4.一人目 ~生きるということ 2/3
「えっと、これは…」
左江子は困惑した。目の前にある『調書』には、名前以外の記述がほとんどなかったのだ。あるのは女性であることと、恐らく育ちが良いこと。『心残り』の欄にはなんと『?』が書いてある。
「実は黒田香子さんとは私も含め何人かの職員がお話をしたのですが、その心残りがさっぱりと見えてこないのです」
困ったように微笑み静が右手を右の頬に添えた。柔らかそうな白い頬に指が沈む。左江子はもう一度調書へ視線を戻し、数少ない情報を追った。年齢も、生前の居住地も、没年齢も何もない。
「おいくつくらいの方なのでしょうか?」
左江子が聞くと、静が目をぱちぱちと瞬かせた。
「そうですね、分かりません」
「分からない」
きょとんとして繰り返すと、静が調書を見ながら言った。
「十王町の迷い人の方たちは、つい数分前に迷い込んだ方もいれば千年以上もここに留まる方もいらっしゃいます。ですが、その記憶の留め方は千差万別です。たった今迷い込まれても、ご自身の生い立ちや死の状況を朧げにしか覚えていない方もいらっしゃるのです」
左江子ははっきりと覚えていた。最期に握ってくれた五歳の孫娘の手の温かささえ、しっかりと。それは左江子が迷い人ではなく償い人だからなのだろうか。しかし千年とは…本当に途方もない。
「あの、長官の部屋の鏡で見えたりはしないんですか?」
あの重厚な扉の横に置かれていた鏡。あれが浄玻璃鏡ならば映った人間の人生が見えるのではないのだろうか。
「あの鏡は人の生を全て映し出すのではなく、断片的に教えてくれるのだと伺っております。映し出される映像が重要なのか重要でないのか、それすら定かではないとか。そもそも長官を継いだ方しか見ることができませんので、私たちにも詳細は分からないのですが」
なるほど、確かに人の生涯をまるっと鏡で見るとなるとそれなりの早送りでも膨大な時間を要するだろうし、見る側の疲労度も恐ろしいほどだろう。意外と親切設計であることに感心する。役に立っているのかは分からないが。
「ああ、それに」と静が続けた。
「そもそも、あの部屋にたどり着く方が稀なのですよ」
「え?」
問い返した左江子に静かな微笑みを返すと、静はクリアファイルを閉じて左江子に渡した。
「この後十時からカフェテリアで香子さんとお茶を飲むことになっています。まずはそこで、香子さんとお話をなさってみてください」
腕時計を見るとすでに九時四十分。左江子の質問に答えてもらう時間はなさそうだった。
左江子が滞在する部屋は『職員棟』と呼ばれる寮のようなものらしい。職員棟は一号館から三号館まであり、職員は十王町の中であればどこに住むことも許されるがたいていはこの寮のどこかで暮らしているらしい。左江子の部屋は職員棟一号館の三階、食堂は一階にあった。静は二号館に住んでいるらしい。
食堂から出ると大きなホテルのロビーのようになっており、適度な間隔を置いて置かれた応接セットやソファ、ベンチでは、職員と思しき色とりどりの影が思い思いに本を読んだり珈琲を片手に語らったりしていた。
食堂の正面にはガラス張りの正面玄関がある。その正面玄関から向かって左側の階段が一号棟、右側が二号棟、ロビーを挟んで玄関の正面にある食堂と一号棟への階段の間に奥へ入る通路があり、その奥が三号棟に続いているらしい。
カフェテリアは『執務棟』にある。職員棟の正面玄関を出てちょっとした庭園風に整えられた小道を五分ほど進むと、執務棟の扉が見える。二枚扉の木製で自分では開けられそうにないほど大きい。扉の前では警備員と思しき紺のかっちりとした制服に制帽をかぶった男性が左右にひとりずつ立っていた。左の男性はぱっと見は何もなかったが、右側の男性の背後には灰黒色のふさふさな尻尾が揺れている。
「おはようございます」
静が微笑んで会釈をすると、向かって左側の男性が笑顔で、右側の男性が軽く制帽を上げて無表情で「おはようございます」と答えた。耳は…やはりあった。尻尾と同じ灰黒色の大きめの三角が二つ、頭上でぴくぴくと動いていた。
右側の男性がちらりと左江子を見た。そうして胸元の職員証を確認するとひとつ頷き、扉を開けてくれた。
「あ、ありがとうございます、おはようございます…」
左右のふたりを交互に見ながら言うと、やはり左側の男性は笑顔で、右側の男性は無表情で「おはようございます」と答えてくれた。
扉を抜けると吹き抜けのホールになっており、目の前には猫耳赤毛のお嬢さんがいる受付があった。静がお嬢さんに笑顔で軽く会釈をすると、三毛の耳をぴくぴくと動かしながらニッコリ笑って手を振ってくれた。左江子も軽く会釈をして、そしてつられて手を振った。
受付を左右から挟んで包むように、大階段が円を描くように二本伸びている。それを上がり、右手奥へ進むとカフェテリアになっている。長官の執務室は五階らしい。
カフェテリアに着くとちょうど十時五分前。前日に静と美味しいプリン・ア・ラ・モードをいただいた席の窓側に、腰ほどまである黒髪を高い位置でハーフアップにした後姿が見えた。
「香子さん、お待たせいたしました」
静が後ろから声をかけると、その黒髪の女性が立ち上がり振り向いた。
「いいえ、わたくしが少し早く着き過ぎてしまったの」
とても楽しみだったのです、とふわふわと笑うその女性…少女は、年の頃は十六歳くらいだろうか。少し垂れ気味の黒目がちの目をきらきらと輝かせ、赤の紅を引いた口元が品よく弧を描く。静かとはまた違った形の上品さを感じさせた。
朱の地に大輪の白い菊を何輪も織り出した着物に柔らかそうな黒の帯を胸高に文庫で結んでいる。黒と銀の細い組紐の帯紐に貝細工と思しき白く光る花の帯留めが愛らしい。頭上でハーフアップを結わえる赤のリボンが良く似合っていた。
「あらまぁ、それは嬉しいですね」
静がふふふと笑う。それを見た『香子さん』もコロコロと笑った。
「こちら、新しく入った相談員の遠山です。遠山さん、こちらが黒田香子さん」
「遠山左江子と申します、よろしくお願いします」
「黒田香子と申します。香子とお呼びになって。お会いできて嬉しいわ」
ぺこりと頭を下げると、香子が優雅に腰を折った。なるほど、大変育ちが良い様子が端々から見受けられた。静と香子に挟まれ、左江子の背が自然と伸びた。
香子は座っていた席へ、静は反対側の窓際へ、左江子はその通路側へ座る。すかさず虹色尻尾の紳士が「いらっしゃいませ」と水と温かいおしぼりを出してくれた。今日も非常にダンディだ。お礼を言い受け取ると、三人でメニューを眺めた。
お腹の中でまだ朝食の鯖が泳いでいるのだが、どうしても別腹と思ってしまう自分は食い意地が張っているのだろうか…。左江子がちらりとふたりを見ると、ふたりも楽しそうにデザートのメニューを見ている。左江子はほっとした。
静はいちごサンドと今日のブレンド紅茶、香子はホットケーキとミルクティをポットで、左江子は悩みに悩んだ結果、今日の浅煎りブレンド珈琲とコーヒーゼリーを頼んだ。朝から珈琲不足だったのだ。
「左江子さんは珈琲がお好きなのね?」
香子が目を丸くした。やはり大人の女性は違いますのね…と左手を頬に当ててほぅ、とため息を吐いた。その様子がひどく小動物じみて可愛らしい。決して美少女とは言わないが愛嬌のある顔立ちで、品がありながらもくるくると変わる表情を左江子は非常に好ましいと思う。
「はい、大好きです。毎日飲んでいましたよ」
「まぁ、毎日!!」
そんな感じで雑談を続けていると、紳士が今日はワゴンに乗せて注文を運んできてくれた。それぞれの前に間違うことなくデザートと飲み物を置くと、「ごゆっくり」と薄く微笑んで去っていった。
あの虹色の尻尾、どういう感触がするのだろう。触らせて欲しいと言うのはセクハラになるだろうかと左江子は思った。