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4.一人目 ~生きるということ 1/3

 壁際に置かれたベッド。その頭側には腰高窓のある壁があり、それを挟んで向こう側、ベッドとは反対側の壁にかけられた木製のアナログ時計が指すのは六時二十分を少し過ぎたところ。

 ちなみに腰高窓の下にはちょうど外が見えるように木製のデスクが置いてあり、お腹のところにある薄い引き出しを開けると一通りの文具が揃っていた。

 時計のある壁にはドアが二枚付いておりトイレとお風呂に繋がっている。窓の反対側、ベッドの足側にクローゼットがあり、その左側の少しくぼんだスペースの向こうにこの部屋の入口がある。


 昨夜、静からはクローゼットの服を好きに着るように言われていたため何か制服でも入っているのかと思ったが、開けてびっくり、左江子が気に入ってよく着用していた服が三セット分ほど入っていた。それこそ下着から上着まで、一式。引き出しには寝間着や、ハンカチなどの小物まで入っていた。


「うわぁ…」


 思わず口から洩れたのは感嘆ではなく困惑だった。そういえば、と左江子はクローゼットの扉の裏に付いていた姿見をのぞき込む。

 左江子は病院のベッドで寝間着で永眠ねむっていたはずなのに、当たり前のように白のシャツにグレーのストレートパンツ、つま先がスクエアになった黒いレザーのフラットシューズにミドル丈のトレンチコートを羽織っている。『いつもの左江子』だ。―――元気な時の。


 左江子が頬に触れると、鏡の中の自分も頬に触れた。頬には肉が戻り、落ちくぼんだ目の下に深く濃く刻まれていた黒々とした()()もない。年相応のしわはあるが目元はふっくらとしていた。


「ああ、そうなんだ」


 呟き、自分の手を見た。骨と皮ではない。筋張ってはいるもののごくごく普通の健康な手。左江子の体は、左江子が健康に動けていたころの姿だった。

 しばらくぼんやりと姿見の中の自分と見つめ合うと、左江子は引き出しに入っていたパジャマを手に取り浴室へ向かった。太る心配などしたのはいつぶりだっただろう。


 そうして今、またもクローゼットを開けて左江子は着替えを選んでいる。選ぶまでもないのだが。

 白いコットンの長袖カットソーの上に白い詰襟のシャツ、ボタンは一つだけ開けて。黒のクロップドパンツに昨日と同じ黒のフラットシューズを履く。そうして、トレンチコートよりも少し色の濃いテーラードジャケットを上から羽織った。


「うん、よし」


 いつもの左江子のできあがりだ。


「あ」


 いや、違う。ひとつ忘れていた。

 クローゼットの棚の上にそっと置かれていた小さな箱を開けると、中には満月色をした文字盤の、金属ベルトの腕時計が入っている。

 息子が成人した年、頑張った自分へのご褒美として奮発して買った左江子の宝物。左江子のお守り。

 昨夜、風呂へ入るときに自分の左手首にこの腕時計を見つけ、左江子は少し泣きそうになった。


 白の多い髪にブラシを通し、眉をほんの少し書き足し、いつもの色の口紅を塗る。化粧品は左江子の生前の使いさしではなく新品だった。本当にこの地の摂理が分からない。

 時計をちらりと見ると七時五十分を指していた。ぐーっと、左江子のお腹が鳴る。


 元々左江子は早起きだ。五時前には起き出してぱたぱたと動き回り、六時半には朝食を食べていた。ベッドとデスクセット以外に置かれた唯一の家具である小さな冷蔵庫の上に、電気ポットとカップ、お茶やインスタントコーヒーとちょっとしたお菓子があった。それらを準備の合間に摘まんではみたが、やはりお腹も心も物足りない。あの虹色尻尾の紳士のコーヒーが恋しい。


 八時に針の動きがひとつ分足りないぐらいになった時、こんこんこん、とドアが叩かれた。「はい」と内開きのドアを開けると今日もしずしずと静がそこに立っていた。まるで芍薬の花のようだ。


「おはようございます、遠山さん。よく眠れましたか?」

「おはようございます、静さん。とてもよく眠れました」


 左江子は本当に、驚くほどぐっすりと眠った。日夜身を苛んでいたあの痛みもない、心の底からひび割れてしまいそうなあの渇きもない。左江子はただ、朝まで『眠る』という行為を久方ぶりに堪能したのだ。そして、今も感じるこの空腹感…。

 思い出した途端、左江子のお腹がまたぐーっと鳴いた。


「朝食へ参りましょう。お待たせしてしまいましたね」


 「あらまぁ」と笑い、静がいざなってくれた。「はい、すいません…」と恥ずかしさに肩を竦めると、「今日はお勧めのメニューがあるのですよ」と静が笑みを深めた。左江子はとても幸せだった。



 食堂で静お勧めの『朝の焼き魚定食』をいただく。日替わりで魚の種類や調理法が変わるらしいのだが、今日の焼き魚はシンプルに昆布と塩で漬け込んだ鯖だった。

 じゅわじゅわと音を立てる塩鯖にはぎゅっとよく絞られた大根おろしに醤油を垂らしたものが付いている。みそ汁は豆腐とわかめと葱。小鉢にきんぴらごぼうときゅうりの糠漬けが二枚。そこにご飯――左江子は雑穀米を選んだが――がついてくる。ご飯は大中小からサイズが選べるらしい。


「まずはこちらをお渡ししておきますね」


 窓際の席に座ると、静が思い出したように肩に下げていたバッグから何かを取り出した。名刺サイズのカードの入ったクリアケースに黄色い紐が付いている。カードには『相談員 遠山左江子』と書かれていた。


「こちらが職員証になります。おひとりで行動する際には必ずこちらを首から下げていてくださいね」


 黄色い紐が非常勤である証らしい。正職員は青い紐らしいのだが、静ほどの古参になると持ち歩くだけで首には下げなくても平気らしい。そういえば、昨日の銀髪美女も首からは何も下げていなかった。


「詳しい説明は後ほどいたします。まずは温かいうちにお食事をいただきましょう」


 左江子と同じ朝の焼き魚定食を前に、そわそわとした様子で静が手を合わせる。左江子も手を合わせ、ふたりで「いただきます」と言うと、いそいそと箸を取った。


 まずはみそ汁からいただくべきかと思ったが、左江子は迷わず塩鯖に箸を入れた。パリッと焼けた皮を箸で破るとじゅわっと熱い脂が溢れ出す。ほんの少しの大根おろしを乗せて口に放り込むと、程よい塩気と鯖の甘い脂が口いっぱいに広がった。臭みなど、どこかへきれいさっぱり置いてきたようだ。

 ふと前を見ると、静も嬉しそうに咀嚼している。きっと左江子も同じような顔をしているはずだ。名残惜しそうに飲み込み「美味しいですね」と蕩けるように笑う静に、左江子も「美味しいです」と笑った。

 日々の糧である食事を美味しいと感じることができること。それはとても、本当にとても幸せなことなのだ。ましてや「美味しいね」と微笑みあえる人がいることは。


 その後は黙々と、夢中で食事を続け、お互いの食器が綺麗に空になると静がお盆を脇に寄せ備え付けの布巾で軽くテーブルを拭くと、お茶を飲みつつ一冊のクリップファイルをテーブルに乗せた。左江子も同じようにお盆を脇に寄せテーブルを拭く。そうして、静が左江子の方へ寄せてくれたクリップファイルを見た。


「こちらが、遠山さんにご担当いただくひとり目の迷い人です」


 クリップファイルに挟まれていたのは履歴書のような一枚の紙で、『調書』とある。氏名の欄には『黒田香子くろだきょうこ』とあった。


1エピソード3話。本日中に3話投稿いたします。

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