなくなった席を見て、空を見て、そうしてまた左江子に視線を移した。
「わかりませんが、香子さんは間違いなく命の流れに乗りました。それだけは確かです」
「命の流れに…?」
「はい。迷い人は条件を満たすと香子さんのように命の光になります。そして空へ昇り、命の流れに乗るのです」
静もそっと窓ガラスに手を置くと、空の上の流れを見つめた。その瞳は凪いでいて、左江子は感情を読み取ることができなかった。
「また…会えますか…?」
ほんのひと時、共に過ごしただけだった。コーヒーゼリーを分け合っただけだった。なのに左江子は香子をとても『恋しい』と思った。そんな左江子に、ひどく優しい目で、言葉を区切るように静は言った。
「きっと、会えます。いつか、必ず。縁さえあれば」
ことり、と音がした。はっと振り向くと、紳士が香子が座っていた席の隣に湯気の立つミルクたっぷりのカフェオレを置いてくれた。左江子を見て静かに頭を下げると、紳士はそのまま戻っていった。
椅子を引き、左江子は香子の隣に座った。そしてカフェオレをふーふーと少し吹いてから口に含む。涙が出るのはきっとカフェオレの優しい甘さがあまりにも美味しすぎるから。これなら香子も絶対に気に入るに違いない、優しい優しい味だった。
「…はいっ、っ、きっと…っ」
泣きながらカフェオレを飲む左江子を、静は泣き止むまで見守ってくれた。
これが、左江子のひとつ目の贖罪だった。