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5.二人目 ~虹の橋 8/11

『5.二人目』はペットの死を扱います。

苦手な方、心に大きな傷のある方はご注意くださいませ。



 両手で顔をおおい震える奈々を左江子はじっと見つめていた。


 奈々の後悔はあまりにも身近であまりにも痛い。誰しも同じような失敗をしたことはあるはずだ。ただ、取り返しがつくかつかないかの違いだけ。

 けれど中途半端な同情などきっと何の意味も無い。左江子なら、何が分かると怒るかもしれない。


 だからこそ、肩を震わせ涙を流し続ける奈々を左江子はただ真っ直ぐに見て、ただ真っ直ぐに聞いた。


「じゃあ、奈々さんはどうしてここにいるんですか」

「…え?」


 顔を上げた奈々の瞳が不安げに揺れている。真っ赤に腫れた目元が痛々しい。

 思わず『大丈夫だよ』と手を伸ばしそうになったが、ぎゅっとこぶしを握ると何の感情も乗せないように、何の感情も見せないように、左江子は努めて淡々と言った。


「なぜ虹の橋に行かず、ここに留まるんですか」

「なぜ、って……」

「奈々さんはミィちゃんを大切にしていたんでしょう?だったらミィちゃんを探しに行ってみればいい」


 奈々は目を大きく見開き、そうしてぐしゃりと顔を思い切り歪めた。


「分かってるわよそんなこと!!!」


 がちゃん!と紅茶のカップが鳴った。奈々が両手でテーブルを叩いたのだ。そして、まるで血を吐くように、嗚咽を漏らしながら叫んだ。


「怖いのよ…!あの子がっ…ミィがっ、居ないかも、しれないって…っ、こんな私のことなんて、許して、くれないかもしれないって!!!だけど、だけど居るかもしれないから…っ、だからそのまま、消えることもできないんじゃない!!」

「ですがもしもミィちゃんが待ってくれているのに奈々さんが行かなかったらミィちゃんは虹の橋でずっと永遠に来ない奈々さんを待つことになります。また待つんです。あの橋で、一匹で、ずっとずっと、待ち続けることになるんです」

「分かってるわ!分かってるけど!!」


  泣きじゃくりながら「でも」と繰り返す奈々の手を、左江子はそっと握った。そうして、奈々の握りしめたこぶしをぽんぽんと叩くと、指を一つ一つ開いていった。手のひらに残る赤い爪の跡が痛々しい。


 痛いなと、左江子は思った。怖いという感情は期待するから覚えるものだ。けれどその期待のせいで動けないのもまた事実。きっと奈々はひとりでは踏み出すことができなかったのだ、ずっと。

 話すことは…さらけ出すことは痛みを伴う。その痛みを受け止めてくれる人も理解してくれる人もいないこの地で、奈々はきっとひとりで自分の心と戦っていたのだろう。


「だったら、行ってみましょう」


 開いた奈々の両の手のひらを温めるように自分の手のひらを乗せ、左江子が言った。


「行ってみましょう、虹の橋へ。一緒に」

「…え?」


 奈々は顔を上げると左江子を見た。左江子の瞳にも涙が浮かんでいるだろう。きっと鼻だって赤くなっているはずだ。

 左江子が奈々の目をじっと見つめたまま頷くと奈々の瞳が揺れた。奈々の唇が何かを言おうとして小さく開かれ、けれどもまたぐっと強く引き結ばれた。


 宥めるようにあやすように左江子がぽん、ぽん、と奈々の手を叩いていると、何かを考えるように俯いていた奈々がおずおずと視線を上げ、上目遣いに左江子を見た。


「でも…もし居なかったら…?」


 左江子が首を傾げると、奈々は何度も鼻をすすりながら続けた。


「もし、ミィが虹の橋で待っていてくれなかったら?もし、やっぱりミィに嫌われてしまっていたら?もし、私のことなんて忘れてもう他の飼い主を見つけていたら…?そんなの無理よ…耐えられない…。ミィが大切に愛されるのは嬉しいけどそれが私じゃないのは嫌。他の人の所にいるなんて絶対に嫌。そんなの………そんなの耐えられない……!そんなの、私は知りたくない……!!」


 唇を噛みしめてふるふると首を何度も横に振る奈々に、左江子は何度も頷いた。


 虹の橋に居ないのならばただすでに流れに乗っているだけだ。

 もしかしたらすでに別の人の腕の中で幸せに眠っているかもしれない。愛され、大切にされているかもしれない。けれど、そんな可能性すら否定したくていまだに奈々はここから動けずにいるのろう。


「居なかったら…私は、どうしたら良いのよ…………」


 奈々がまた握り締めようとした手をぎゅっと握り、左江子はまっすぐに奈々の目を見て言った。


「泣きます」

「え?」

「泣きます、一緒に」


 左江子にできることは何もない。こうして話を聞かせてくれた今も、どうしてあげれば良いのかさっぱりと分からない。還暦もとうに越しているというのにうまい言葉も出てきてくれない。そんな左江子にも、奈々と共に泣くことならできる。大切な宝物の話を共有できたように。


「泣きます」


 もう一度真剣な顔で繰り返した左江子に、「何よそれ…」と言いながらも奈々は苦く笑った。


「あなた馬鹿じゃないの……」


 奈々が大きく息を吸い込んで天を仰ぎ、そのまま目を閉じた。奈々の喉が震え涙が溢れ続けている。両手で顔を覆いそのまま静かに泣き続ける奈々を、左江子は黙って見守り続けた。


 どれくらい時間が経ったのだろう。はぁ、と息を吐くと、顔を覆ったまま奈々が震える声で言った。


「………私よりも思いっきり不細工な顔で、私よりももっと大きな声で、泣いてよね」 

「はい、努力します」


 左江子は大真面目な顔をして頷いた。顔おおおっていた手をおろして左江子を見た奈々は「あはは…」と力なく笑った。


「鼻、真っ赤よ。そんな顔で大真面目に頷かれても面白いだけだわ」

「そんな気はしています」


 左江子が苦笑すると、奈々はふるふると首を横に振った。


「でも……ありがと。嬉しいわ……」


 左江子もまた首を横に振ると、奈々が一度目を閉じ、ため息をひとつ吐いて目を開けた。


「―――行くわ」


 頷くと、奈々はぎゅっと左江子の手を握った。


「行くわ、虹の橋。一緒に来て」


 来てくれるんでしょう?とまたほろほろと泣きながら淡く笑う奈々に、左江子もぎゅっと手を握り返した。


「もちろんです。一緒に泣きましょう」


 ミィが居ても居なくても。左江子には奈々よりももっとひどく泣く自信があった。元より涙もろい左江子だが、最近は本質に近づいたせいか更に酷くなっている。

 ずいぶんと昔、左江子の心がまだ素直に泣けた頃。左江子は月が綺麗なだけで泣いたことがあるくらいだから。


「何でミィがいない前提なのよ」


 力強く頷いた左江子に奈々は呆れたように笑った。奈々の涙はまだ涙は止まらないけれど、笑顔はすっきりとした、清々しいものだった。


 今日も例外なく受付にいた真弓に声をかけ、ぎょっとっされながらも行き先を告げて左江子は奈々と一緒に虹の橋へ向かった。奈々の顔は泣き腫らしたままだし、左江子の顔も大差ないくらいに酷いものだった。


 一応ふたりとも顔を洗い軽く化粧も直したのだが、赤味は誤魔化せても腫れは当然誤魔化せなかった。しっかりと腫れたまぶたにすれ違う職員たちの心配そうな視線と「何があった!?」と言わんばかりの困惑の視線が少し痛かったが、そこは仕方がないと左江子は甘んじて受けることにした。


 帰ったら奈々の分の氷嚢も用意しよう。これは絶対に冷やさなくては駄目だ。

 だが今は、必ず奈々を虹の橋へ連れて行かなくてはと左江子はぎゅっと奈々の手を握った。


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