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5.二人目 ~虹の橋 6/11

『5.二人目』はペットの死を扱います。

苦手な方、心に大きな傷のある方はご注意くださいませ。



「は、猫?」

「はい、猫です」


 奈々の動きがぴたりと止まった。紅茶のカップをソーサーに置き、いぶかしげな顔で探るように左江子を見つめている。

 逃げるか留まるか…悩んで腰が引けている近所の猫にそっくりだ。ここで対応を間違えると逃げられてしまうのだが、左江子の勝率は五分五分だった。


 手元に伏せた調書には、奈々の心残りは『猫』と書いてある。これまで常勤、臨時問わず数々の相談員が対話を試み、恐らく『猫』に絡む何かだろうというところまでは突き止めているらしい。ただし、同時に『地雷』とも書いてあるので危険なキーワードとしても認識されている。左江子はあえて地雷を踏み抜きに行ったのだ。


 かわいいですよねぇと左江子がにっこりと笑うと、奈々は逡巡するように少し目を泳がせた後で何とも言えない顔で頷いた。


「そうね…嫌いじゃない、わ」


 紳士のチーズケーキと紅茶の力か、左江子は五分五分の勝負に見事に勝った。

 思いの外落ち着いて答えてくれた奈々は窓の外、クリーム色の空へと目を向けた。奈々の瞳が揺れている。今日も空の真ん中には柔らかく光る命の流れが一方向へと流れていく。


 ぼんやりと空を見つめる奈々が「猫、か…」とぽつりと小さく呟いた。


「ところで」

「うん?」

「奈々さんはなぜ十王町に来たんですか?」

「………は?」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのはきっとこういう顔を言うのだろう。ぎょっというか、きょとんというか…老若男女、人も猫も、こういう顔はとても可愛いと左江子は思う。


「なぜって………」


 あまりにも脈絡のない左江子の質問にぽかんと口を開けていた奈々が次第に呆れ顔になっていく。


「心残りがあって成仏できないから私はここに残されてるんでしょう?」


 私の意志で来たわけじゃないわよね?と奈々は困ったように眉を寄せ首を傾げている。


 そういえば十王庁の人たちは命の流れに乗ることを成仏とは言わない。

 命の流れに乗ると自己が消えるのだから仏教的には成仏でも間違いないのだろうが、こちらはあちら側のどの宗教ともぴったりと当てはまる場所では無いため成仏とは言わないそうだ。十王庁なのに。静が日本・仏教支部だとも言っていたので左江子はそういうものだと飲み込んでいる。他にはどんな支部があるのだろう。大変気になる。


「そうだと思います。で、奈々さんの心残りって何でしょう?」


 何のひねりもなく言って左江子は首を傾げた。左江子はあまり口が上手くない。言葉を選ぼうとするとなぜか誤解を生むことが多いので、大事なことほど直球を信条としている。


「ねえ、あなた…変わってるって言われない?」


 奈々は左江子を気の毒なものを見るような目で見ながら言った。

 左江子には『普通の人』が良く分からない。変な人と言われる方がしっくりくる。そういうところがきっと変わっているのだろう。


「良く言われます。誉め言葉だと受け取っていますよ」


 左江子がにっこりと笑うと、奈々は「あ、そう…」と苦笑いをして紅茶に口を付けた。奈々の表情から力が抜けたことに左江子はほっとした。肩ひじを張って生きるのはとても疲れるのだ。


 紅茶をソーサーに戻すと奈々は左手で自分の頬を撫で、目を細めて視線を下へ向けると「ん-…」と何かを考えるように唸った。視線を上げると、奈々は左江子をちらりと見てぽつりと言った。


「虹の橋って、あるでしょう?」

「はい、ありますね」


 左江子が頷くと、奈々はまた言葉を探すようにテーブルの上の紅茶のカップに視線を落とした。

 じっと何かを考えるようにカップを見つめ、ゆっくりとカップを持ち上げてもうひと口紅茶を飲み、そうしてまたカップをソーサーに戻すと奈々はまた窓の方へと目を向けた。


「―――気になるのよ。虹の橋が」


 二階の応接室の窓からは、十王町には季節が無いはずなのに初夏の日差しに揺れるような淡い緑の若葉が見えた。その上の空には今日も淡く光る流れがある。左江子もまた、奈々と同じようにぼんやりと空を眺めた。


 どれくらいそうしていたのだろう。しばらくの沈黙の後、左江子は窓の外を見つめたままでぽつりと言った。


「私の猫は、サビ色なんです」

「え?」


 驚いたように声を上げた奈々をゆっくりと振り返ると目がしっかりと合った。左江子は奈々に淡く微笑むと少しだけ視線を落とした。


「色が分からないくらい混ざったサビ色の小さな猫で、いつまで経ってもさっぱり大きくならなくて、細くて、不細工で、何とも薄幸そうな顔をした猫でした」


 目を閉じれば今でもはっきりと思い出せるその面影を、左江子はぽつりぽつりと言葉にした。


「猫なのに薄幸そうってどうなのよ?って思っていたのですが、逆に愛しくて可愛くて……」


 言葉を止めた左江子の顔にため息とともに苦い笑みが浮かぶ。本当の話だ。左江子の大切な大切な、たった三ヶ月しか共に生きられなかった小さな小さな猫の話。


「相談員さん…」


 奈々が痛ましいものを見るように左江子を呼んだ。

 きっと奈々も気が付いたのだろう、自分たちは近しい()()を抱えるものだと。 

 

「奈々さんの猫さんは、どんな猫さんですか?」


 調書にはっきりと書いていないが間違いなくいると左江子は確信している。ただの猫ではなく『奈々の猫』が。きっと、奈々が虹の橋が気になって仕方がない理由の子が奈々の心の中にはいる。


 奈々が驚いたように目を見開いた。「あ…」と視線を逸らすと目を細め、しばらく目を閉じたのち、奈々はため息とともに顔を上げて左江子を見た。


「白い猫よ…毛の長い、ふわふわの大きな毛玉みたいな猫」


 奈々が、眉をハの字に下げて痛みを堪えるように微笑んだ。そうして視線を落とすと口角を上げ、ひとつひとつ、思い出すように言葉を紡いだ。

 

「拾ったときは手のひらに乗っちゃうくらい小さかったのに、気が付いたら十キロを超えていてね…抱き上げるたびに重くて、だんだん手がしびれちゃってね…」


 奈々の両手のふらがまるで何かを抱き上げるように下から上へ動いた。奈々はその手をじっと見つめている。


「でも、真っ青な目が綺麗な、ふわふわの白い毛が柔らかくてとっても綺麗な、可愛くて、温かくて…優しい子よ」


 奈々が左江子を見て、まるで大切な宝物を手のひらで包むように、優しく優しく、切なげに笑った。奈々の猫はやはりいたのだ。


「それは、とても吸い甲斐がある猫さんですね」


 左江子が両手のひらを上に向け、抱き上げるようにしてにんまりと笑うと、奈々の表情がぱっと明るくなった。


「そうなのよ、お腹に顔を入れてぐりぐりするととても気持ちが良くて!でも嫌みたいでちょっと我慢した後にすぐ猫パンチされちゃうのよ!!」


 くすくすと奈々が笑っている。きっと嫌がる顔を思い出したのだろう、奈々の目は最初のあのツンツン具合が嘘のようにひどく優しい。目をキラキラとさせて奈々が続けて教えてくれる。


「猫パンチはするんだけどぜんぜん爪を出さないから痛くなくって。だから私も懲りずに何度でもぐりぐりしちゃうのよね」

「分かります。嫌そうな顔もまた可愛いんですよね」

「そうなのよ!!」


 身を乗り出して頷いた奈々に、左江子は破顔した。


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